第19話 「まがたま ―嘆きの玉―」
前章「三度止まる男」
男が来たのは、夜だった。
六十代。端正な顔をしていた。グレーのコートを着ていた。引き戸の前で一度止まった。店の名を見ていた。「九条」という文字を、少し長く見ていた。
それから入ってきた。
リリが奥から出てきた。男がリリを見た。視線が止まった。一瞬だった。しかしはっきりと止まった。男はすぐに目を逸らした。
湊がカウンターから男を見た。男が湊を見た。また何かを考える顔をした。何も言わなかった。
「九条さんですか」
「そうだ」
男が椅子に座った。鞄から桐箱を出した。両手で持った。
「京極と申します。歴史の研究をしています」
美晴が出てきた。茶を出した。京極は一口飲んだ。桐箱を膝の上に置いた。
「これを、どうすればいいか——ずっと、わからなかったんです」
湊が待った。
「戦時中のものです。正確には、戦時中に大陸から持ち出されたものです」京極が言った。「盗掘品です。それははっきりしている。ただ——誰のものだったかが、わからない」
京極が桐箱を開けた。
まがたまだった。
深い緑色をしていた。小さかった。しかし重そうだった。光を受けて、鈍く光った。
誰も何も言わなかった。
「家に伝わっていたものです。祖父が持ち帰った。祖父は死ぬまで何も言わなかった。私が調べて、盗掘品だとわかった。返すべき場所も、わからなかった」
京極が続けた。
「ただ——このまがたまが、嘆いているような気がしていました。ずっと」
中章「嘆きの声」
湊がまがたまを見た。
「触っていいか」
京極が頷いた。
湊がまがたまに触れた。
嘆きが来た。
怒りではなかった。最初から嘆きだった。深く、古く、重い嘆きだった。長い時間をかけて積もった嘆きだった。
声が来た。
女の声だった。
父への言葉が来た。怒りの形をしていたが、怒りではなかった。怒りを通り過ぎた後の、疲れ果てた言葉だった。わかっていた、と声は言った。国が生まれるために何が必要か、わかっていた。民が苦しんでいることも、わかっていた。それでも——と声は続いた。
湊は受け取った。
母への言葉が来た。強い女だった、と声は言った。父より強かった。その強さが娘の嘆きを封じた。娘が苦しんでいる間、父の隣に立っていた。許せなかった。しかし——と声が止まった。しかし、という先が来なかった。しばらくして、また来た。しかし、あのようになりたかった、と声は言った。
それから声が変わった。
自責が来た。
何の役にも立たなかった、と声は言った。踏み台にもなれなかった。ただ苦しんだだけだった。大きなものの礎になれたわけでも、誰かを救えたわけでも、何かを変えられたわけでもなかった。息子が国を滅ぼした。自分が生んだ息子が。
声が止まった。
湊がまがたまから手を離した。
後章「返す場所」
湊が京極を見た。
「楊麗華という女の声が来た」
京極が静かに言った。
「……隋の」
「そうだ」
京極が目を伏せた。しばらく何も言わなかった。
「父への怒りがあった」湊が言った。「母への怒りもあった。しかしどちらも、怒りの下に別のものがあった」
「何が」
「何の役にも立たなかった、という声だ」
京極が動かなかった。
湊が続けた。父・楊堅のこと。母・独孤伽羅のこと。愛する者と引き裂かれたこと。その痛みを大義で踏みにじられたこと。息子が隋を滅ぼしたこと。全部自分のせいだと思っていること。
京極が聞いた。黙って聞いた。
「研究者として知っていました」京極がようやく言った。「楊麗華がどれほど過酷な生涯を送ったか。それでも——こうして聞くと」
京極が言葉を止めた。
「違いますね。文献で読むのとは」
湊は何も言わなかった。
しばらく、店の中が静かだった。ジャズが遠くで鳴っていた。今夜は古い音の曲だった。
京極がまがたまを見た。
「返す場所が、わからないんです。誰のものかわからない。どこに返せばいいかもわからない」
美晴が静かに言った。
「わからないまま、持っていることもあります」
京極が美晴を見た。
「嘆きを聞いた人間が持っていることが、返すことになる場合もある」
京極がまがたまを見た。長く見た。
「私が持っていていいものか」
「それはあなたが決めることです」美晴が言った。「ただ——今夜、声を聞いた人間がここにいます。それは変わらない」
京極が桐箱にまがたまを戻した。丁寧に戻した。立った。コートを着た。
引き戸に向かった。途中で一度だけ振り返った。湊を見た。何かを言いかけて、止めた。
「九条さん」
「何だ」
京極が少しの間、湊を見た。
「……また、来てもいいですか」
「好きにしろ」
京極が頷いた。引き戸が閉まった。
リリが奥から出てきた。
「あの人、三回止まってたね」
誰も答えなかった。
湊がカウンターに戻った。安酒のコップを取った。一口含んだ。
吐き出した。
棚の上の守り鏡は、光らなかった。




