第8話:驕執の壁 ―祓い師の敗北―
1.
道徹が九条の引き戸を開けたのは、誰も呼んでいない時刻だった。
湊はカウンターで、使い物にならなくなったカブのフロントフォークを眺めていた。曲がった鉄が、蛍光灯の光を歪めて反射している。
「まだ生きていたか」
道徹が湊を一瞥し、壊れたカブを見た。それだけだった。
リリが壁の奥から道徹を睨んだ。湊は「来るなら連絡しろ」とだけ言った。道徹は答えなかった。
美晴が奥から茶を持って現れ、道徹の前に置いた。道徹は座らなかった。
「忠長の澱みが、私の結界を侵食し始めた。放置できない」
「だから来た、か」湊は立ち上がった。「俺も行く」
「足手まといだ」
「美晴が言え」
美晴が静かに割り込んだ。「案内人が必要です」
道徹は一度だけ美晴を見て、それから外に向かって歩き出した。
2.
湊は徒歩だった。
カブのない湊の足取りを、道徹は一度も待たなかった。美晴が湊の隣を歩いた。リリが湊の少し後ろをついてくる。
忠長の空間に入る手前、道徹が結界の境界を確認し、美晴が印を結んだ。湊はただ、拳を握った。手のひらの中に、あの部屋から持ち出した石があった。
「私が前に出る」道徹が言った。「お前たちは下がれ」
湊は何も言わなかった。
3.
忠長の空間は、前回より濃くなっていた。
漆黒の城郭が四方を囲み、空気そのものが重かった。道徹が前に出て、術を構えた。これまで幾千の霊を祓ってきた、蘆屋の血が宿る祓いだった。
忠長が現れた。
道徹の術が走った瞬間、跳ね返された。
音もなかった。衝撃だけがあった。道徹の体が吹き飛び、城郭の壁に叩きつけられた。それでも道徹は立ち上がった。再び術を構えた。
また跳ね返された。
今度は膝をついた。それでも顔を上げた。三度目を構えようとした。
「やめろ」
湊が道徹の腕を掴んだ。
道徹が振り払おうとした。湊が離さなかった。
「あいつは今、お前が力を使うたびに喰ってる。続けたら死ぬ」
道徹の腕から、力が抜けた。
忠長が二人を見下ろし、冷笑した。美晴の結界が軋む音がした。
「撤退します」美晴が叫んだ。
4.
九条に戻った。
道徹は縁側に座り、動かなかった。湊は安酒の瓶を一本、無言で道徹の隣に置いた。道徹は見なかった。しかしその場を離れなかった。
リリが湊の耳元で囁いた。「……あの人、初めて黙ったわね」
湊は答えなかった。
あの部屋の鍵を開ける。緑の点滅は、まだ弱いままだった。湊はしばらくそれを見つめ、扉を閉めた。
縁側に戻ると、道徹はまだそこにいた。安酒の瓶は、まだ手をつけられていなかった。
古美術「九条」に、今夜もジャズは流れなかった。




