【59】 人工呼吸だと思ってキスをすればいい
時間ピッタリに、坂口大輔はマイカーを小竹由夏のマンションの前に停めた。すぐに由夏がマンションから出てきた。由夏は、大きなマスクとつばの広い日よけ帽をかぶっていた。由夏が自分でドアを開け、大輔の車に乗った。
由夏「お待たせしました」
大輔「ううん、ぜんぜん」
大輔はすぐに車を走らせた。
大輔「夕食は?」
由夏「済ませたわ。坂口さんは?」
大輔「うん、コンビニで。ちゃちゃちゃっと」
由夏「そうよね。男の人は、そんな感じよね」
大輔「はい。適当に走りますが、どこか行きたいところでもありますか?」
由夏「いいえ、ないわ。すべて任せます」
大輔「はい、では、荒川沿いを、東京へと。静かで車が少ないから」
由夏「うん。変な格好でごめんね。笑っちゃうでしょ?」
大きなマスク越しに言った。
大輔「別に。なんでもOKです。まったく気にしませんから」
由夏「知り合いに見られても、絶対にばれないように変装してきたの」
大輔「ははははは。完璧です」
由夏「でしょう。まだ同じ課なのに、噂になりたくないから」
大輔「そうですね。同感です」
大輔は、車の中に小竹由夏の体から出る、シャンプー類の良い香りを感じ取っていた。
大輔(小竹さんも風呂上りなんだ。小竹さんも、勝負下着でも着けているのかな?)
由夏「でも、良かった。坂口さんから電話もらえて」
大輔「そうですか?」
由夏「しかも、こうして会えて」
大輔「私が付き合いのOKを出したのですから、別にどちらかの異動を待たなくてもいいんじゃないですか?」
由夏「ありがとう。良かった、そう言ってもらえて」
大輔「私は、無理はしないようにしていますから。自分の気持ちのまま素直に行動しています」
由夏「そうよね。坂口さんはそうだと思うわ」
大輔「小竹さんは違うんですか?」
由夏「なんか、見栄を張っちゃうのよね。悪い癖ね」
大輔「役職に就いているし、部下もいるから仕方ないんじゃないですか」
由夏「なんか、そうやってフォローしてもらうと落ち着くわ。職場じゃフォローしてくれる人もいないし、頼れる人もいないし」
大輔「私で良ければ、こうやっていくらでも話を聞きますよ。愚痴でもいいし」
由夏「ありがとう。うれしいわ。でも、たくさん愚痴を言ったら、私を嫌いになると思うわ」
大輔「そうですね。そうかも。その時は、こんど私の愚痴を聞いてもらいますよ」
由夏「ふふふふふ。それは、良い考えね。さすがよ」
大輔「お互いに、職場で受けた傷をなめ合えば、治るんじゃないですか?」
そう言ってから、自分で自分の言った言葉にハッとした。潤平が、
『最後別れ際にキスをしてあげれば』
『人工呼吸だと思ってキスをすればいい』
と、言っていたのを思い出した。
一方、聞いていた由夏も『なめ合えば』の言葉に一瞬ドキッとした。
由夏(なに、ドキッとしているんだろう。単純な言い回しをしてくれただけなのに。私、なにを期待しているんだろう?)
慌てて、大輔が
大輔「隣の担当の加藤さん、」
由夏「ええ、今回異動するわね」
大輔「加藤さんの異動先が収税課とは、ひどいですね。税金支払いの催促や差し押さえなど出来るのかなぁ?」
由夏「そうね、市役所で最も過酷な職場ですからね」
大輔「まだ若いし、ふたつ目の課が収税課とは」
由夏「でも、国民健康保険課から収税課って、けっこうお決まりのコースでもあるのよ」
大輔「そうなんだぁ」
二人は、今日あった人事異動の内示を受けて、それにまつわる話を続けた。
大輔は、内示の話をしながらも頭の中は、キスをするタイミングだけを考えていた。




