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第17話 「木杖 ―民への詫び―」


前章「研究家が来る」


 男が来たのは、午前中だった。


 五十代半ば。眼鏡をかけていた。鞄が重そうだった。本が入っているのか、資料が入っているのか、そういう重さだった。引き戸を開けて、店内を見た。骨董を見る目ではなかった。場所を確かめる目でもなかった。何かを探している目だった。


 木杖を持っていた。右手に持っていたが、体重はかけていなかった。杖として使っていなかった。持ち歩いているだけだった。


「古美術九条さんですか」


「そうだ」湊が言った。


 男が入ってきた。椅子に座った。木杖を膝の横に立てた。鞄を足元に置いた。


「李氏朝鮮の研究をしています」男が言った。「鄭道伝を、長年研究してきました」



 美晴が茶を出した。男は両手で受け取った。一口飲んだ。それから木杖を見た。


「三年前に、ある経路でこれを入手しました。鄭道伝が実際に使用していたものかどうか、確証はありません。しかし——」


 男が木杖を手に取った。


「触れるたびに、何かが来るんです。言葉にならない。説明できない。ただ——確かにある。研究者として、こういうことを言うのは恥ずかしいんですが」


 男が木杖をテーブルに置いた。


「三年間、ずっと感じています。無視できなくなって、ここに来ました」


 湊が木杖を見た。


「触っていいか」


 男が頷いた。



 湊が木杖を手に取った。


 重さが来た。杖の重さではなかった。


 最初に来たのは悲しみだった。深く、古い悲しみだった。李成桂への悲しみだった。信じた人間の弱さへの悲しみだった。裏切りではなかった。弱さだった。父として弱く、王として弱かった。その弱さを知っていて、それでも信じた。その信頼の重さが、悲しみになっていた。


 次に来たのは怒りだった。


 李芳遠への怒りだった。悲しみとは質が違った。冷たい怒りだった。最初は理解していた人間が利己に走った——その変質への怒りだった。有能な者を排除した。身内も関係なかった。自分が設計した国家を、内側から壊した人間への怒りだった。


 その下に——


 詫びがあった。


 民への詫びだった。為政者を選んだのは自分だった。道筋をつけたのは自分だった。その道筋が歪んだ。歪んだ責任を、誰かに詫びなければならなかった。しかし詫びる場がなかった。六百年以上、詫びる場がなかった。


 それから言葉が来た。


 湊に向かって来た。


 口伝してほしい。研究家を通じて、世に出してほしい。処方箋がある。二度と起こさないための処方箋が。


 湊が木杖を置いた。


 男を見た。


「あんたに、話がある」



中章「口伝」


 男が湊を見た。


「鄭道伝がいる」湊が言った。「この杖に。三年前からずっと、あんたに付き合っていた」


 男の顔が変わった。研究者の顔になった。驚いていたが、否定しなかった。三年間感じ続けてきた人間の顔だった。


「……何を」男が言った。「何を、言っていますか」


「処方箋を世に出してほしいと言っている。民への詫びとして。俺が口伝する。あんたが受け取れ」


 男が少しの間、黙った。眼鏡の奥の目が、静かになった。


「——聞きます」



 湊が木杖を手に取った。目を閉じた。


 言葉が来た。湊が口を開いた。


「李成桂の話から始める」


 男が鞄からノートを出した。ペンを持った。


「李成桂は弱い人間だった。王として弱いのではない。父として弱かった。息子たちを愛していた。愛しているから、制御できなかった。情が判断を曇らせた。王に必要なのは情ではなく、情を持ちながら情に従わない力だ。李成桂にはそれがなかった」


 男がノートに書いた。書きながら、頷いた。


「——それは」男が言った。「私の研究でも、そう見ていました。しかし証拠がなかった。状況証拠しかなかった」


「証拠はない。しかし本人がそう言っている」


 男が湊を見た。それからまたノートを見た。書き続けた。



「李成桂の弱さが生んだのは隙だ」湊が続けた。「王が情に従う姿を見た息子たちは、情に訴えることを学んだ。あるいは、情に訴えても無駄だと学んだ者は、力に訴えることを学んだ。李芳遠は後者だった」


 男が書いた。


「李芳遠は最初、理解していた。鄭道伝が設計した国家の理念を、理解していた。儒教による秩序、王権の制限、臣下による均衡——それが何のためにあるかを、理解していた」


「理解していたのに」男が言った。独り言のように言った。「なぜ」


「変質した瞬間がある」湊が言った。「理解が利己に転じる瞬間が。それは権力を持った瞬間ではない。権力を持てると確信した瞬間だ。李芳遠は第一次王子の乱の前、すでに変質していた。変質した後で、理念を道具として使った。理念を理解していたから、道具として使えた」


