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第6話:翠の波濤 ―安徳を抱く母の祈り―

1.


 古美術「九条」のカウンターには、一対の古びた、それでいて高貴な意匠の「金のかんざし」が置かれていた。


 湊はいつものように安ウィスキーで口をゆすぎ、洗面台に吐き出す。だが、その背中の強張りは隠しようもなかった。


「……湊、やめなさい。その簪に触れちゃダメ」


 背後の壁にもたれたリリが、珍しく怯えたような声を出した。彼女の視線の先、簪からは、海水と混ざり合ったどす黒い「澱み」が、滝のように床へ溢れ出している。


「逃げられぬ運命さだめというものもありますよ、リリさん」


 静かに店の戸を開けて現れたのは、安倍美晴だった。彼女は源じいと、一人の気品ある老婆を連れている。


 美晴はリリを一瞥し、小さく頷くと、湊の耳元で囁いた。


(……これは、私の手には負えぬどころか、陰陽道の歴史そのものが忌避してきた『深淵』です。建礼門院徳子。平家一門の、安徳天皇の母……彼女の悲哀は、もはや一つの海を形成している)


 美晴の指先がわずかに震えているのを、湊は見逃さなかった。


2.


 依頼人の老婆は、壇ノ浦の旧家の末裔だった。


「海が……泣いているのです。夜な夜な、幼子を呼ぶ母親の悲鳴が、波音に混じって家々を揺らす。近年、その声はより深く、より冷たくなって……」


 リリが簪に恐る恐る手を伸ばし、すぐに弾かれたように引っ込めた。


「……冷たい。凍えるような海の底の暗闇。この人、まだ探してるんだわ。壇ノ浦の底で、自分の腕から零れ落ちたあの子を」


 美晴が湊の前に立ち、真剣な眼差しを向ける。


「案内人さん。私は壇ノ浦の結界を維持し、現世へ『海』が溢れ出すのを食い止めます。ですが、その中心に飛び込み、彼女の腕を開放できるのは、理の外にいる貴方だけだ」


 湊は安酒の瓶を煽り、だらしない笑みを作った。


「……最高位の陰陽師様に、バックアップを頼めるなんて光栄だ。源じい、道賃ナビは多めに貰っとけよ。命の洗濯には金がかかる」


3.


 深夜、月明かりすらない壇ノ浦の断崖。


 美晴が複雑な印を結ぶと、夜の海が割れ、幽玄な光の道が現れる。だが、その道はすぐに、荒れ狂うみどりの波濤に飲み込まれそうになった。


「……っ、これほどの執念……! 案内人さん、急いで!」


 美晴の叫びと共に、湊はハンターカブ(CT125)のエンジンを蹴り上げた。


 海上に浮かび上がるのは、かつての栄華を象徴する十二単ではない。大原の山奥で祈り続けた年月を映す、墨色の尼衣に身を包んだ徳子の影だった。彼女は、くうを抱きしめるようにして、底知れぬ深淵へ向かって我が子の名を呼び続けている。


「……あの子を……わが子を……。海の底の都へ、独りで行かせてはならぬ……!」


 カブのハイビームが、尼僧の姿をした徳子の悲しみが作り出した霧を切り裂く。湊は波打ち際を爆走し、カブをウィリーさせて飛沫を蹴散らした。


「門院様! あんたが探しているのは、あの日、あんたの腕をすり抜けた『過去』だ! 見ろ、あんたが寂光院で、一生をかけて紡いだ祈りの先を!」


 湊は、あの部屋に保管していた石を掲げた。それは凍てつく海風を撥ね退けるような、温かみを持った光を放った。


「あんたの祈りは届いてるんだ。なあ、お母さん」


4.


 湊の声が、潮騒を突き抜けて徳子の心に届く。


 美晴の放つ式神の蝶が、尼衣を纏った徳子の周囲を舞い、冷たい海水を温かな光へと変えていく。徳子の空虚だった腕の中に、一瞬だけ、穏やかに微笑む安徳天皇の姿が重なった。


「……ああ、光の、中に……」


 徳子の影が、静かに、淡く光の中に溶けていった。


 荒れ狂っていた壇ノ浦の海は、嘘のように凪いだ。


 美晴は息を整え、カブの傍らに立つ湊に歩み寄った。


「……貴方は、本当に残酷で、優しい人ですね。彼女に『空』であることを認めさせるとは」


 湊は答えず、ただ水平線の先を見つめていた。リリが横で、安堵したように「……ステーキ、奮発しなさいよね」と、いつもの毒舌を吐いた。


 九条に戻り、湊は「あの部屋」の鍵を開けた。


 緑の点滅は、今夜、祈りの連鎖を受け取ったかのように、かつてないほど気高く、少女の寝顔を優しく照らしていた。


 湊は何も言わず、ただその光をじっと見つめた。


 扉に鍵をかける音が響き、古美術「九条」には、またいつもの気だるいジャズだけが流れ始めた。


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