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第13話 「愛新覚羅顕子 ―百年の名前―」

前章「男物の装飾品」


 昼過ぎに、依頼人が来た。


 三十代半ばの女だった。髪を後ろで束ね、紺のコートを着ていた。観光客でも買い付け客でもない歩き方で、引き戸を開けた。九条の空気を一度だけ吸って、それから真っ直ぐ湊を見た。


 布包みを持っていた。


「古美術九条さんで、よろしいでしょうか」


 美晴が奥から出てきた。どうぞ、と言って、カウンター脇の椅子を勧めた。女は座った。布包みを膝の上に置いた。両手でそれを持ったまま、少しの間、何も言わなかった。


 リリが壁際に立って、女の顔を見ていた。


「愛新覚羅と申します」


 女が言った。


 店の空気が少し変わった。美晴が黙った。湊はカウンターに肘をついたまま、女を見た。


「溥儀の、子孫です」



 女が話した。


 西太后から始まる話だった。清朝の終わり、溥儀の即位と退位、日本による傀儡政権、敗戦。愛新覚羅という名前が、その時代ごとに別の意味を持たされ続けた話だった。女は感情を抑えて話していた。抑えていることが、わかった。


「芳子——川島芳子は、顕子といいます。愛新覚羅顕子。父は粛親王善耆。溥儀とは従兄妹にあたります」


 湊は何も言わなかった。


「処刑されたことになっています。一九四八年。しかし——」女が一度止まる。「生き残ったという証言が、複数あります。方ばあさんとして、最後まで生きた」


「知っている」湊が言った。


 女が湊を見た。


「一族の者として、決別したいのです。西太后から続く——愛新覚羅が背負ってきた闇と。そのために、顕子様を案内人として立てたい。一族の霊的な負債を、顕子様に導いていただきたい」


 美晴が黙って聞いていた。リリが女の顔から目を離さなかった。


 湊が女を見た。それから布包みを見た。


「それ、見せてくれ」



 女が布包みを差し出した。


 湊が受け取った。持った瞬間に、重さが違うとわかった。布の上からでも、わかった。


 ゆっくりと布を開く。


 男物の装飾品だった。古い。金工の細工が入っている。指輪ではなかった。帯留めでもなかった。それが何であるかより先に、湊には別のことがわかった。


「処刑されたことになった日に、川島家に届いた」女が言った。「顕子様が、自分で送り出したものです」


 湊が装飾品に触れた。


 すでにそこにいた。



 女が気づいた。


 何かが変わったことに、気づいた。店の空気ではなかった。湊の顔でもなかった。ただ——何かが、この場所にいる。それが伝わってきた。


 女の目が、赤くなった。


 言葉が出なくなった。膝の上で、手が固まった。


 愛新覚羅という名前が、時代ごとに翻弄され続けた。溥儀が翻弄された。妻たちが翻弄された。顕子が翻弄された。誰一人、自分の名前で生き切れなかった。その事実が、女の中で一度に来た。


 涙が出た。


 条件を聞く前だった。交渉の言葉を用意する前だった。


「——顕子様の、望むことを」女が言った。声が揺れた。「すべて、叶えます」


 美晴が依頼人を見た。湊が装飾品を見た。


 店の奥の棚で、守り鏡の光が、静かに揺れた。



中章「待っていた」


 湊が装飾品を持ったまま、目を閉じた。


 怒りはなかった。


 それが最初に湊に届いたことだった。忠長のときは怒りが先だった。菅野のときは悲しみが先だった。しかし今夜ここにいるものは——待っていた。それだけだった。静かに、長く、待っていた。


 百年近く。


 湊が口を開いた。


「顕子」


 呼んだ。名前で呼んだ。川島芳子ではなく。方ばあさんでもなく。


 気配が動いた。



 湊が依頼の内容を話した。愛新覚羅の案内人として——


 止まった。


 言葉ではなかった。しかし湊には届いた。手の中の装飾品が、少しだけ重くなった気がした。


 怒りではなかった。拒絶でもなかった。


 順番の問題だった。


「——何が先か」湊が聞いた。


 答えが来た。言葉ではなかった。しかし湊には届いた。


 湊が目を開いた。美晴を見た。


「弔いが先だ」


 美晴が頷いた。


「愛新覚羅顕子として、法要を。墓所を。名前を正しい場所に届けること——それが先だ。その後のことは、自分が決める」


 依頼人の女が、湊の言葉を聞いていた。聞きながら、また目が赤くなっていた。



後章「話がまとまる」


「それが、本来すべきことでした」


 女が言った。迷いがなかった。すでに涙した人間の声だった。条件として受け取っていなかった。当然のこととして、受け取っていた。


 美晴が静かに前に出た。依頼人と、装飾品の間に立った。


「法要の形と、墓所の場所——決まっていることはありますか」


 女が首を振った。「顕子様が望む形で、と思っています。一族で話し合います。ただ——愛新覚羅顕子という名前で、それだけは」


 美晴が頷いた。



 芳子の霊格が、変わった。


 湊にはわかった。百年近く張り続けていた何かが、少しだけ緩んだ。怒りでも悲しみでもない何かが、ゆっくりと、解けていった。


 待っていた、という重さが変わった。


 届いた、という重さになった。


 依頼人の女が、装飾品を見た。見えないものを感じようとするように、少しの間、静かにしていた。


 感じた。


 湊にはわかった。女に届いていた。言葉ではなかった。しかし届いていた。



 話がまとまった。


 法要の日取りは、この夜には決まらなかった。墓所の場所も、決まらなかった。しかし決まったことがあった。


 愛新覚羅顕子として、弔われる。


 女が立った。布包みを——今度は装飾品だけを、湊に預けた。


「法要まで、こちらで」


「預かる」湊が言った。


 女が引き戸に向かった。途中で一度だけ振り返った。装飾品を見た。それから、湊を見た。


「ありがとうございました」


 引き戸が閉まった。



 しばらく、誰も何も言わなかった。


 リリが装飾品を見ていた。男物の、古い細工が入った装飾品。川島芳子として処刑されたことになった日に、自分で送り出したもの。どちらの名前でもない自分が選んだもの。


「——百年か」リリが言った。誰にでもなく言った。


 湊は答えなかった。


 棚の奥の守り鏡が、今夜は静かに、暖かく、光っていた。



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