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第8話 受難

 

  前章「修繕」

 朝だった。


 湊は店の前にカブを引き出して、地面に新聞紙を敷いた。工具箱を開けて、スパナを一本手に取った。それだけのことを、順番通りにやった。


 フロントフォークは無残だった。金属が捻じれ、フォークのチューブが折れた枝のように垂れている。前輪は辛うじてついていたが、軸がずれていた。真っ直ぐ走れる状態ではなかった——走れる状態ではない、という以前に、これはもう部品として終わっていた。


 湊はしゃがんで、折れたフォークに触れた。


 金属は冷たかった。夜の間、外に置かれていたせいだった。湊は両手でフォークを掴み、ボルトの位置を確かめた。固着していた。力を込めて回すと、錆びた音がして、少し動いた。


 工具を換えた。また回した。


 源じいが出てきたのは、湊が二本目のボルトを外している最中だった。老人は湊の傍に来て、カブを見て、湊を見た。何も言わなかった。しゃがんで、カブの下をのぞき込んだ。それからまた立ち上がって、店の中に戻った。


 しばらくして、茶が来た。


 新聞紙の端に置かれた。湊は礼を言わなかった。源じいも何も言わなかった。足音が遠ざかって、引き戸が閉まった。


 湊は茶を一口飲んで、また工具を握った。


 ---


 フォークを外し終えたのは、茶が冷めた頃だった。


 部品を新聞紙の上に並べた。使えるものと、使えないものに分けた。使えないものの方が多かった。フォークのチューブは両方とも駄目だった。ステムベアリングも確認が必要だった。部品を取り寄せる必要があった。


 湊は使えないフォークのチューブを手に取って、しばらく見た。


 見ていたのはチューブではなかった。


 あの一呼吸の間のことを考えていた。言葉を放った瞬間に気配が止まった、あの刹那。忠長は聞いていた。湊が何を持ってきたかを、確かめていた。そして案内人の流儀だとわかって、切り捨てた。


 あの間に、自分は何を言えばよかったのか。


 答えは出なかった。出ないまま、湊はチューブを新聞紙の上に置いた。使えないものの列に、並べた。


 リリは来なかった。


 店の中に気配はあった。いるのはわかった。ただ、来なかった。湊はそのことを、今朝はありがたいと思った。何かを言われる前に、自分の中で終わっていないことがあった。


 湊はまたしゃがんで、ステムベアリングの確認を始めた。


 

 中章「美晴の過去」


 美晴が来たのは、昼を過ぎた頃だった。


 案件の気配はなかった。美晴が案件を持ち込むときは、来る前から空気が変わる。今日は変わっていなかった。ただ、いつものように気配なく戸口に現れて、店の前にしゃがんでいる湊を見た。


 湊は顔を上げた。


「何か持ち込みか」


「いいえ」


 それだけ言って、美晴は湊の横に来た。しゃがむでもなく、立ったまま、カブを見た。外されたフォーク、並べられた部品、使えないものの列。それを順番に見て、最後に湊を見た。


 湊は工具を持ったまま、美晴を見返した。


 美晴は何も言わなかった。湊も何も言わなかった。美晴は店の壁に背をもたれて、腕を組んだ。そのまま、しばらくそこにいた。


 湊はまた作業に戻った。


 ベアリングの状態を確かめながら、美晴の気配を背中で感じていた。何かを言おうとしているのか、言うまいとしているのか、判断がつかなかった。美晴がこういう立ち方をするのは、湊の知る限り、初めてだった。


