7.第三王子と伝説の諜報員(1)
まだ日も昇りきらない早朝。
青嵐宮の訓練場から、ヒュンと空を切る音が響く。
(こんな朝早くから、訓練している者がいるのか?)
ちょうど通勤途中だったエドガーは、なんとなく訓練場の中を覗く。そこには、思いもよらない人物がいた。
「殿下?」
無心で剣を振っていたレニオスは動きを止め、エドガーのほうを見た。
「エドガー? 随分早いな?」
「目が覚めてしまったので、朝一の会議の資料をもう一度確認しようかと。……殿下がこんなに朝早くから剣の鍛錬をするなんて、珍しいですね?」
「……体が訛っていたから鍛え直そうと思っただけだ」
「体が?」
エドガーは眉根を寄せる。
レニオスは忙しくても毎日運動の時間を確保しており、体は訛っていないはず。
そこまで考えて、ハッとする。
(もしかして、昨日のエノレアの発言のせいか?)
『強い人がいいです。お父さんより強い人!』
理想の相手について聞いたとき、エノレアは確かにそう言っていた。
エドガーは汗をぬぐうレニオスを窺い見る。
「どれくらい鍛錬したのですか?」
「一時間ほどだ」
朝からそんなに張り切っては、日中眠くなってしまわないだろうか。
(そんなにエノレアの発言を気にしているのか)
からかいたい。しかし、からかうと百倍返しになるのは目に見えている。
「何か言いたげだな?」
「いえ、なんでもございません」
すぐさま首を横に振ったが、口元に隠しきれない笑みが浮かぶ。
レニオスはすっと目を眇めた。
「……エドガー。お前、最近運動不足だとぼやいていなかったか?」
「は? 何を言って──」
言っていない。そんなことは、断じて言っていない。
「ちょうどいい。剣を受ける相手をしろ」
「うわっ! 危なっ!」
レニオスは訓練場の隅に置いてある練習用の剣を手に取ると、それをエドガーに向かって投げる。エドガーは慌ててそれを受け取めた。
「練習用の剣だ。刃は潰してある」
「そういう問題じゃないでしょ」
「煩い。始めるぞ」
そう言いながら、レニオスはエドガーに剣を振り下ろす。
エドガーはとっさに剣を構えると、その攻撃を受け止めた。
カキーンと大きな音が響く。
レインズ侯爵家の嫡男として英才教育を受けてきたので、実は剣もそこそこ扱えるのだ。
「お見事でした。では、私は──」
「どこに行く。鍛錬はまだ始まったばかりだぞ」
ふっと笑ったレニオスは、勢いよく剣を振るう。エドガーは慌てて体勢を整えると、その剣を受け止めた。
「八十七……八十八……」
きっちり百回振ったところで、レニオスはようやく剣を振る腕を止める。
額からは、汗がしたたり落ちていた。
「よし。そろそろ戻るか」
「朝から一時間自主練した上に打ち込み百回とかおかしいですよ。あー、痛ったー。腱鞘炎で書類が捲れなくなったらどうしてくれるんですか!」
「どうもしない。自分でなんとかしろ」
レニオスは冷ややかに言い放つ。
ひとまず終わったようだと安心する一方で、腕が使い物にならないのではと本気で心配になった。
両手を握ったり開いたりするが、ほとんど感覚がない。レニオスはこの前にさらに一時間剣を振っているのだから驚きだ。
「これ絶対筋肉痛になります」
「そうか。明日も頼む」
「私の話、聞いてます?」
エドガーは唖然として、レニオスを見る。当のレニオスはどこ吹く風で涼しい顔をしていた。
そのときだ。
「あれ?」
聞きなれた高い声が、訓練場に響く。
「レニオス殿下にエドガー様。こんなところでどうしたんですか?」
駆け寄ってきたのは、ちょうど出勤してきたエノレアだ。
「エドガーと、久しぶりに朝の鍛錬をしていた」
「エドガー様とレニオス殿下が⁉ いいですね。私も今朝、打ち込み三百回してきました」
「今朝? 三百?」
エドガーは思わず聞き返す。どうか聞き間違えであってほしいと願いながら。
「はい。父に、それくらいやらないと体が訛るからと言われて。日課なんです」
エノレアは笑顔で頷く。
聞き間違えではなかった。そしてハッとする。
(殿下はまだ百回……)
ちらっと見ると、レニオスは明らかにショックを受けていた。
「じゃあ、先に私は行きますね。お二人とも頑張ってください。また後で」
エノレアは朗らかに微笑み手を振ると、その場から立ち去る。
エドガーは嫌な予感を感じながら、その場に立ち尽くすレニオスを窺った。
「殿下。我々も戻りましょうか」
「……エドガー。気が変わった。あと二百回付き合え」
「本気ですか⁉」
嫌な予感が的中した。
(あと二百回……)
今日は手が震えて、仕事どころではなくなりそうだ。




