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「届かなかった言葉 ―忠長と、もう一人―」

前章「リリの端」


 夜だった。

 源じいは奥に引っ込んでいた。店の中に、湊とリリだけがいた。湊はカウンターに座って、空のグラスを手の中で転がしていた。高崎から戻って三日が経っていた。三日の間、湊は忠長のもとへ行っていなかった。行く前に、もう少し自分の中で整えるものがあった。

 リリはカウンターの縁に腰かけて、足を揺らしていた。

 しばらく、二人とも何も言わなかった。

 リリが口を開いたのは、店の外を風が通り過ぎた後だった。

「……あたし、高崎で石を見たとき」

 湊はグラスを持ったまま、リリを見た。

「何かを思い出した、ってわけじゃないの。思い出せるものが、あたしにはないから」

 リリは足を揺らすのをやめた。

「ただ——感触だけ、あった」

「感触」

「誰かに、何かを言おうとした。それだけ。誰に向けてだったか、何を言おうとしたかは、ない。言おうとした、という感触だけが——ある」

 湊はグラスをカウンターに置いた。

「言えたか」

 リリは少しの間、黙った。

「言えなかった」

 それだけ言って、また黙った。言い終えた顔だった。これ以上はない、という顔ではなかった。これ以上が、自分の中にないのだ、という顔だった。

 湊はリリの横顔を見た。

 忠長が自刃の前に書こうとして書けなかった言葉のことを、考えていた。江が死んだ十一歳から、高崎で幽閉されるまでの長い年月の間、誰にも届かなかった言葉のことを。言おうとして、言えなかった——その感触だけが腐り続けて、あの怒りになったのかもしれないと、高崎の帰りのカブの上で思ったことを。

 リリと忠長が同じだとは言えなかった。

 ただ、同じ根かもしれないと思った。

 口には出さなかった。

 江、という名前が、湊の中に浮かんだ。

 忠長が一番最初に言葉を向けていた人間。母。十一歳で失った人間。その後の長い年月、誰にも届かなかったすべての言葉の、最初の宛先。

 湊はグラスを手に取って、立ち上がった。

「……明日、行く」

 リリは湊を見た。

「一人か」

「ああ」

 リリは何も言わなかった。止めなかった。湊の顔を少しの間見て、それから視線を落とした。

 湊は奥へ行って、カブの鍵を確かめた。

中章「三度目の夜」


 農道に入ったのは、深夜だった。

 カブのエンジン音が木々の間に吸い込まれていった。白線が消えた。街灯がなくなった。タイヤの下がアスファルトから土に変わる感触を、湊は今回も正確に捉えた。

 土の上に停まった。エンジンを切った。

 静かだった。松明の光が遠くに揺れていた。高崎城の影が夜の向こうにあった。

 重さが来た。

 いつもと同じ重さだった。しかし湊は今回、その重さを別の角度から受けた。四百年分の怒りではなく——四百年分の、届かなかった言葉の重さとして。

 カブから降りた。土の上に立った。

 暗がりを見た。

 今回は、すぐには話さなかった。

 ただ、立っていた。重さを全身で受けながら、立っていた。前回も前々回も、湊は早く言葉を出そうとしていた。今夜は違った。忠長がそこにいることを、ただ、受けていた。

 しばらくして、湊は口を開いた。

「——お前は」

 暗がりに向かって、静かに言った。

「江に、何を言いたかった」

 気配が、止まった。

 これまでで、最も長い間だった。

 一呼吸ではなかった。もっと長かった。夜の空気が固まったように、暗がりの重さが完全に静止した。湊は動かなかった。その間を、壊さなかった。

 答えは来なかった。

 しかし今回は、切り捨ても来なかった。間が、続いた。

 湊は続けた。

「俺は高崎に行った。お前がいた場所を歩いた。お前についての記録を読んだ。どれも同じ方向を向いた記録だった——お前を問題のある人間として書いた記録が、ある経路を通って積み重なっていた」

 暗がりは動かなかった。

「江が死んだのは、お前が十一のときだ。その後に乱行の記録が始まる。幕府の記録はその二つを結びつけない。意図的に切り離してある」

 間が、続いた。

 湊は一歩、前に出た。

「お前が書こうとして書けなかった言葉がある。自刃の前に、誰かに向けて書こうとした。残っていない。燃やされたか、没収されたかはわからない」

 また一歩、前に出た。

「その言葉が、誰に向けてのものだったか——俺には、わからない。ただ」

 湊は暗がりを見続けた。

「お前が一番最初に言葉を向けていた人間が誰だったかは、わかる」

 そこで、気配の質が変わった。

 怒りではなかった。圧でもなかった。暗がりの重さの奥から、別の何かが——滲んできた。何と呼べばいいかわからなかった。怒りが腐る前の、もっと前にあったものの、残骸のような何かだった。