「一人、いました」


 美晴が言った。


 湊は手を止めなかった。


「私が、どうしても回路を見つけられなかった存在が」


 美晴の声は、いつもと同じ温度だった。低く、平坦で、感情の起伏がなかった。ただ、いつもより少しだけ、間があった。言葉と言葉の間に、呼吸が一つ入るような間が。


「陰陽道の観点からも、霊格の観点からも、接触できないはずの存在ではなかった。私の力が及ばない格でもなかった。ただ——」


 美晴はそこで止まった。


 湊はベアリングから手を離して、膝の上で工具を持ったまま、地面を見た。


「届かなかった」


 美晴が続けた。


「私が持っていた言葉は、すべて陰陽師の言葉だった。術式として正確で、理として正しかった。それが、その存在には——意味をなさなかった」


 湊はゆっくり顔を上げた。美晴の横顔を見た。


 美晴は壁にもたれたまま、どこか遠い場所を見ていた。過去を見ているわけではなかった。ただ、今この瞬間から少し遠い場所を、静かに見ていた。


「そのとき私は何をしたか」


 湊は何も言わなかった。


「撤退しました。力でも術でもなく、判断として。その存在を前に、私の持っているものでは届かないと判断して、引いた」


「……それで」


「その存在は今も、どこかにいます」


 美晴の目が、少し動いた。遠い場所から、もう少し近い場所へ。


「解決していません。私は届かなかった。引いた。それだけです」


 湊は工具を地面に置いた。膝に両手をついて、少しの間、美晴の横顔を見た。


 美晴は湊を見なかった。参考にしろとも言わなかった。同じだとも言わなかった。ただ話して、そこに立っていた。


「……なんで、今日それを話した」


 湊が聞いた。


 美晴は少しの間、黙った。


「わかりません」


 嘘ではなかった。湊にはわかった。美晴が嘘をつくときと、本当にわからないときの違いは、もう判断できた。


 美晴は壁から背を離した。


「カブ、いつ頃直りますか」


「部品次第だ。早くて三日」


「そうですか」


 それだけ言って、美晴は去った。


 湊はしばらく、美晴が消えた方向を見ていた。それから工具を拾い上げて、また作業に戻った。


 手の動きは、午前中と少し変わっていた。湊自身は気づいていなかった。


後章「器を空にする」


 夜になった。


 源じいは早めに奥へ引っ込んだ。リリの気配が店の中にあった。湊はカウンターに座らず、店の中央に——金襴の座布団から三歩ほど離れた場所に——直接腰を下ろした。畳の上に胡坐をかいて、座布団を見た。


 忠長の気配は、まだあった。


 薄かった。昨夜の、重力が変わるような圧ではなかった。しかし確実にそこにあった。座布団を中心に、空気が少しだけ重かった。


 湊は近づかなかった。


 ただ、同じ空間に、座っていた。


 どのくらいそうしていたかわからない。リリが来たのは、店の外を車が一台通り過ぎた後だった。リリは湊を見て、座布団を見て、また湊を見た。何も言わずに湊の横に来て、畳の上に座った。


 二人で、座布団を見た。


 ジャズは流れていなかった。昨夜から、レコードプレーヤーには誰も触れていなかった。静かだった。


 湊が口を開いたのは、しばらく経ってからだった。


「……あいつは、何を待ってたんだろうな」


 忠長への問いではなかった。自分への問いだった。


 リリは答えなかった。


「案内人が来た、って思ったんじゃないのか。あの一呼吸の間——あいつは確かに、待ってた。何かを。俺の言葉を聞いて、それが案内人の言葉だってわかって、切り捨てた」


 湊は膝に肘をついて、座布団を見続けた。


「案内人の言葉じゃなかったら、どうだったんだろうな」


 リリは何も言わなかった。


 代わりに、湊の手に自分の手を重ねようとした。半透明の指が湊の手の甲に触れかけて、すり抜けた。リリは手を退けなかった。すり抜けたまま、そこに置いていた。


 湊はリリの手を見た。見えるか見えないかの透明度で、そこにあった。


「……お前は、なんで毎回そうするんだ」


 静かな声だった。責めていなかった。


 リリは少しの間、黙った。


「さあ」


 短く答えた。それきり黙った。


 湊は座布団に視線を戻した。


 忠長の気配が、薄く、そこにあった。湊はそれを感じながら、あの一呼吸の間のことを考えた。今夜は答えを出そうとしなかった。ただ、何を自分が持っていなかったかを——案内人の流儀ではない何かを、忠長が待っていたとすれば、それが何かを——静かに考えた。


 器を空にする、ということを考えた。


 自分がこれまで積み上げてきた流儀を、一度どこかに置く。そうしたとき、自分の中に何が残るか。残ったもので、あの一呼吸の間に、何を言えるか。


 答えは出なかった。


 出なくていい夜だった。


 ---


 あの部屋の確認に行ったのは、夜更けだった。


 鍵を開けた。


 緑の光があった。昨夜より、少し長く点いていた。点滅の間隔が、少しだけ戻っていた。消えてはいなかった。


 湊はその光を見て、少しの間、扉の枠に手をついて立っていた。


 昨夜は見ていられなかった。今夜は見られた。それだけのことだったが、湊にはそれで十分だった。


 鍵をかけた。


 ---


 店に戻ると、リリはもういなかった。


 源じいも寝ていた。美晴の気配もなかった。


 湊は工具箱を持ってきて、店の前に出た。夜中だった。街灯の下で、カブの残りの作業を始めた。部品はまだ来ていない。来ていない部品の代わりに、来ている部品を磨いた。使えるものを、使える状態に保つ作業だった。


 意味があるかどうかはわからなかった。


 ただ、手を動かしていた。


 夜風が来た。工具が金属に当たる音が、静かな夜に小さく響いた。


 湊は磨きながら、あの一呼吸の間のことを、また考えた。今夜は答えを出そうとしなかった。ただ、手を動かしながら、考えていた。


 それで十分だった。

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