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第10話 伝わらなかった想い

前章「出発の理由」


 朝から、湊は資料を読んでいた。

 テーブルの上に広げたのは、源じいが古書店から引っ張り出してきた江戸期の記録の写しと、後世の研究者が編んだ文献が数冊。湊は活字を読む人間ではなかったが、今回は自分で手を伸ばした。

 読んで、閉じた。

 別の資料を開いた。読んで、また閉じた。

 書かれていることは、どれも同じ方向を向いていた。「乱行」。「傲慢」。「将軍の弟としての分を弁えなかった」。「家光公の御裁断はやむを得ないものであった」。言葉は違っても、結論は一つだった。忠長は問題のある人間であり、処断は正当だった——という結論に向かって、すべての記録が収束していた。

 湊はその一冊を閉じて、テーブルに置いた。

「全部、同じ方向を向いてる」

 誰に言うともなく、声に出した。

 源じいが茶を持ってきた。湊の前に置いて、資料の山を一度見た。それから湊を見た。

「現地には、書けなかったものが残っとる」

 それだけ言って、自分の茶を持って奥へ戻った。

 湊は茶を一口飲んで、地図を引き寄せた。高崎。忠長が幽閉され、自刃した場所。文献はそこで起きたことを「記録」しているが、記録されなかったものについては何も言わない。記録されなかったものは、現地にしかない。

