第7話 駿河大納言忠長卿
前章「澱みの来訪」
最初に崩れたのは、棚の隅に押し込まれていた小さな伊万里の皿だった。
かちん、と音もなく床に落ちて、割れた。
湊はカウンターの端に肘をついたまま、その音を聞いた。振り返らなかった。振り返れなかった、と言う方が正確だった。腹の底に何か重いものが溜まっていて、上半身を動かすたびにそれが揺れる感じがした。
続いて染付の徳利が落ちた。江戸期の根付。台湾から来た茶壺。
誰の手も触れていない。それでもひとつずつ、順を追うように落下していく。
湊はグラスを置いた。置いた拍子に手が小刻みに震えているのに気づいて、グラスから手を離した。カウンターに両手をついて、息をゆっくり吐く。腹の重さが喉元まで迫り上がってきた。口を押さえた。飲み込んだ。
レコードプレーヤーの針が盤面を滑り、ジャズが不協和音に化けた。
その音の中で、リリの気配が変わったのがわかった。
湊が顔を上げると、リリは壁際にいた。壁にもたれようとして、できていなかった。半透明の背中が壁をすり抜けてしまうのに気づいて、それでも壁の傍から離れられないでいる。両腕を己の胴に巻きつけるようにして、膝が折れかけていた。
リリは幽霊だ。怖がるということを、湊はほとんど見たことがない。
「……湊」
声が出るまでに、少し時間がかかった。
「逃げて」
それだけ言った。それ以上の言葉を探して、見つからないような顔だった。
「これまでとは桁が違う。悲しみも未練もない——」
リリは一度口を閉じた。言葉を選んでいるのではなかった。感じているものを言語にする作業が、追いついていない顔だった。
「ここにあるのは、底なしの『選民意識』と『怒り』だけよ。湊、あたしには近づくことすらできない。触れたら、あたしが——」
そこで止まった。続きを言わなかった。
玄関の引き戸が、激しく開いた。
源じいだった。
白髪が乱れていた。普段の源じいは、どんな案件が持ち込まれても、まず茶を淹れる。依頼人が泣いていても、リリが怯えていても、湊が吐血していても、先に茶を淹れる。それが源じいという人間だった。
今夜は茶を淹れなかった。
駆け込んだ老人は湊の肩を両手で掴み、真正面から顔を見た。皺の奥の目が、湊の見たことのない色をしていた。
「受けるな」
「……源じい」
「これは迷霊ではない」
源じいは湊の肩を掴んだまま、放さなかった。
「湊、よく聞け。自らを神と信じ込み、世界を呪う怪物に変質した存在だ。駿河大納言——忠長だ」
その名前を言うとき、源じいは一瞬だけ目を伏せた。怖れではなかった。それは、知っている者だけが持つ種類の——諦めに似た、重さだった。
店の中央に、それはあった。
畳の上に、誰も置いた覚えのない金襴の座布団が鎮座している。金糸が縦横に走り、縁には龍の刺繍。全体に赤黒い染みが滲んでいた。乾いた血の臭いが、部屋の隅まで届いていた。
依頼人はいない。
高崎から——正確には四百年近い時間の底から——意思を持って飛来したかのように、ここへ届いた。
源じいが湊の肩から手を放し、茶の支度を始めた。手が、微かに震えていた。
美晴が姿を現したのは、源じいが二度目の湯を注いでいる最中だった。
いつものように気配なく戸口に立ち、薄い唇を開く前に座布団へ視線を落とした。それだけだった。彼女は部屋を見渡さなかった。崩れ落ちた骨董にも、震えているリリにも、目をやらなかった。座布団だけを見て、すべてを把握した。
美晴が視線を上げたとき、その顔に表情はなかった。
湊はそれが逆に気になった。美晴は感情を表に出さない人間だが、それは制御しているからだ。制御する必要がないほど、動じていないのか——それとも、動じている何かを、今夜は意識的に締め切っているのか。
「案内人さん」
美晴は湊の方を向かなかった。座布団を見たまま言った。
「徳川忠長。将軍家光の弟。才気と傲慢さゆえにすべての役職を剥奪され、高崎で幽閉のまま自刃した貴公子。……いいえ」
そこで一度止まった。
「貴公子だった存在」
「だった、って言い方をするんだな」
美晴はそこで初めて湊を見た。
「もはや彼は、悲劇の主人公ですらありません。自分を認めなかった兄、徳川の血、この世に存在するすべての『無礼』を消し去ろうとしている。未練や悲嘆ならば案内できる。しかし彼が欲しているのは——」
美晴は湊から目を逸らした。
視線の落ちた先が、座布団ではなかった。どこでもない場所だった。考えているのでも、感じているのでもなく、ただ言葉を選んでいた。
「跪く世界だけです」
沈黙が落ちた。
