3話 はじめての笑顔
日が落ちるにつれ、道の輪郭が曖昧になっていく。
味のしないパンを食べながら歩き続けると少しずつ森が見えてきた。
「ここ、か」
想像していたよりも深い森だった。
木々の隙間に見える闇は、俺が入るのを拒むように果てしなく続いている。
ごくりと唾を飲み込んだ。
それでも、この決断をしたのは俺だから。
余裕のなさを誤魔化すように、額の汗を拭い頬を両手で叩く。
「行くか!」
◇◇◇
森の中は空気が全然違った。
むせ返るような強い緑の匂いは、時として人に襲い掛かってくる。
「……ん?」
木々の奥から視線を感じた。
道らしい道もあまりなく、どこまでも飲み込まれてしまいそうになる。
ここはもう、人の領域ではないのだ。
セツはどんな気持ちで通っていたのだろう。
それを考えるほど、胸の奥が冷えていった。
月明かりを頼りにしばらく歩くと、獣の遠吠えが轟いた。
俺に対する警告、あるいは別の意味があるのか。
「ふっ!」
試しに剣を振ってみる。
だが非力な俺が、重い剣で魔物を両断しているイメージはできなかった。
◇◇◇
森の奥深くに辿り着いた瞬間、咆哮が聞こえた。
異常なまでの獣臭。
血の匂いと、鈍い唸り声。
木々の奥から何かが近づいてくる。
闇の中で赤い眼光がギラついていた。
「ようやくお出ましか」
やがて、ゆっくりとその正体を現した。
「グルル……」
体長一メートルを超える、黒い狼。
俺を見定めるように、ゆっくりと周囲を旋回している。
毛並みは黒く濁り、牙には何かを喰らったような血がこびりついている。
そして、ただの狼ではない理由がその背中にあった。
——その狼は盾を背負っていた。
そんな姿の獣はありえない。
もし後ろに回り込めても、その盾に阻まれるだろう。
異形の獣。
それは、魔物と呼ぶにふさわしい姿だった。
「さて、あの村長を信じてみるか?」
魔物から視線を逸さず、ポケットからスマホを取り出しカメラを向けた。
カシャッ!
「グルルゥ……!」
魔物は一度ビクッとし、俺を警戒している。
「いや、やる前から分かりきってたが。うん」
当たり前だが、撮影しても何も起こらなかった。
——クソッ!
剣を持ち直し、その切先を魔物に向けた。
「ガル……オォォォオオッッ!!」
魔物が吠える。
次の瞬間、俺へ突進してきた。
闇雲に剣を振っても当たるはずがない。
ならば、その頭にカウンターを合わせる形で——
「なっ!!」
——速い。
十メートルは離れていた距離が一瞬で詰められる。
「喰らいっ……やがれ!!」
それでもどこか、慢心していたのかもしれない。
この立派な剣があれば、なんとかなるだろうと——
「ガルッ、ガアッッ!!」
魔物は俺を嘲笑うかのように剣を避け、その鋼に鋭牙を食い込ませた。
——ギギギ、ギリ、ガリッ
噛みつかれた剣からは嫌な音が続き、そして——
バキン!!
「なっ!?」
唯一の武器が、まるで氷細工のように砕け散った。
「嘘……だろ」
「グウゥ! ガウッッ!!」
「ぐああああああっ!!」
至近距離からの魔物の突進。
なすすべもなく吹っ飛ばされて、背後の木に激突した。
……痛ぇ。なんだこれ。
俺は、何を思いあがっていたんだ。
込み上がってくる何かを我慢できず、口から吐き出す。
——赤き、俺の命の源。
セツを助けるとか、慣れない正義感を振りかざしたくせに……なんてざまだ。
「ガルル……」
魔物は破壊した剣を足で踏みつけ、俺を観察している。
痛みで頭が働かない。
……ここまで、か……。
「バエル様っ!」
「……え」
——この血生臭い戦場に似つかない声が聞こえた。
死の前の幻聴を疑ったが、その姿を見た瞬間、はっきりと意識が覚醒した。
「……お、お前、なぜここにいる!?」
そこには俺が助けると決めた少女が、両手を広げて立っていた。
「拙のために、バエル様が危険な目に遭うのは間違っています! 逃げてください」
「な、何を! 勝てる相手じゃないのはわかるだろ!」
「ガル……」
魔物がセツに向かった。
「ダメだ! 逃げろ! セツ!!」
「……拙のために、村長に怒ってくれて、嬉しかったです。それだけで、拙は、報われます」
「やめろおおおおぉぉぉ!!」
「ガアアアアッ!!」
魔物の突撃で、セツが宙に舞った。
俺は痛みを忘れ、セツの身体を受け止めるために走り出す。
「ぐうぅぅ!!」
身体が悲鳴を上げるが、そんなの知ったことじゃない。
「ッッッ!!!!」
ズサーッ!!
湿った土をスライディングして俺はセツを抱き止めた。
「はぁ……ぁ……!」
「バ……エル、様」
なんとか間に合った——
セツは俺の名を呼ぶと、気を失うように目を閉じた。
「グルルゥ」
「ッざけんな……これで終わりなんて。そんなこと、あって……たまるか!」
なんでもいい。
……なんでもいいから!
