第16話 「ネーム ―別人の顔―」
前章「未完成のネーム」
女が来たのは、夕方だった。
三十代後半。黒いセーターを着ていた。鞄を肩にかけていた。引き戸を開けて、店内を見た。骨董には目をやらなかった。湊を探す目をしていた。
湊がカウンターから女を見た。
「九条さんですか」
「そうだ」
女が入ってきた。椅子に座った。鞄から封筒を出した。A4サイズの封筒だった。厚みがあった。
「形見なんです」女が言った。「パートナーの。どうすればいいか、わからなくて」
美晴が出てきた。茶を出した。女は一口飲んだ。それから封筒を開けた。
ネームだった。
手描きだった。鉛筆で描かれていた。コマ割りがあって、人物がいて、台詞が入っていた。未完成だった。途中で止まっていた。
女がテーブルに広げた。
湊が見た。美晴が見た。リリが奥から来て、見た。
誰も何も言わなかった。
「らしさ」が全くなかった。ファンが求めたもの、出版社が要求したもの、社会が期待したもの——そういったものが何もなかった。絵柄が違った。キャラクターが違った。世界観が違った。
しかし線は本人のものだった。確かに本人の手が描いていた。
「これ、本人のものですか」リリが言った。
「そうです」女が言った。「私も、最初は信じられなかった。でも筆跡は間違いない。描き方の癖も、間違いない」
湊がネームを見た。
「触っていいか」
女が頷いた。
湊がネームに触れた。
怒りはなかった。
最初に来たのは、後悔だった。深く、静かな後悔だった。怒りを通り過ぎた後の後悔だった。怒る気力もなくなった後の後悔だった。
それから謝罪が来た。
女に向かっていた。パートナーへの謝罪だった。置いていったことへの謝罪だった。選択への謝罪だった。自分の選択が正しかったかどうかわからないまま、後悔しているということへの謝罪だった。
それからもう一つ——
不安が来た。
女に向かっていた。女が何かを書いていた。オマージュを書いていた。その不安だった。愛情から書いていることはわかっていた。忘れてほしくないから書いていることはわかっていた。それでも——不安だった。
湊がネームから手を離した。
女を見た。
中章「忘れてほしくない」
「オマージュを書いているか」
湊が言った。
女が少し間を置いた。
「……書いています」
「なぜ」
「忘れてほしくないから」女が言った。迷わなかった。「あの人の作品を、あの人の世界を——忘れてほしくない。私が書き続ければ、残り続ける。そう思って」
湊は少しの間、黙った。
「あいつの不安を伝える」
女が湊を見た。
湊が話した。
オマージュが「らしさ」になることへの恐れ。出版社が求めた「らしさ」、ファンが求めた「らしさ」——そういうものがまた生まれることへの恐れ。女自身の表現が、その檻の中に入っていくことへの恐れ。
女が聞いた。
黙って聞いた。
湊が続けた。女への謝罪のことも話した。置いていったことへの謝罪。自分の選択が正しかったかどうかわからないまま後悔していることへの謝罪。それを伝えることができないまま、ずっとそこにいたということも。
女の目が赤くなった。
泣かなかった。泣く一歩手前で、止まっていた。
「あの人は」女が言った。「私のオマージュを、見ていたんですか」
「見ていた」
「怒っていましたか」
「怒っていない」湊が言った。「不安だった。あんたのことが、心配だった」
女が目を伏せた。
しばらく、何も言わなかった。
後章「別人の顔」
女がネームを手に取った。
もう一度、最初から見た。ゆっくりと、一枚ずつめくった。
誰も何も言わなかった。ジャズが遠くで鳴っていた。今夜は静かな曲だった。
女がネームを見ながら、言った。
「これ、見たことがなかったんです。一緒にいたのに。毎日顔を見ていたのに。こんな顔があるって、知らなかった」
湊は答えなかった。
「私が知っているあの人と、全然違う。でも——あの人の線です。間違いなく、あの人が描いた」
女がネームをテーブルに置いた。
「私が書いていたのは、みんなが知っているあの人のことだった。私が知っているあの人のことじゃなかった」
美晴が静かに言った。
「今夜、別の顔を見ました」
女が頷いた。
霊格が動いた。
謝罪が届いた——湊にはわかった。女に届いた。言葉ではなかった。しかし届いた。
女の目から、涙が一筋だけ出た。拭わなかった。
「——ごめんなさい」
女が言った。霊に向かって言った。
「知らなかった。知ろうとしていなかったのかもしれない。私が知っているあなただけを、残そうとしていた」
店の中が静かだった。
「これからどうするか、まだわからない。でも——これを見た。今夜、見た」
女がネームをまた封筒に入れた。丁寧に入れた。
「持って帰っていいですか」
「あんたのものだ」湊が言った。
女が頷いた。立った。鞄を肩にかけた。
「オマージュのことは——少し、考えます」
湊は何も言わなかった。
女が引き戸に向かった。途中で一度だけ振り返った。ネームが入った封筒を、胸に抱えていた。
「あの人が、ここにいましたか」
湊が頷いた。
「——よかった」
引き戸が閉まった。
リリが封筒があった場所を見ていた。
湊がカウンターに戻った。安酒を一口含んだ。今夜も飲んだ。吐き出さなかった。
「別人の顔だった」リリが言った。「でも本人だった」
「そうだ」
「どっちが本当のあの人なんですか」
「両方だ」湊が言った。「どっちかじゃない」
リリが少しの間、湊を見た。
「でも、みんなが知っている顔しか残らなかった」
「残らなかったんじゃない」湊が言った。「今夜、あいつが持って帰った」
リリが封筒があった場所をもう一度見た。
それから窓の外を見た。
棚の奥の守り鏡が、今夜は柔らかく、静かに、光っていた。