源じいが茶を運んできた。湊の前に置いて、自分の分は持たなかった。老人は座布団から少し離れた場所に立ち、腕を組んだ。その横顔は、答えを知っている人間が問いを聞いているときの顔だった。
美晴が続けた。
「案内人さん。貴方の『寄り添う案内』は、彼には毒でしかない。建礼門院様のときのように、言葉が届く相手ではない」
湊はグラスを手に取った。中身はもうなかった。それでも手に持ったまま、少しの間、何も言わなかった。
壇ノ浦の夜のことを思い出していた。
あの夜、湊の言葉は届いた。届いたとき、徳子の影が光の中に溶けていく様子を見た。あの手応えは本物だった。本物だったから今、それと正反対のものを目の前に置かれて、足元が定まらなかった。
湊はグラスをカウンターに戻した。
「……行く」
リリが顔を上げた。止めようとして、湊の横顔を見て、止めなかった。
源じいは何も言わなかった。ただ、湊がカブの鍵を手に取る瞬間、老人の喉が小さく動いた。何かを言いかけて、飲み込んだ。
美晴だけが、湊の背中を最後まで見ていた。
*中章へ続く*
## 中章「言葉の届かぬ夜」
夜の国道は空いていた。
湊はスロットルを開けたまま、信号のたびに止まった。止まるたびに、腹の底の重さが揺れた。エンジンの振動が手のひらから肩に伝わってくる。その感触だけが、今夜は妙にはっきりしていた。
壇ノ浦の夜も、こうしてカブを走らせた。
あの夜との違いを、湊は考えないようにしていた。考え始めると、腹の重さが喉元まで来る。だから前だけ見て、スロットルだけ握って、走った。
国道を外れ、細い農道に入った。
木々の影が濃くなった。
道路の白線が消えた。街灯がなくなった。湊はスロットルを緩めず、ハイビームの光の輪の中だけを見て走り続けた。気づいたのは、アスファルトの継ぎ目の感触がハンドルから消えた瞬間だった。
タイヤの下が、土になっていた。
湊はスロットルを戻した。カブが減速し、湿った土の上に停まった。轍もなく、砂利道ですらない。ヘッドライトの先に、道はなかった。
エンジンを切った。
静かだった。虫の声もなかった。風の音もなかった。夜の色が変わっていた——月明かりと闇だけでできた、江戸の夜の色に。遠くに松明が揺れているのが見えた。高崎城の石垣に似た影が、暗がりの向こうに浮かんでいた。
湊はカブから降りなかった。
シートに跨ったまま、暗がりを見た。ヘッドライトの光が、霧とも靄ともつかないものに吸い込まれていく。
来た、と思った。
気配ではなかった。重さだった。空気の密度が変わった。頭上から何かが圧し掛かってくるような——重力が増したような——そういう変化が、じわじわと全身に染みてきた。
人間が長い時間をかけて積み上げる怨嗟ではなかった。
生まれた瞬間から天上のものだと信じて疑わなかった人間が、その信念ごと腐り落ちたような——そういう重さだった。腐臭ではなく、腐敗した金の臭いとでも言うべきものが、夜気の中に混じっていた。
湊はカブのシートから足を下ろし、土の上に立った。
「……なあ、大納言」
声に出した。霧の中に放った言葉が、どこへも届かずに落ちる感じがした。
「あんたの言い分を聞きに来た。俺は案内人だ。霊を——」
気配が、止まった。
湊は息を詰めた。
止まっている。暗がりの中で、あの重さが——静止した。一呼吸分。砂時計の砂が止まったほどの間だったが、確かに存在した。聞いている、と湊は思った。虫けらが何を持ってきたか、確かめている。そういう「待ち」だった。
湊はその隙間に言葉を入れた。
「俺の仕事は、あんたを倒すことじゃない。あんたが何者だったか、何を望んでいたか——あんたの話を、聞きたい」
一瞬だった。
その言葉が「案内人の流儀」だとわかった瞬間——湊には、気配がそう判断したのがわかった、理屈ではなく皮膚で——重さが変わった。待ちが消えた。冷笑が来た。声ではない。気配そのものが、笑った。
フロントフォークが、音を立てて捻じれた。
金属の軋む音が夜気を切り裂き、カブが横倒しになった。湊は土に叩きつけられた。肘と膝が土をえぐる。顔を上げると、カブのフロントが無残に歪んでいた。フォークが折れた植物のように垂れ下がり、前輪が空転している。
湊は立ち上がろうとした。
頬が熱くなった。触れてもいないのに、何かが湊の頬を浅く裂いた。血が滲む。湊はそれでも膝を土についたまま、顔を上げた。
「……まだ話が——」
肩口が切れた。
今度は深かった。湊は片膝をついたまま、前のめりになった。土に手をついて、体を支えた。泥が掌に冷たかった。
忠長は、現れなかった。
