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第15話 「脇差 ―整理できなかった男―」


前章「永倉の脇差」


 老人が来たのは、午後の早い時間だった。


 七十を過ぎていた。背筋が真っ直ぐだった。杖を持っていたが、杖に頼っている歩き方ではなかった。習慣として持っているだけだった。


 引き戸を開けて、店内を見た。骨董を値踏みする目ではなかった。場所を確かめる目だった。


「永倉、と申します」


 美晴が奥から出てきた。湊がカウンターから老人を見た。


「永倉新八の、子孫です」



 老人が風呂敷包みを持っていた。


 椅子に座って、膝の上に置いた。美晴が茶を出した。老人は一口飲んだ。それから話し始めた。


「これを、正しい場所に返したいのです」


 風呂敷を開いた。脇差だった。古い拵えだった。鞘に細かい傷があった。しかし刀身の手入れは行き届いていた。代々、丁寧に扱われてきた刀だった。


「函館で、土方さんから預かったものです。永倉が受け取って、そのまま死んだ。子孫が持ち続けてきた。しかし——返す場所が、わからなかった」


 老人が脇差を見た。


「返す場所というのは、墓所ではないと思っています。そうではない気がして、ずっと持っていた。どこへ返せばいいか——ここへ来れば、わかるかもしれないと思いました」


 湊が脇差を見た。


「触っていいか」


 老人が頷いた。



 湊が脇差を手に取った。


 重さが来た。刀の重さではなかった。


 怒りではなかった。焦りでもなかった。ただ——未完のまま止まっている人間の重さだった。函館で死んで、百五十年以上、止まったままの人間の重さだった。整理しようとして、できなかった。果たそうとして、果たせなかった。それだけが残っていた。


 湊が美晴を見た。


 美晴がすでに動いていた。棚の奥に向かっていた。



 美晴が戻ってきたとき、手に細長い箱を持っていた。


「以前、案内した案件で預かったものです」


 箱を開けた。手記だった。古い紙だった。丁寧に保管されていた。表紙に文字があった。


 湊が読んだ。


 沖田総司、とあった。


 脇差の重さが変わった。微かに、しかし確かに変わった。


「繋がっていたんですか」老人が言った。


「今夜、わかります」湊が言った。



中章「ずれていく解釈」


 夜になった。


 老人は九条に残った。美晴が奥の部屋に案内した。リリが食事を出した。老人は礼を言って、少しだけ食べた。


 湊は一人、カウンターに脇差と手記を並べて座った。



 土方がいた。


 最初からいた。脇差を湊が手に取った瞬間から、ずっとそこにいた。


 湊が口を開いた。


「藤堂の話をしろ」


 気配が動いた。言葉ではなかった。しかし湊には届いた。


 藤堂平助。天然理心流ではなかった。北辰一刀流だった。近藤とは流派が違った。それでも最初から一緒にいた。しかし御陵衛士に行った。新選組を出た。


 土方の解釈が来た。藤堂はもともと、近藤の剣ではなく、自分の剣を求めていた。御陵衛士に行ったのは、自分の場所を探していたからだ。だから——油小路で死んだことは、ある意味で筋が通っている。土方はそう思っていた。ずっとそう思っていた。それで整理しようとしていた。


 湊が手記を開いた。


 沖田の文字だった。細かく、しかし読みやすい文字だった。藤堂のことが書かれていた。


 湊が読んだ。


 少し違った。


 藤堂が御陵衛士に行ったのは、自分の場所を探していたからではなかった——沖田はそう見ていなかった。藤堂は近藤を信じていた。最後まで信じていた。しかし信じているからこそ、近藤が変わっていくことに耐えられなかった。出たのは、離れたかったのではなく、近藤のままでいてほしかったからだ、と沖田は書いていた。