 湊はそれを受けた。

 切れた。胴が熱くなった。しかし前回より浅かった。湊は動かなかった。切られながら、その「返し」を受け取ろうとして、立っていた。

 また切れた。今度は腕だった。

 それでも立っていた。

「——言えなかったんだろう」

 湊が言った。

「十一のときに、間に合わなかった。その後も、ずっと言えなかった。言える場所がなかった。言葉を向ける先が、どこにもなかった」

 暗がりが、微かに揺れた。

 怒りではなかった。揺れ方が違った。

「俺は案内人だ。お前を倒しに来たんじゃない。お前が言えなかった言葉を——聞きに来た」

 長い間があった。

 答えは来なかった。しかし重さが変わっていた。完全に静止していた重さが、今夜初めて、別の何かを含んで動いていた。

 湊は息を吐いた。

 今夜はここまでだと、自分で判断した。引くのではなかった。今夜届けるべきものは、届けた。あとは忠長の中で何かが動くのを、待つしかなかった。

 湊はカブに手をかけた。

 暗がりはまだそこにあった。去っていなかった。それが今夜の、答えだった。


後章「光と石」


 九条に戻ったのは、夜明け前だった。

 湊はまずカブを店の前に停めて、しばらくそこに立っていた。腕と胴の傷から血が滲んでいた。深くはなかった。前回より浅かった。

 空が少しだけ白んでいた。

 引き戸を開けると、リリがいた。カウンターの縁に座って、湊が入ってくるのを待っていた顔だった。寝ていなかった——幽霊が眠るかどうかはわからないが、今夜は起きていた顔だった。

 湊の顔を見た。傷を見た。

 何も聞かなかった。

 湊は上着を脱いで、傷の手当てをした。リリは黙って見ていた。湊も黙って手を動かした。

 手当てが終わって、湊は立ち上がった。

「来い」

 リリを見て言った。

 あの部屋の前に来た。鍵を開けた。

 緑の光があった。

 湊は扉の枠に手をついて、その光を見た。点滅ではなかった。点いている時間の方が、明らかに長くなっていた。暗くなる間隔が、前回より短かった。豆電球だった光が、今夜は少し大きくなっていた。

 リリが横に来た。

 二人で、光を見た。

「……届きかけてる」

 湊が言った。

 リリは何も言わなかった。

 光を見ていた。その横顔に、高崎の石の前で止まったときの顔が、重なっていた。今夜自分が話したことが、重なっていた。言おうとして言えなかった、という感触の話が。

 湊はリリの横顔を見た。見て、光に視線を戻した。

「忠長が江に言えなかった言葉と——お前が言えなかった言葉が、同じかどうかはわからない」

 リリは動かなかった。

「ただ」

 湊は光を見続けた。

「同じ重さを、持ってる気がする」

 リリはしばらく黙っていた。

 それから、湊の手に自分の手を重ねようとした。すり抜けた。退けなかった。

 湊はその手を見た。見えるか見えないかの透明度で、そこにあった。

 光が、また一度、長く点いた。


 夜明けが来た。

 湊は扉を閉めて、鍵をかけた。カウンターに戻ると、源じいがいつの間にか起きていて、茶の支度をしていた。老人は湊を見て、リリを見て、何も言わずに茶を淹れた。

 三人分——いや、二人分と、リリの前にも一つ置いた。リリが飲めないことを源じいは知っている。それでも置いた。

 リリはその茶を見た。

 何も言わなかった。

 湊は茶を一口飲んだ。窓の外が明るくなっていた。普通の朝だった。

 美晴が来るとすれば、今日の昼頃だと湊は思った。根拠はなかった。ただ、そういう予感があった。忠長の気配が昨夜変わったことを、美晴はどこかで感じているはずだった。

 湊は茶を持ったまま、窓の外を見た。

 届きかけている。

 まだ届いていない。しかし昨夜、暗がりの重さの奥から滲んできたあの何かを、湊は今も手の中に持っていた。怒りが腐る前の、もっと前にあったものの残骸。忠長が十一歳で失って、四百年間誰にも向けられなかった言葉の、根っこ。

 次に行くとき、湊は何を持っていくかを、もう決めていた。

 しかしそれは、今日の話ではなかった。



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