 男の手が止まった。


 しばらく、動かなかった。


「——そうか」男が言った。静かに言った。「そういうことか。私はずっと、変質の原因を外部に求めていた。権力の魔性、時代の圧力、周囲の人間——しかし内部だった。理解そのものが、変質の素地になっていた」


「理解は両刃だ」湊が言った。「理念を生かすことも、殺すことも、理解があってこそできる」


 男がノートに書いた。今度は速く書いた。



「処方箋を言う」湊が言った。


 男がペンを持ち直した。


「一つ。為政者の情を制度で縛れ。情に従う余地を、構造として塞げ。情は美徳ではない、為政においては。李成桂が証明した」


 男が書いた。


「二つ。理念を理解する者を登用する前に、その者が理念を道具として使えるかどうかを見よ。理解の深さと忠誠は別物だ。李芳遠が証明した」


 男が書いた。


「三つ。有能な者の排除は、排除した者の無能を証明する。有能を恐れる為政者は、すでに為政者ではない。国は為政者のものではない。民のものだ」


 男がノートから顔を上げた。


「——これは」男が言った。「六百年前の人間の言葉ですか」


「そうだ」


「現代でも通じる」


「通じなければ、処方箋にならない」


 男がノートを見た。書かれた言葉を見た。それから木杖を見た。


「民への詫びと言っていましたね」


「そうだ」


「詫びる言葉は」


 湊が少しの間、黙った。木杖の重さを感じた。


「詫びる言葉はない。処方箋が詫びだ。同じことを繰り返させないことが、詫びだ。言葉で詫びるより、処方箋を残す方が誠実だと言っている」


 男が目を閉じた。


 しばらく、そのままでいた。


「——わかりました」男が言った。「受け取りました」



後章「しばし休む」


 口伝が終わった。


 湊が木杖を置いた。


 気配が動いた。言葉が来た。


「何と言っている」男が聞いた。


「しばし休むと言っている」湊が言った。「必要な時にまた現れると」


 男が木杖を見た。


「消えるのではないんですか」


「消えない。休むだけだ」


 男が頷いた。それから少しの間、考えた。


「あなたに聞いていいですか」


「何を」


「鄭道伝は——後悔していますか。李成桂を選んだことを。朝鮮建国に関わったことを」


 湊が木杖に触れた。


 答えが来た。


「後悔していない」湊が言った。「李成桂を選んだことも、朝鮮を建国したことも。ただ——李芳遠を止められなかったことを、悔いている。止める手段があったかどうかはわからない。しかし悔いている」


 男が静かに頷いた。


「——そうですか」


 男が木杖を手に取った。今までと違う重さだった。軽くなったのではなかった。しかし持ち方が変わった。三年間、何かを感じながら持ち歩いていた杖を、今夜初めて正しく持てた——そういう重さだった。



 男が立った。鞄を持った。木杖を右手に持った。


「考察として発表します」男が言った。「出典は書けませんが」


「書かなくていい」湊が言った。「内容が残ればいい」


 男が頷いた。


「——一つ聞いていいですか」


「何を」


「鄭道伝は、日本に何の縁があって、ここに」


 湊が少しの間、黙った。


「あんたが持ち込んだ」


 男が湊を見た。それから木杖を見た。


「私が」


「三年前にあんたが入手して、持ち歩いた。あんたが九条に来た。あんたが繋いだ」


 男が木杖を見たまま、しばらく動かなかった。


「……そうか」男が静かに言った。「私が、繋いだのか」


 引き戸が閉まった。



 リリが窓の外を見ていた。


 湊がカウンターに戻った。安酒を一口含んだ。今夜も飲んだ。


「処方箋」リリが言った。「六百年前の人間が、今の政治家に向けて書いた処方箋」


「今の政治家が読むかどうかは別の話だ」湊が言った。


「読まなかったら意味がない」


「読まなくても残る。残れば、いつか読む人間が出る。それでいい」


 リリが湊を見た。


「鄭道伝はそう思っているんですか」


「そう思っているから、処方箋を残した」


 リリが少しの間、考えた。それから窓の外を見た。


「為政者の情を制度で縛れ、か」リリが言った。独り言のように言った。「今も同じだ」


「同じだ」湊が言った。「だから六百年経っても、まだ通じる」


 美晴が静かに言った。


「必要な時に、また現れます」


 誰も何も言わなかった。


 棚の奥の守り鏡が、今夜は力強く、しかし静かに、光っていた。



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