気配だけがあった。見えない位置から湊を見下ろしている——その目線の角度だけが、暗がりの中にあった。虫けらを見る目というのは、こういう眼差しのことを言うのだと湊は思った。下から見上げているのに、見られていなかった。視界に入っているが、対象として認識されていなかった。
言葉をかけようとする前から、答えが決まっていた。
湊は土の上で、少しの間、動かなかった。
あの一呼吸の間のことを考えていた。気配が止まったあの刹那——確かに存在した。忠長は聞いていた。だが湊が持ってきたのは、案内人の言葉だった。話を聞く、寄り添う、送り出す——そういう手順でできた言葉だった。それを忠長は一瞬で見抜いて、切り捨てた。
カブのフロントが壊れたことは、痛くなかった。
言葉が切り捨てられたことが、痛かった。
壇ノ浦の夜、同じ流儀で扉を叩いた。扉は開いた。今夜、同じ流儀で来た。扉があることすら、認識されなかった。
そのことの意味を、湊は土の上で考えた。考えている間に、美晴の手が湊の腕を掴んだ。
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引き戻される途中、湊はカブを見た。
横倒しになったまま、フロントが地面に向かって折れている。タンクに土がついていた。ミラーが割れていた。湊はそれを見て、何も思わなかった。思えなかった、のではなく、今それを思う場所が、自分の中になかった。
美晴は湊の腕を掴んだまま、一言も言わなかった。
湊も何も言わなかった。
二人は暗がりの中を歩いた。松明の光が遠ざかった。高崎城の影が夜に溶けた。アスファルトが足の下に戻ってきた。
街灯が点いた。
美晴が湊の腕を放した。湊は立ち止まって、自分の掌を見た。土がついていた。それを見て、ようやく肩口の傷が痛みとして届いてきた。
美晴は湊の一歩前に立ち、湊の方を向いた。
何かを言おうとして、やめた。
それが湊には意外だった。美晴は言葉を惜しむ人間だが、言いかけてやめることはしない。言うか言わないか、最初から決めている人間だ。それが今夜は、口を開いて、閉じた。
湊はその顔を見た。
美晴の目が、湊の肩口の傷を見ていた。傷の深さを測っているのではなかった。もっと別の何かを——湊の内側の、傷よりも深い場所を——見ようとして、やめた顔だった。
美晴は向き直り、先を歩き始めた。
湊はその背中を見てから、ついていった。
後章へ続く*
後章「壊れた案内人」
九条に戻ったのは、夜半を過ぎた頃だった。
湊は玄関の引き戸を開けて、中に入った。美晴が後ろにいた。それだけだった。源じいはいなかった。リリの気配が、店の奥にあった。
湊はカウンターの椅子に腰を下ろした。
上着を脱ごうとして、肩口の傷が引っ張られた。顔には出さなかった。ゆっくり袖を抜いて、上着を畳んでカウンターに置いた。美晴が後ろから布を持ってきて、黙って肩口に当てた。湊は動かなかった。美晴も何も言わなかった。
リリが奥から来た。
来て、湊を見て、止まった。
湊の顔を見た。頬の傷を見た。肩口を押さえる美晴の手を見た。それからもう一度、湊の顔を見た。
リリは何か言おうとした。口が開いた。閉じた。また開いた。
いつものリリなら、何か言う。毒舌でも、軽口でも、遠回しな心配でも——何かしら言葉にする。それがリリという存在だった。
今夜は、言葉が来なかった。
リリは湊の隣に来て、畳の上に座った。湊の手に、自分の手を重ねようとした。半透明の指が湊の手の甲に触れかける。すり抜けた。重ならなかった。触れなかった。
リリは手を退けなかった。
すり抜けたまま、そこに置いていた。
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美晴が処置を終えて、一歩引いた。
湊は天井を見た。染みのある、古い天井だった。九条に来て何年も見ている天井だった。
「……俺がやってきたことは、なんだったんだ」
声が出た。怒っているのでも、嘆いているのでもなかった。ただ問いとして、空中に置いた。
「話を聞いて、寄り添って——なあ、お前さんには事情があったんだろう、ここに来るだけの理由があったんだろうって。俺のやり方は、そういうやり方だった」
リリの手が、湊の手の甲の上で静止していた。
「救えない奴を前にして、俺に何ができる。救われる気がない奴を前にして」
湊は天井から目を下ろした。カウンターの木目を見た。
「……俺は、俺のやり方で届く相手だけを、案内してきたんじゃないのか」
問いではなかった。答えを知っている言葉だった。
美晴がカウンターの端に立った。湊の正面ではなく、斜め後ろだった。湊から見えない角度に、自分を置いた。
「あの一瞬、気配が止まったのを感じましたか」
湊は動かなかった。
「感じた」
