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第12話 「江の遺髪 ―言えなかった言葉の宛先―」


前章「鏡の光」


 夜が深くなるにつれて、九条の店は静かさを増していく。


 湊は棚の前に座ったまま、リリが淹れた茶を手に持っていた。飲んでいるわけではなかった。ただ持っていた。温度が手に残っていた。


「忠長って、結局何がしたかったんだろうな」


 リリが膝を抱えて言う。湊の向かいに座っている。「したかった、じゃなくて、できなかった、か」


「同じじゃないか」


「違う」リリはそう言って、少し考える。「できなかったことと、したかったことは、違う。できなかったのは、全部じゃなくて、一個だけだと思う」


 湊は答えなかった。


 棚の奥が、光った。


 最初は見間違いだと思った。しかし光は消えなかった。緑ではなかった。いつも見ているあの弱い点滅ではなかった。力強く、暖かく、何かを主張するように、光り続けていた。


「……これ」


 湊が立って、棚に近づく。守り鏡だった。最初からそこにあった。ずっとそこにあったのに、今夜初めて見るような気がした。


「ずっとここにあったのか」


「……最初から、あった」


 リリが後ろで言う。湊は鏡を手に取った。古い作りだった。漆が剥げている。しかし持った瞬間に、重さが違うとわかった。普通の重さではなかった。


 湊が鏡を開く。


 中に、遺髪があった。



 美晴が来たのは、湊が電話してから十分後だった。


 コートも羽織らずに来た。それだけで、湊は何かを察した。美晴にそういうことをさせる用件だったということを。


 美晴は遺髪を見た。鏡を見た。少しの間、黙った。


 静かに言う。


「江です」


 リリの顔が変わった。何も言わなかった。


 美晴がリリを見た。それからまた鏡を見た。また少しの間、黙った。


「浅井三姉妹——ご存知ですか」


 湊に向けて言う。湊が頷く。


「茶々、初、江。三人姉妹です。茶々は豊臣秀吉の側室となり淀君と呼ばれた。末妹の江は徳川二代将軍秀忠に嫁ぎ、忠長を産んだ」美晴は鏡を見たまま続ける。「初がこの鏡を受け取りました。江から、形見として。それを——代々守り続けてきた」


 湊が美晴を見る。美晴はリリを見ていた。


「初の末裔が——」


 美晴はそこで少し止まった。リリを見て、また鏡を見た。


「——この鏡を、守り続けてきた」


 リリは動かなかった。


 動けなかった。


 美晴は何も続けなかった。湊は美晴を見て、リリを見た。リリは鏡を見ていた。何かを確かめるような目で、鏡を見ていた。


 やがてリリが鏡に手を伸ばした。


 すり抜けた。


 リリが手を引いた。手のひらを見た。また鏡を見た。


 今夜はまだ、触れられなかった。



中章「五度目の夜」


 高崎に着いたのは夜の十一時過ぎだった。


 湊は一人だった。そうすると決めていた。


 城址に近づくにつれて、重さが来た。いつもの重さだった。空気が変わり、足が重くなり、呼吸が少し浅くなる。しかし今夜は湊も変わっていた。体が知っていた。この重さを、もう四度経験していた。


 湊は暗がりの前に立った。


 何も言わなかった。


 言葉より先に、遺髪を持った手を、静かに差し出した。


 暗がりが動いた。今まで見たことのない動き方だった。近づくのでも、引くのでもなかった。ただ、じっとしていた。


 湊はそのまま待った。



 届いてくるものがあった。


 言葉ではなかった。しかし湊にはわかった。遺髪から滲んでくるものがあった。それは江のものだった。四百年前に死んだ女の、愛と、心配と、言い切れなかった何かだった。


 それが忠長に向かっていた。


 ただ一つのことを、ずっと言いたかった。それだけだった。詫びてほしかったわけではなかった。償いを求めていたわけでもなかった。ただ——生きていてほしかっただけだった。


 生き続けることを、望んでいた。それだけを、ずっと。


 それが四百年間、届かなかった。



 暗がりの重さが変わった。


 怒りの質が変わった。怒りの下に何があるかを、湊は初めて見た。


 皮が破れた。


 悲しみが出てきた。


 湊は切られなかった。今夜初めて、切られなかった。ただ暗がりの中に立って、それを受けていた。逃げなかった。受けることしか、今夜の湊にはできることがなかった。しかしそれで十分だった。


 暗がりが揺れた。


 言葉ではなかった。しかし湊には届いた。懇願だった。四百年かけて、初めて出てきた懇願だった。


「——除霊してくれ」


 暗がりから声がした。今まで聞いたことのない声だった。怒鳴る声ではなかった。「そうすれば——母に、詫びられる」


 湊は答えられなかった。


 これは湊の仕事ではなかった。判断できることではなかった。しかし持ち帰ることは、できた。


「——わかった。持ち帰る」


 それだけ言って、湊は引いた。



後章「道徹、再び」


 九条に戻ったのは深夜だった。


 美晴が待っていた。リリも起きていた。源じいが湯を持ってきた。誰も湊を急かさなかった。


 湊が話した。忠長が泣いたこと。江の愛が届いたこと。それから——懇願のことを。


 美晴が黙った。


 湊はその沈黙を見た。美晴の沈黙はいつも同じではなかった。考えている沈黙と、判断している沈黙と、判断の外に出ようとしている沈黙がある。今夜のは、最後のものだった。


 珍しかった。


 美晴が何かを言おうとした、そのとき——


 道徹がいた。


 来たのを誰も見ていなかった。いつの間にか、そこにいた。


 源じいが一瞬だけ背筋を正した。美晴が一歩だけ引いた場所に立った。



 道徹は湊を見た。


 第5話と同じ目だった。答えが決まっている目だった。しかし今回は「祓う」とは言わなかった。


「強制除霊では、霊格が散逸する」


 感情はなかった。技術として述べていた。


「散逸した霊格は江様のもとへは届かない。詫びる主体が消えれば、詫びは成立しない」


 湊が聞く。「じゃあどうする」


 道徹が美晴を見た。美晴が一歩前に出た。


「式神として使役します。忠長公の霊格を保ったまま、形を変える。消えるのではなく、在り続ける。江様への詫びを——時間をかけて果たす余地が、生まれます」


 湊が道徹を見た。


「お前がそれを言うのか」


 道徹は答えなかった。


 第5話で「情は霊を縛る」と言った人間が、今夜は別の診断を持ってきた。何も変わっていなかった。流儀は一つのままだった。ただ技術として、正確に判断していた。それだけだった。


 その事実だけが、部屋の空気の中にあった。


「忠長公が同意するかどうかは」道徹が言った。「案内人の仕事だ」


 道徹が去った。来たときのように、いつの間にか、いなくなった。



 リリが守り鏡を見ていた。


 さっきから、ずっと見ていた。


 湊がリリを見た。リリは鏡から目を離さなかった。今夜鏡に触れられなかった手を、少しの間見た。それからまた鏡を見た。


「——明日、もう一度行く」


 リリが鏡から目を離して、湊を見た。


 何も言わなかった。


 棚の奥の光が、今夜は力強く、暖かく、点いていた。


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