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第14話 「婚約指輪 ―怒りの宛先―」


前章「繰り返される」


 リリが新聞を持ってきたのは、昼過ぎだった。


 カウンターに広げた。湊が見た。美晴が隣から覗いた。


「また出た」


 リリが記事を指で示した。連続事件の続報だった。去年の春から続いている。被害者は複数。犯人はそのたびに捕まった。捕まるたびに、拘置所か留置場で自殺した。裁判になった例がない。しかし——事件は止まらなかった。同一の手口で、続いた。


「警察は模倣犯と言っている」リリが言った。「でも」


「模倣じゃない」美晴が静かに言った。


 湊が美晴を見た。


「犯行の詳細は報道されていません。手口の細部は、警察しか知らない。模倣しようがない」美晴が記事を見たまま続けた。「それでも同一の手口で続いている」


 湊が記事を見た。


「憑依か」


「疑っています」


 店の中が静かになった。スピーカーからジャズが流れていた。今日は音割れしていなかった。



 引き戸が開いたのは、それから一時間後だった。


 三十代前半の男だった。髪が少し伸びていた。切りに行く余裕がない人間の伸び方だった。コートのボタンが一つ、掛け違えたままだった。それに気づいていない顔をしていた。


 店内を一度だけ見回して、美晴を見た。


「……ここで、相談を聞いてもらえると」


「どうぞ」美晴が言った。


 男が入ってきた。椅子に座った。膝の上に手を置いた。しばらく、何も言わなかった。


 リリが茶を置いた。男は礼を言った。茶には手をつけなかった。


「声が、聞こえるんです」


 男が言った。「……ずっと。もう半年以上」



 美晴が静かに聞いた。


 男が話した。


 婚約していた女がいた。去年の春、殺された。あの連続事件の、最初の被害者だった。犯人は捕まった。拘置所で自殺した。裁判もなかった。何もなかった。ただ終わった。


 終わったはずだった。


「声が聞こえ始めたのは、葬儀の後からです。最初は気のせいだと思った。疲れているせいだと思った。でも——消えない」


 男が手を見た。


「言葉になっていないときもあります。ただ、何か言おうとしている。それだけはわかる。意味が、わからない」


 湊がカウンターから男を見た。疲れた顔をしていた。怖い顔ではなかった。ずっと声を聞き続けてきた人間の顔だった。


「指輪、持ってるか」


 男が顔を上げた。


「……なんで」


「持ってるだろ」


 男がコートのポケットに手を入れた。小さな箱を出した。開けた。婚約指輪だった。渡せなかった指輪だった。


「ずっと、持ち歩いてます」


 湊が手を差し出した。男が箱ごと渡した。



 湊が指輪に触れた。


 最初に来たのは怒りではなかった。


 疲労だった。


 長く、長く燃やし続けてきた怒りの、その底にある疲労だった。怒ることをやめられない人間の、やめ方がわからない人間の、それでも怒り続けるしかなかった人間の疲労だった。


 それから言葉が来た。


 止めてほしい。自分の怒りが使われている。別の犯行が続いている。悪霊が燃料にしている。わかっている。自分の怒りのせいだとわかっている。でも怒りを手放せない。だから止めてほしい。外から、消してほしい。


 湊が美晴を見た。


 美晴が湊を見た。


 疑いが、確信になった。



中章「空洞」


 湊が単独で動いた。


 犯行現場の近くだった。夜だった。悪霊の霊格はすぐにわかった。引力が違った。忠長のときの重さとも、芳子のときの静けさとも、菅野のときの悲しみとも、質が違った。


 近づくにつれて、湊は感じた。


 空洞だった。


 忠長には悲しみがあった。芳子には名前があった。菅野にはノートがあった。しかしここにあるものには——何もなかった。他人の怒りだけを燃料にして動いている。それだけの存在だった。怒りを食って、人間に憑いて、犯行をさせて、発覚すれば宿主を捨てる。捨てられた人間は自殺した。悪霊は次の宿主を探した。それだけを繰り返していた。


 湊には手に負えなかった。


 電話した。



 道徹が来たのは、一時間後だった。


 いつものように、いつの間にかそこにいた。湊の隣に立って、悪霊の霊格を一瞥した。


「祓う」


 湊は何も言わなかった。


 第5話のときは止めた。今回は止めなかった。止める理由がなかった。悪霊には何もなかった。空洞には、守るべき霊格がなかった。


 道徹が動いた。


 速かった。しかし今回、湊は「待て」と言わなかった。ただ立って、見ていた。


 悪霊が祓われた。


 空気が変わった。重さが消えた。


 道徹が踵を返した。去り際、湊を一度だけ見た。


「霊の怒りは残る。燃料がなくなっただけだ」


 それだけ言って、去った。また来たときのように、いつの間にか、いなくなった。


 湊は一人、夜の空気の中に立っていた。


 道徹の言った通りだった。悪霊は消えた。しかし指輪の中の霊格は、まだ燃えていた。怒りの宛先が、まだなかった。



後章「言葉を届ける」


 九条に戻ると、男がまだいた。


 美晴が傍にいた。リリが茶を替えていた。男の前の茶碗は半分減っていた。待つ間に、少しだけ飲んでいた。


 湊が座った。指輪の箱を男の前に置いた。


「悪霊を祓った」


 男が湊を見た。


「あいつが——言いたかったのは、何ですか」


 湊が少しの間、黙った。それから話した。


 悪霊のこと。霊格が燃料にされていたこと。自分の怒りが使われていることを、霊は知っていたこと。わかっていても怒りを手放せなかったこと。だから外から消してほしかったこと。


 男が聞いた。最後まで、黙って聞いた。


 それから男が指輪の箱を開けた。指輪を見た。


「怒っていていい」


 男が言った。湊に言ったのではなかった。指輪に向かって言った。「怒るのは、当然だ。俺も——俺も、まだ怒ってる。あいつが死んで、犯人も死んで、裁判もなくて、怒る場所がどこにもなかった。でも——怒っていい。ずっと、怒っていい」


 店の中が静かだった。


 ジャズが遠くで鳴っていた。



 霊格が変わった。


 怒りが消えたのではなかった。しかし質が変わった。一人で燃やし続けなくていい、という重さになった。誰かに聞いてもらった怒りになった。


 男が指輪を持った手が、少しだけ緩んだ。


「——声は、まだ聞こえますか」


 美晴が静かに聞いた。


 男が少しの間、目を閉じた。


「……聞こえない」


 男が目を開いた。指輪を見た。それから湊を見た。


「聞こえなくなった」


 誰も何も言わなかった。


 男が立った。指輪の箱を閉じた。ポケットに入れた。コートのボタンが一つ掛け違えたままだった。今度は気づいた。直した。


「ありがとうございました」


 引き戸が閉まった。



 しばらく、誰も何も言わなかった。


 美晴が湊を見た。


「今夜は、止まりました」


 今夜は、という言葉だけが残った。


 湊はカウンターに肘をついた。安酒を一口含んだ。飲んだ。今夜は吐き出さなかった。


 リリが窓の外を見ていた。


「怒りの宛先がなかった」リリが言った。誰にでもなく言った。「犯人が死んで、裁判もなくて、怒る場所がなかった」


 湊は答えなかった。


「それで悪霊が入ってきた」


「入ってきたんじゃない」湊が言った。「引き寄せた。怒りが引き寄せた」


 リリが湊を見た。


「同じじゃないか」


「違う」


 リリが少しの間、湊を見た。それから窓の外を見た。


 棚の奥の守り鏡が、今夜は静かに、落ち着いた光で、点いていた。



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