「彼は聞いていた。貴方が何を持ってきたか——確かめていた。そして」
美晴はそこで一度止まった。
「案内人の流儀だとわかって、切り捨てた」
「わかってる」
湊の声は平坦だった。
「だから何だ、って言いたいんだろう」
美晴は答えなかった。答えないことが、答えだった。
湊はカウンターに両肘をついて、顔を手で覆った。深く息を吸って、吐いた。手を下ろしたとき、顔は元に戻っていた。疲れた顔だったが、崩れてはいなかった。
「あの一呼吸の間に、俺は何を言えばよかった」
今度は本当の問いだった。
美晴は少しの間、黙った。考えているのではなかった。言うべき言葉の重さを、測っているようだった。
「わかりません」
湊は顔を上げなかった。
「わからない、じゃなくて、わかりません、か」
「ええ」
美晴の声は変わらなかった。
「貴方に届く言葉が何かは、私には教えられない。彼の回路がどこにあるかは、まだ誰にもわからない。ただ——」
美晴が動いた気配がした。湊の斜め後ろから、真後ろに移った。
「回路は、ある。貴方が持ってきた言葉を、彼は一瞬聞いた。それは事実です」
リリの手が、湊の手の甲の上にあった。重なっていなかった。それでもそこにあった。
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源じいが戻ってきたのは、しばらく経ってからだった。
老人は玄関から入って、湊を見た。美晴を見た。リリを見た。それから何も言わずに茶の支度を始めた。
湊はその背中を見ていた。
源じいの手は、もう震えていなかった。急いでいなかった。いつもの源じいの動作だった——湯を沸かし、茶葉を量り、急須を温める、その順番通りの動作。
茶が来た。湊の前に置かれた。
源じいは自分の分も持って、カウンターの端に立った。一口飲んで、カップを置いた。それからカウンターに片肘をついて、湊の横顔を見た。
老人は何も言わなかった。
ただ、その目が——今夜初めて、いつもの源じいの目に戻っていた。飄々として、底が知れなくて、どこか遠くを見ているような、あの目に。
湊はその目を見て、少しだけ息をついた。
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あの部屋の扉の前に立ったのは、源じいの茶を飲み終えてからだった。
鍵を開けた。
緑の光は、豆電球ほどの大きさになっていた。いや、それより小さかった。点滅の間隔が長くなっている。光る時間より、暗い時間の方が長かった。
湊はその光の前に立って、少しの間、動かなかった。
名前を知らない。何を守っているのかも、まだわからない。触れることもできない。ただ、この光だけは——どんな夜が来ても——揺るがなかった。
壇ノ浦の夜、この光はかつてないほど輝いた。
今は揺れていた。消えそうだった。
湊は扉の枠に片手をついた。中には入らなかった。入れなかった。この光に今夜の自分を見せることが、何かを決定的に変えてしまう気がした。だから枠の外に立ったまま、ただ光を見ていた。
光が、また一度、暗くなった。
長い暗がりの後で、か細く点いた。
「……俺じゃ、あいつを案内できねえ」
声に出した。
弱音ではなかった。嘆きでもなかった。今の自分にはできない——それだけの、ただの事実だった。認めることと、諦めることは、違う。そのことを湊は知っていた。知っていても、声に出すのは今夜が初めてだった。
美晴が背後にいた。
振り向かなかったが、わかった。気配ではなく、その場の空気の変わり方でわかった。美晴がそこにいると、空間の密度が微かに変わる。今夜はそれに、いつもと違う何かが混じっていた。
湊は扉の枠に手をついたまま、光を見続けた。
美晴は何も言わなかった。
言わないことを、湊は今夜初めて、重さとして受け取った。美晴が言葉を持っていないのではない。持っていて、それでも言わない。その沈黙には、湊への何かが含まれていた。それが何かを、湊はまだ言語にできなかった。
光が、また点滅した。
か細く、長い暗がりを挟んで、また点いた。
湊は扉から手を放した。一歩引いて、静かに扉を閉めた。鍵をかける音が、古美術「九条」の中に小さく響いた。
店に戻ると、リリはカウンターの縁にいた。湊が来ても、何も言わなかった。湊も何も言わなかった。リリは宙を見ていた。湊はカウンターに座って、空のグラスを手に取った。
中身を入れなかった。
ただ持っていた。
外では、潰れたカブが夜風に晒されている。レコードプレーヤーは誰も直していなかった。針が盤面の端で止まったまま、静かだった。
ジャズは、もう流れていなかった。