 美晴に声をかけたのは、湊の方からだった。

 美晴は少しの間、間があってから応じた。その間が何を意味するか、湊は考えないことにした。

 リリが「あたしも行く」と言ったのは、湊がジャケットを手に取ったときだった。自分から言うのは珍しかった。湊はリリを一瞬だけ見た。何も言わずに地図を畳んだ。

中章「高崎、現地調査」

 高崎に着いたのは昼前だった。

 城址公園の入り口に、カブを停めた。美晴が先に降りて、周囲を見た。リリは湊の隣に来て、公園の木々を見た。何かを確かめるような目だった。

 湊は地図を確認して、歩き始めた。


 江の層。

 城址を歩きながら、美晴が話し始めた。

「忠長の母、江——崇源院。浅井長政と市の娘、信長公の姪にあたる。忠長を三人の子の中で最も溺愛したと記録にある」

「三人?」

「家光、忠長、そして和子——後の東福門院です。江は子を溺愛したが、忠長への傾倒は特別だったと複数の記録が示している」

 美晴は歩きながら、資料を広げた。

「元和九年、江は五十四歳で死去。忠長、十一歳のときです」

 湊は足を止めなかった。

「それで」

「忠長の乱行として記録されている最初の事案が、その翌年から始まります。鷹狩りの際の家臣への暴力、鬼怒川での大規模な狩猟による民への被害——いずれも江の死後です」

 湊は城址の石垣を見た。古い石の積み方だった。何百年も前に人の手で積まれて、今もここにある。

「幕府の記録は、母の死と息子の変化を結びつけない」

「切り離されています」と美晴は言った。「意図的に、と言うべきかどうかはわかりません。ただ、切り離されている」

 湊は石垣から目を離して、先を歩いた。


 秀忠の層。

 城址の北側に来たとき、美晴が続けた。

「秀忠は二代将軍として、家光と忠長、二人の息子の間で揺れ続けた。史書には『家光を選んだ』とだけある」

「選んだ、か」

「秀忠が死んだのは寛永九年。忠長が改易されたのはその翌年です。秀忠は死の直前まで、忠長の処分を決めなかった。決められなかった、とも読める」

 リリが少し遅れて歩いていた。湊はそれを視界の端で感じながら、美晴の話を聞いた。

「秀忠には他にも庶子がいた。保科正之——後の会津藩祖です。正之は存在を隠されて育った。秀忠は正之の存在を公にしなかった」

「なんで」

「江への遠慮、という説が有力です。江は嫉妬深かったと伝わっている。秀忠は江の目を気にして、庶子を表に出せなかった」

 湊は立ち止まった。

「つまり秀忠は——江には頭が上がらなくて、家光と忠長の間では決断できなくて、庶子は隠して——死ぬまで何も決めなかった、ってことか」

「記録の上では、そうなります」

「父親として、何も言えなかった」

 美晴は少しの間、黙った。

「その沈黙が、息子たちに何を残したか」

 それだけ言って、また歩き始めた。


 家光の層。

 城址の中心部。かつて本丸があった場所の近く。

「家光は春日局に育てられた。江は家光より忠長を可愛がった、と伝わっている。家光自身もそれを知っていた」

「兄弟で、同じ場所を奪い合ってたのか」

 湊が言うと、美晴は首を横に振った。

「奪い合っていたのではなく——二人とも、最初から与えられていなかった」

 湊はその言葉を、少しの間、持っていた。

「家光は母の愛を忠長に持っていかれた、と感じていた。忠長は父の決断を最後まで得られなかった。二人は違う場所で、同じものを持っていなかった」

「それで兄が弟を追い詰めた」

「家光が忠長を追い詰めたことは事実です。ただ——」

 美晴は本丸跡を見た。

「家光もまた、誰かに作られた将軍だった」


 保科正之の層。

 城址を出て、旧中屋敷跡とされる周辺を歩いた。

「正之は忠長と同じ父を持ちながら、まったく異なる生き方をした。存在を隠され、表に出ず、従順に、静かに生き延びた。後に家光を支え、会津藩を治めた」

 湊は歩きながら、それを聞いていた。

「忠長は消えることができなかった」

 気づいたら口から出ていた言葉だった。

「正之は生き延びるために自分を消した。忠長は——消えることが、できなかった」

 美晴は何も言わなかった。

 それが答えだった。


 頼房の層——示唆として。

 旧中屋敷跡の周辺を歩きながら、美晴が資料を見直していた。歩きながら、何かを確かめる目で頁を繰っていた。

 湊は黙って歩いていた。リリが少し後ろにいた。

「案内人さん」

 美晴が立ち止まった。

「記録とは、誰かが書いたものです」

「当たり前だろ」

「誰が、いつ、何のために書いたか——それを外して読むと、見えてくるものが変わる」

 美晴は資料の一点を見ていた。湊には何が書いてあるか見えなかった。

「忠長の乱行を報告した文書の多くが、ある経路を通っています。同じ経路を」

「誰だ」

 美晴は答えなかった。資料から目を上げて、城址の方を見た。

「水戸」

 それだけ言った。

 湊は少しの間、その一言を持っていた。

「嵌められてた、かもしれないってことか」

 美晴は答えなかった。城址の石垣を見たまま、動かなかった。

 それが答えだった。


 家臣と忠長自身の層。

 旧中屋敷跡とされる場所の一角に、名もない小さな石があった。

 観光案内には載っていない。案内板もない。ただ、誰かが置いたか、あるいは最初からそこにあったか——石が一つ、草の中にあった。

 リリが足を止めた。

 湊は気づいて、振り返った。リリは石の前に立って、動かなかった。半透明の目が、石を見ていた。見ているのか、石の向こうの何かを見ているのか、判断がつかなかった。

 湊は近づいた。

「リリ」

「……なんでもない」

 リリは石から目を離して、歩き出した。なんでもなくない顔で。

 湊はその顔を見た。何も聞かなかった。

 美晴も黙っていた。ただ、リリの背中を少しの間、見ていた。


 その場所から少し離れたところで、湊は立ち止まった。

 忠長が最後に過ごした部屋があったとされる場所の近くだった。今は何もない。草と土と、古い石垣の残骸だけがある。

「あいつは——最後まで、誰かに向けて言葉を書こうとしてた」

 声に出た。

「自刃の前に、何かを書き残そうとした。でも残っていない。燃やされたか、没収されたか」

 美晴が静かに言った。「記録にない、というだけで、書かなかったとは言えない」

「ああ」

 湊はその場所を見た。今は何もない場所を。

「あいつが書こうとしていた言葉が、誰に向けてのものだったか——それだけが、わからない」


後章「史書の外側」


 高崎駅の近くの、小さな食堂だった。

 昼を過ぎていた。三人とも何も食べていなかった。湊が適当に入った店で、三人とも黙って座った。湊は定食を頼んだ。美晴は茶だけ頼んだ。リリは何も頼まなかった——頼めないが、今日はそのことを誰も気にしなかった。

