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第18話 「駒姫 ―手毬の重さ―」


前章「辞世の句を知る男」

 僧侶が来たのは、夜だった。

 五十代。墨染の衣を着ていた。両手で布の包みを持っていた。引き戸を開けて、敷居の前で一度止まった。

 湊がカウンターから僧侶を見た。

「九条さんですか」

「そうだ」

 僧侶が入ってきた。椅子に座った。布の包みをテーブルの上に置いた。両手で押さえたまま、少し間を置いた。

「山形の、専称寺から参りました」

 湊は何も言わなかった。

「駒姫様の……ゆかりの寺です」

 美晴が出てきた。茶を出した。僧侶は一口飲んだ。包みから手を離さなかった。

「先日、駒姫様の辞世の句を詠んでいたんです」僧侶が言った。「何度も読んできた句です。それなのに、その夜は——泣いてしまいました。なぜだかわからない。ただ、泣いた」

 湊が待った。

「翌朝、これが見つかりました。寺の蔵の奥に。誰がしまったのかも、わからない」

 僧侶が包みを開けた。

 手毬だった。

 小さかった。色糸が巻いてあった。赤と白と、薄い黄が使われていた。古いものだった。しかし糸は解けていなかった。丁寧に、きつく巻かれていた。

 誰も何も言わなかった。

 リリが奥から来て、手毬を見た。それから湊を見た。湊はテーブルの上の手毬を見ていた。

「触っていいか」

 僧侶が頷いた。


中章「父の怒り」

 湊が手毬に触れた。

 最初に来たのは怒りだった。

 大きな怒りだった。しかし、揺れていた。向かう先が定まっていない怒りだった。秀次への怒りが来た。幼い娘を道連れにした男への怒りが来た。秀吉への怒りが来た。あの男がいなければ——という怒りが来た。

 しかし怒りが続かなかった。

 途中で止まった。

 また怒りが来た。今度は別の方向だった。妻への——いや、妻ではなかった。妻の嘆きが来た。責めるとも言えない、ただ静かに嘆いている、その重さが来た。家臣の目が来た。誰も何も言わない、しかし目を逸らす、その沈黙の重さが来た。

 それから——止まった。

 湊が手毬から手を離した。

 僧侶を見た。

 美晴が静かにいた。リリも何も言わなかった。源じいが奥の気配を殺していた。

 湊がもう一度、手毬に触れた。

 怒りではなかった。

 声だった。

 声が来た。男の声だった。重く、低く、しかし震えていた。湊はただ受け取った。何も言わなかった。

 しばらくして、湊が手毬から手を離した。

 僧侶を見た。

「最上義光公が来ている」

 僧侶が息を呑んだ。

「話を聞くか」

 僧侶がゆっくりと頷いた。


後章「懺悔」

 湊が話した。

 秀次への怒りから始まった。腐れ縁の男への怒り。あの男さえいなければ——と義光は言った。湊はそのまま伝えた。

 僧侶が静かに聞いた。

 怒りが続いた。秀吉への怒りになった。幕府の論理への怒りになった。

 しかし——湊の口が、止まった。

 受け取るものが変わっていた。

 義光の声が、途中で変わっていた。怒りが続かなくなっていた。怒る先を探して、怒る先がなくなっていた。

 湊は黙った。

 僧侶が湊を見た。

 湊がゆっくりと言った。

「知っていたと言っている」

「——何を」

「秀次の行状を。秀吉があの男を疎んじていることを。嫁がせる前から、読めていたと」

 僧侶が動かなかった。

「それでも、嫁がせた」湊が続けた。「最上を守るために。家を守るために」

 店の中が静かだった。ジャズが遠くで鳴っていた。今夜は低い音の曲だった。

「見ない振りをした、と言っている。娘よりも家を選んだ。そうしながら、秀次を憎んでいた。己を憎めないから、秀次を憎んでいた」

 僧侶の手が、膝の上で握られた。

 湊は続けた。義光の声を、そのまま渡した。妻が何も言わなかったこと。家臣が目を逸らしたこと。誰も責めなかった。誰も責められなかった。その沈黙の中で義光は死んだ。

「謝れなかったと言っている」湊が言った。「誰にも。妻にも。家臣にも。——駒姫にも」

 僧侶の目が赤くなった。

 泣かなかった。泣く一歩手前で、止まっていた。

 義光の声が最後に来た。

 湊は受け取った。

 黙って、受け取った。

 それは駒姫に向けられていた。言葉というより、声だった。謝罪でも言い訳でもなかった。ただ、名前を呼ぶような——そういうものだった。

 湊は伝えなかった。

 伝えられるものではなかった。

 受け取るだけだった。

 しばらくして、気配が薄れた。

 湊が手毬から手を離した。

 僧侶が手毬を見た。

「……届きましたか。駒姫様に」

 湊は少しの間、黙った。

「わからない」

 僧侶が頷いた。責めるでもなく、ただ頷いた。

「それでいいと思います」僧侶が言った。「届くかどうかわからないまま、呼び続けることもあります。私どもも、そうしています」

 湊は何も言わなかった。

 僧侶が手毬を布で包み直した。丁寧に包んだ。立った。

「持って帰っていいか」

「あんたが持ってきたものだ」

 僧侶が頷いた。包みを両手で持った。引き戸に向かった。途中で一度だけ振り返った。

「義光公は——楽になりましたか」

 湊がゆっくりと言った。

「わからない。ただ、言えた」

 僧侶が小さく息を吐いた。

「それで十分かもしれない」

 引き戸が閉まった。


 美晴が静かに言った。

「今夜は重かったですね」

 湊は答えなかった。

 カウンターに戻った。安酒のコップを取った。一口含んだ。

 吐き出した。


 棚の上の守り鏡は、誰も見ていなかった。



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