俺に——セツを守る力を。
その時、月光に照らされた黒い端末を目にした。
スライディングした拍子にポケットから落ちたのだろう。
あの草原でセツと出会ったことで、その存在をすっかり忘れていた。
そういえばセツが、カードとか言っていた気がする。
——もう、これに賭けるしかない。
がむしゃらにスマホを手に取り、カードの名前を叫んだ。
「……“ソード”!!!」
カッ!
俺の呼びかけに応えるように、カードから光が溢れた。
「な、なんだ!?」
次の瞬間、空中にそれは現れた。
——剣だ。
実体化した剣が、ゆっくりと俺の手に収まった。
「カードから……剣が出てきた」
「ガル……ッ」
それまで余裕を見せていた魔物は、その剣を見ると豹変したように唸った。
「はは、なんだよこれ。夢を見てるみたいだ」
鋼とは思えないほど軽い剣。
これなら魔物にも当てられるかもしれない。
「うおおおお!!」
俺は、初めて自分から魔物に斬りかかった。
切っ先が魔物の尾をかすめる。
躱されたが、剣は身体の一部のように動かせた。
「当た……れぇ!!」
キィイイン!
とうとう刀身が魔物に届いた。
だが避けられないと悟ったか、身体を反転させ、背中の盾で刃を受け止めていた。
「オオォォン!」
盾は硬く、このまま攻撃を続けてもダメージは通らないように見える。
だが、カードはこの剣だけじゃない!
「“ストレングス”!」
再び光が溢れてカードが発動した。
「これでどうだ!」
キィィン!
再び剣が魔物に触れるも、やはり背中の盾で阻まれた。
「グウゥ!!!」
——攻撃が効いた。
「すげぇ……」
俺の筋力そのものが引き上げられている。
これは明らかに強化のカード。
ならば——ならばあの盾を、破壊する!
「この力なら!」
「ガウッ! ギィ……」
盾にヒビが入った!
今まで味わったことのない高揚感が身体中を駆け巡る。
剣の柄を力強く握り込んだ。
「……ガアア!!!」
背を向け、剣を受ける態勢。
だが、その盾では荷が重いんじゃないか。
カードによる能力の上昇を受けた、この剣ならば——!
「終わりだ! でぇぇぇえええ!!」
キン……バキッ! バキィイィィィン!
剣が魔物の象徴である盾を粉砕し、無防備な背中に一撃を入れた。
「ガァア! ガ……ガヒ」
致命傷を負った魔物が地に崩れ落ちた。
それを見届けた剣が、スゥ……と、粒子になり消滅していく。
「ハァ……ハァッ!」
心臓が痛い。
だが、休んでいる暇などない。
「……セツ!」
駆け寄ると、うっすらと目を開け俺を見ていた。
「セツ! 大丈夫か!?」
「バエル……様。“撮影者”、だったのですね」
——撮影者という言葉。
俺にもようやく、村長やセツがそれを本気で言っていることを理解した。
「バエル様が、守ってくれました」
魔物の油断にも助けられた。
この結果はそれ以外の何物でもない。
「痛むはずだ。無理するな」
「大丈夫です。それにもし、拙に何かあっても、誰も気にしません……拙は、ひとりぼっち、ですから」
言葉が、まるで他人事のように聞こえた。
「お前——」
ああ、そうか。
やっと繋がった。
セツは、誰からも必要とされていない。
ずっとそう思い生きてきたのだろう。
ならば、せめて俺だけは。
俺だけはそんな風に思わせたくない。
「——俺が、お前の居場所になる!」
「……え?」
セツが驚いた顔でこちらを見ている。
その目を見て、はっきりと伝えた。
「俺が生きている限り、お前の居場所はなくならない。もうセツは……ひとりぼっちじゃない」
どんな時でも俺だけはセツの味方でいる。
それが、バエルとして生きると決めた俺の最初の誓いだった。
「——」
しばらく放心状態だったセツ。
その頬に、一筋の雫が流れ落ちた。
「あ、えっ? 拙は、どうして」
その勢いは止まらず、気がつくと両目から溢れだした。
「悲しくなんて、ないのに……違うんです! 拙は、拙はぁ!」
「……今までよくがんばったな」
銀色の髪を優しく撫で、セツが落ち着くまで静かに傍にいた。
「……取り乱してすみません。なんだかバエル様といると、不思議なことばかりです」
「まぁ、なんだ。これからは他人じゃないんだし、そのバエル様っていうのはやめないか?」
「はい。バエル……さん」
セツは照れくさそうに俺の名を呼んだ。
「改めてよろしく、セツ」
「……はいっ」
初めて見るセツの笑顔。
まるで開花した一輪の花のような。
——それを見た瞬間、無意識にスマホを構えていた。
“カシャッ”!!
「……俺は、一体何を——」
その瞬間、キィンと音が響いた。
突然目の前に粒子が舞い、その中に何かが現れた。
「これは……え!?」
たった今、俺が撮った写真。
『セツの笑顔』
それが、カードになって実体化したのだった——