「違うか」湊が言った。


 気配が止まった。


 湊が続けた。藤堂の行動を、最初から遡った。入隊の経緯。近藤との関係。御陵衛士への参加を決めた時期。その前後に何があったか。


 土方の気配が、少しずつ変わった。


 沖田の記録と、一致していった。



 山南の話になった。


「山南はどうだ」湊が言った。


 気配が重くなった。


 山南敬助。副長だった。脱走した。捕まった。切腹した。


 土方の解釈が来た。山南は新選組の理念と自分の理念がずれていくことに気づいていた。耐えられなくなって、出ようとした。切腹は——けじめだった。山南らしいけじめだった。土方はそう思っていた。そう思うことで、整理しようとしていた。


 湊が手記を読んだ。


 沖田が山南のことを書いていた。


 少し違った。


 山南が脱走を決めたのは、理念のずれではなかった——沖田はそう見ていなかった。山南は新選組が好きだった。最後まで好きだった。しかし自分が重石になっていると感じていた。いることで、誰かが動けなくなっていると感じていた。だから出ようとした。迷惑をかけたくなかっただけだ、と沖田は書いていた。


「違うか」湊が言った。


 気配が揺れた。


 湊が山南の行動を遡った。副長としての動き。近藤や土方との関係の変化。脱走の直前に何があったか。


 土方の気配が、また変わった。


 また、沖田の記録と一致していった。


 土方は山南の好意を、理念のずれとして読んでいた。山南が新選組を愛していたことを、知っていたはずだった。しかし整理するために、別の読み方をしていた。



後章「介錯の苦しみ」


 手記の後半に、介錯の話があった。


 湊が読んだ。


 沖田が山南の介錯をした。そのことが書かれていた。沖田がどれほど苦しんでいたか——細かく、しかし抑えた文字で、書かれていた。苦しいとは一度も書いていなかった。しかし一字一字が、苦しんでいた。


 湊が読み終えた。


 しばらく、黙っていた。


「沖田が介錯した」湊が言った。「知っていたか」


 気配が止まった。


 知っていた。事実として、知っていた。しかし——沖田がどれほど苦しんでいたか、は知らなかった。知ろうとしなかった。沖田は病だった。整理できていると思っていた。沖田のことは、近藤のことと同じように——理由がある喪失として、片付けていた。


 片付けていた。


 土方の気配が揺れた。


 怒りではなかった。悲しみでもなかった。後悔だった。藤堂と山南への後悔の下から、もっと古い後悔が出てきた。沖田への後悔だった。整理できていると思っていた人間への、後悔だった。


 湊は何も言わなかった。


 ただ、受けていた。



 長い時間が経った。


 気配が変わった。


 土方が——静かになった。整理できた、という静けさではなかった。整理できない、とわかった人間の静けさだった。それでも、何かが変わっていた。


 湊が聞いた。


「足りるか」


 気配が動いた。言葉ではなかった。しかし湊には届いた。


 足りない。整理できていない。しかし——沖田が苦しんでいたことを、今夜初めて知った。藤堂が近藤を愛していたことを、今夜初めて正しく知った。山南が新選組を愛していたことを、今夜初めて正しく知った。


 それだけでいい。


 脇差の重さが変わった。



 湊が老人を呼んだ。


 老人が出てきた。夜中だったが、眠っていない目をしていた。


 湊が脇差を老人に返した。


「返す場所が、決まりました」


 老人が湊を見た。


「どこへ」


「函館です」湊が言った。「土方の墓所ではない。藤堂と山南の——」


 老人が頷いた。言葉の続きを聞かなかった。わかった、という顔をしていた。


「そうか」老人が言った。「そういうことか」


 老人が脇差を受け取った。両手で持った。背筋が真っ直ぐだった。



 老人が帰った後、湊は手記を棚に戻した。


 美晴が湊の隣に立った。


「沖田の手記が、ここにあってよかった」


「あったから繋がった」湊が言った。


 美晴が頷いた。


 リリが脇差があった場所を見ていた。


「整理できなかったんですね、最後まで」リリが言った。


「できなかった」湊が言った。「でもそれでいいんだろ」


「どうして」


「整理できないものを、整理できないとわかった。それだけで、百五十年分違う」


 リリが少しの間、湊を見た。それから手記が戻った棚を見た。


 棚の奥の守り鏡が、今夜は静かに、深く、光っていた。



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