 しばらく、誰も話さなかった。

 湊が飯を食いながら、窓の外を見た。高崎の街が昼の光の中にあった。四百年前、この街のどこかに忠長がいた。幽閉されて、記録を歪められて、最後に一人で自刃した。

「……整理する気にはなれないな」

 湊が言った。

「整理したら、嘘になる気がする」

 美晴は茶を持ったまま、湊を見た。

「江が死んで、父親は何も決めなくて、兄とは最初から同じものを持っていなくて、弟は自分を消して生き残って——そこに、ある経路からの記録が積み重なった」

 湊は箸を置いた。

「あいつの怒りは、世界への怒りじゃなかったかもしれない」

 美晴は何も言わなかった。

「母が死んだあの日から——誰にも届かなかった言葉への怒りが、四百年腐り続けたんじゃないか。それに加えて、真実ごと歪められた」

 リリは窓の外を見ていた。

 湊はリリの横顔を見た。石の前で止まったときの顔と、今の顔が、どこか重なっていた。湊はそれについて、何も言わなかった。

「届かなかった言葉を抱えたまま腐らせると、怒りは外へ向かう」

 美晴が静かに言った。

「しかし怒りの根が届かなかった言葉にあるなら——」

 そこで止まった。

 続きを言わなかった。

 湊は美晴を見た。美晴は茶を一口飲んで、窓の外を見た。湊は続きを聞かなかった。美晴が言わないことには、理由がある。言える段階にないか、言うべき場所がここではないか——どちらかだった。

 三人とも、しばらく黙っていた。

 食堂の中に、昼の声が満ちていた。普通の昼だった。四百年前のことを抱えた三人が座っていても、食堂は普通の昼のままだった。


 帰りは湊一人でカブを走らせた。

 美晴は別の手段で戻ると言った。リリは湊の後ろにいた——正確には、後ろに気配があった。カブに乗れないはずのリリが、こういうとき気配だけついてくることを、湊はもう不思議に思わなかった。

 国道を走りながら、湊はあの「一呼吸の間」を思い出した。

 暗がりの中で気配が静止した、あの刹那。忠長が待っていた、あの間。

 跪く世界を欲している——美晴はそう言った。しかし今日一日掘ってきたものを持って、もう一度あの間を考えると、違う何かが見えてきた。

 忠長が待っていたのは、跪く世界ではなかったかもしれない。

 それよりずっと前に——江がまだ生きていた頃に——誰かに向けて言いたかった言葉があった。届けたかった言葉が。それが届かないまま、歪められたまま、四百年腐り続けて、あの怒りになった。

 あの一呼吸の間に、忠長は何を待っていたのか。

 案内人の流儀ではない言葉——それはわかった。では何か。

 まだわからなかった。ただ、今日の前と後では、わからない場所が変わっていた。どこがわからないかが、今日の前よりはっきりした。

 それで十分だった。

 カブのエンジン音が、夜の国道に響いていた。


 九条に戻って、まずあの部屋の鍵を開けた。

 緑の光があった。点滅の間隔が、昨日と変わらなかった。増えてもいないが、減ってもいなかった。

 湊はその光を見て、扉を閉めた。鍵をかけた。

 カウンターに座ると、源じいが茶を持ってきた。湊の前に置いて、何も聞かなかった。湊も何も言わなかった。

 リリはカウンターの縁に腰かけて、今日一日黙って見ていたものを、まだ自分の中で持っているような顔をしていた。

 湊はその横顔を見た。

 石の前で止まったとき、リリは何を見ていたのか。

 聞かなかった。今日は聞かない夜だと思った。

 茶を一口飲んで、湊は窓の外を見た。高崎の街は、もうここからは見えない。しかしあの場所に、名もない石が今夜もある。誰が置いたかわからない石が、草の中にある。

 記録から消された人間たちの、残り方だった。




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