4.第三王子と万能令嬢(8)
「お前が力持ちなのと、この資料を運ぶのは別問題だ。少しは加減を知れ」
レニオスはエノレアの顔を見ながら、淡々と告げる。
「昨日も深夜まで残っていただろう」
「よく知っていますね。あと少しで終わりそうだったので」
「食事は?」
「食べました」
「何を食べた?」
「バターを塗ったパンを四切れです」
「それは食事とは呼ばない」
ぴしゃりと言われ、エノレアは口をつぐんだ。
「でも、父は胃の中に入って消化されれば全部食事だと言っていました」
「一体お前がどういう食事をこれまでしてきたのか、非常に興味深いな」
「今度作ってあげましょうか? 塩味です」
「いや、遠慮しておこう」
レニオスの背後で、エドガーが肩を震わせている。笑いを堪えているのは明らかだった。
「エドガー」
「はいっ」
「何がおかしい」
「いいえ、何も。殿下は実に部下思いでいらっしゃるなと」
「部下の体調を管理するのも上司の役目だ」
レニオスは真顔で言い切る。
「なるほど。さすが殿下です。私の不徳の致すところでした」
エドガーは神妙な面持ちで頭を下げる。
エノレアの直属の上司はエドガーなので、体調管理するとすればエドガーの仕事だ。
「…………」
なぜかレニオスの眉間のしわが、ますます深くなった。
エドガーは今度こそ吹き出し、慌てて咳払いで誤魔化す。
「半分、運んでやれ」
「はい」
「それと、そいつに食事を用意してやれ。食べ終わるまで仕事には戻るな」
レニオスはそれだけ言うと、つかつかと自分の執務室のほうに歩いて行った。
エドガーは書類を半分エノレアから受け取ると、一緒に執務室へと歩き出す。
「エノレア」
「はい」
「殿下にものすごく大切にされている自覚はありますか?」
「もちろんです。部下思いで素敵な方ですね」
エノレアは力強く頷く。
「ははっ、そうだね。……エノレアが貴族令嬢だったらよかったのですが……」
エドガーがぼそりと呟いた言葉は、小さすぎて聞き取れなかった。
「今、なんて?」
「いや、なんでもありません。殿下の未来が幸せに満ちたものであることを祈っただけです」
「なるほど。では、私も一緒に祈ります」
エノレアは朗らかに微笑んだ。
その翌日こと。
オリバーと話をしていたエノレアは、書類を捲る手を止めた。
「ロングレイン侯爵令嬢が、青嵐宮へ?」
「うん。リリアナ・ロングレイン侯爵令嬢だよ。何日か前に、エドガー様から準備を整えるように指示されたんだ。近いうちに、青嵐宮へ上がる予定」
「上がるってどういう意味?」
「レニオス様の専属侍女として、お仕えするんだよ」
エノレアは目を瞬かせる。
「侯爵令嬢が侍女に?」
エノレアの知る限り、侍女は求人の募集を見た平民や低位貴族がお金を稼ぐためになるものだ。
「高位貴族の令嬢が、王族に侍女として仕えて行儀見習いすることは珍しくないよ。将来、王族や上位貴族へ嫁ぐための経験になるからね」
「そうなのね。知らなかったわ」
片田舎の村で育ったエノレアは、貴族社会に詳しくない。青嵐宮で働き始めてからだいぶ詳しくはなったが、高位貴族特有の習慣となると知らないことのほうが多かった。
「もっとも、今回は単なる行儀見習いじゃないと思う」
オリバーが声を潜める。
「何か事情があるの?」
「ロングレイン侯爵家はリーヴ有数の名門家門で、王太子選出に影響力を持っている。現在レニオス殿下に近いが、完全に支持を固めているわけじゃない」
「つまり、ロングレイン侯爵家との関係を深めるために受け入れるってこと?」
「うん、そういうこと」
オリバーは頷いた。
この国の王太子は国王が決めるが、完全に国王の一存で決まるわけではない。
王子たちの実績や能力を踏まえた上で、最終的には議会の承認を得て選出される。そのため王子たちは、国王に認められるだけでなく、議員や有力貴族からの支持も集める必要があるのだ。
「それに、リリアナ嬢はレニオス殿下の妃候補の筆頭だしね。専属侍女になればお手付きになることが多いし、もうほとんど確定じゃないかな」
その言葉を聞いた瞬間、エノレアの胸がざわめいた。
「……妃候補?」
「そう。年齢も家柄も申し分ないし、ロングレイン侯爵家としても殿下との縁談を望んでいるみたいだよ」
「そう、なんだ」
エノレアは手元の書類へ視線を落とした。
胸の奥が妙に落ち着かない。ここから逃げ出したいような、そんな衝動に駆られる。
(私、どうしたんだろう?)
王太子を目指すレニオスには、いずれ妃が必要になる。優れた家柄を持ち、彼の傍らに立って支えられるような令嬢が。
その点、ロングレイン侯爵令嬢は話を聞く限り申し分のない相手だ。
それなのに、なぜか気持ちが重くなる。
「エノレア?」
オリバーに呼ばれ、はっと顔を上げた。
「どうしたの? なんか顔色が悪いけど?」
「ううん、そんなことないわ」
エノレアは笑ってごまかす。
「ロングレイン侯爵家が味方になれば、殿下の王太子選出に有利になるってことよね?」
「まあ、そうだね」
「それなら、喜ばしいことよね?」
自分に言い聞かせるように、口にした。
そう思わなければならないような、焦燥感に駆られる。
「エノレア……」
オリバーは何か言いたげに口を開きかけたが、結局何も言わなかった。
エノレアは仕事をしようと、書類を読む。
だが、なぜか内容が頭に入ってこない。
(……妃候補)
先ほど聞いたその単語が頭の中で繰り返されて、ちっとも集中できなかった。




