【56】 人事異動の内示
大輔「そうですね。いいですよ」
二つ返事だった。
由夏「本当?」
大輔「はい」
由夏「じゃあ、次の異動、どっちか異動するように祈っちゃおうかな?」
由夏は両手を合わせ、子どもみたいにはしゃいでいた。
大輔「ははははは。係長は仕事の時と、仕事以外の時と、まったく変わるんですね」
由夏「そうよ。仕事中は、市民の目も職員の目もありますからね」
◇
美浦市役所では、年に1回人事異動を行っていた。そして、その内示の発表は、月末の日から一週間前と決まっていた。そして今日がその内示の日であった。
一般職員に知らされるのは午後2時が通例で、職員は午後になるとそわそわし始めた。サラリーマンに取っては、悲喜交々のドラマ的な一瞬である。この人事異動がもたらす影響はとてつもなく大きい。中には、退職、転職を余儀なくされる者もいる。
住民課では、人口を水増しした古岡が主任から係長へ。係長の宇野が主幹になった。主幹とは、係長と課長の間の職である。そして課長の鬼塚は次長となり住民課長兼務となった。それぞれが市長の意向で昇進していた。
午後2時、国民健康保険課。茂森早紀課長が部長室から戻って来た。
課長「内示を発表します。みなさん、そのまま聞いてください」
職員は、自分の机で仕事をしている者、窓口で応対している者、軽作業をしている者、様々だった。
課長が『4月1日付け人事異動者一覧表』を片手に発表した。
課長「異動する者は、」
係長の小竹由夏は、ドキドキしていた。普段ほとんど動揺しない由夏が、平常心を失っていた。事務を執る振りをしてボールペンを持ち、下を向きながら思わず目をつぶった。
由夏(私か、坂口さん、どちらかが異動しますように)
課長「森口さん、渡辺さん、」
由夏(次かな?)
課長「中村さん、加藤さん」
由夏(あとは?)
課長「鈴木さん」
由夏(あとは?)
課長「以上5名です」
由夏(えっ! もう終わり!!!)
課長「異動者一覧表を置いておきますので、先に今回の異動者がこの一覧表で異動先を確認し、今日中に異動先に挨拶に行ってください。その後、平沼さんに各担当の分、コピーしていただきますので、担当ごとにコピーで異動者の確認をしてください」
担当は「保険証発行」「保険税」「後期高齢者」と、3つの担当がある。
由夏は、課長の後半部分の話を聞いていなかった。異動者の名前だけ聞き終わった時点で、気が遠くなりそうだった。過去、高校受験でも、大学受験でも、勝ち組だったのに、初めて負け組に入ってしまった気分だった。
由夏(この前のファーストフード店での出来事は、なんだったんだろう? ぬか喜び?)
由夏は、自分の人生で過去にないほど落ち込んだ。
由夏(休暇票を出して、帰りたい!)
同じ「保険証発行」担当の森口歩み(もりぐち・あゆみ)が、
歩み「異動先、公園緑地課だわ、なんで?」
由夏(でも、帰らない。こんなことで、私の気持ちをみんなに見抜かれたくないわ)
「後期高齢者」担当の渡辺育美が、
育美「私は、市民病院。わーっ、通うのが遠くなるわ」
由夏(私が坂口さんを好きなこと、絶対にばれないようにしなくちゃ。絶対に!)
由夏にはプライドがあった。
平沼潤平が『異動者一覧表』を3部コピーして、各担当に1部ずつ配付した。由夏は、それに目もくれなかった。
歩み「この係、好きだったのになぁー」
潤平「公園緑地課とはねぇ。公園だけでも市内に100か所あるし、維持管理からクレーム処理まで大変そうですね」
歩み「うん。もう、がっかりよ。ショックだわ」
育美「市内に公園が100か所もあるなんて知らなかったぁ」
潤平「この前の昇任試験で出題されたらしいよ。『市内の公園の数は?』って。もっとも『50・100・150・200』の4択問題だけれどね」
育美「平沼さんは、受けたんですか?」
潤平「いや、まだ受けるだけの在職年数も足りてないし、考えたことないなぁ」
育美「昇任試験って、良くないですよね」
潤平「どうして?」
育美「だって、受験する職員は仕事中に受験勉強して、電話や窓口にも出なくなっちゃうんですって。他の課の人に聞きました」
潤平「ありそうな話だね。他の市役所では、試験で昇任するのではなく『360度評価』で、昇任を決める所もあるのにね」
育美「『360度評価』って?」




