【35】 よく行く喫茶店
奈美と博之が結婚して7年が経った。
二人の間に、男の子がひとり授かった。長男海斗は6歳。二人はごく平凡な幸せな家庭を築いていた。その後、博之は転勤となり、今勤めている所から30kmぐらい離れた税務署へ配置替えとなった。
しばらくは新しい勤務先でうまくやっていたのだが、上司の命令で、ある喫茶店を税務調査するころから博之の気持ちに変化が生じてきたのだった。
博之はお昼休みによく行く喫茶店があった。店名は『ブランチ』、老夫婦、阿部真澄(あべ・ますみ・76歳)と妻阿部志津(あべ・しづ・74歳)が二人で切り盛りし、その店には他の税務署職員もよく来ていた。店のオーナーでもあるその老夫婦の会話から、老夫婦の息子は家を出て自立していることも博之は知っていた。
博之が勤務する税務署。
上司の寺原昇治が、部下の松島博之に業務を指示した。
上司「喫茶店『ブランチ』を調査してくれ」
博之「『ブランチ』ですか?」
その喫茶店『ブランチ』は、税務署から歩いて5分ほどの距離にあり、8年ほど前から老夫婦が店を開けていた。
博之(あの老夫婦が脱税?)
博之は考え込んだ。
上司「何か文句でもあるのか?」
博之「いいえ」
上司「こんな『利益無し』なんて申告、あり得ないだろ」
老夫婦が書いた確定申告書を手に持っていた。
上司「利益無しでどうやって食べていけるんだ」
その書かれた確定申告書を寺原が空中で揺らした。
博之「はい、でも世の中には、もっと大きな額をごまかしている者が居るでしょう?」
上司「じゃぁお前は何かぁ、少しならごまかしても黙って見逃せって言うのか? しかもそれを上司に向かって言っているのか!」
寺原のカミナリが落ちた。
博之「いえ、そうは申しておりません。私が申し上げたいのは、優先順位があるんじゃないですか? って、ことです。税務調査するにも、もっと大口で脱税しているところがあると思います。そこから始めた方が」
上司「あの老夫婦はな、A銀行に毎月2万円ずつ貯金をしているんだよ! A銀行に照会してわかっているんだよ。所得もない夫婦が、なんで貯金が出来るんだ!」
博之「それはわかりますが、一般の納税者から税務署は最小の経費で最大の効果をあげることを望まれております。それを考えたらもっと効率の良い調査をするべきではないかと」
上司「ばかやろう!!! お前は、所長か? 俺とお前とどっちが上なんだ? 俺に口答えするなんて十年早い。良く覚えとけ!」
博之「……」
博之が黙って上司を睨みつけた。
上司「なんだその目は、」
博之「……」
上司「何か文句でもあるのか!」
博之「いえ、なにも」




