第20話 「母様、今夜は月がとってもきれいですよ」
前章「詩に救われた女」
女が来たのは、月の出ている夜だった。
四十代。黒いコートを着ていた。小さな鞄を肩にかけていた。引き戸を開けて、店内を見た。それから空を一度だけ振り返った。月を見ていた。
湊がカウンターから女を見た。
「九条さんですか」
「そうだ」
女が入ってきた。椅子に座った。鞄を膝の上に置いたまま、少し間を置いた。
「金子みすずの、詩をご存じですか」
「知っている」
女が頷いた。
美晴が出てきた。茶を出した。女は両手で茶碗を包んだ。温めるように持った。
「十五年前に、詩に救われました」女が言った。「どの詩かは、言えません。言葉にすると、壊れる気がして」
湊は何も言わなかった。
「それから、詩を広める活動をしています。小さな活動です。でも——続けています」
女が鞄を開けた。封筒を出した。古い封筒だった。丁寧に扱われてきたことがわかった。
「これが、手元に来たんです。正祐さんの——みすずさんの弟さんの、遺品の中にあったものです。どういう経緯かは、長くなるので省きます。ただ——私が持っていていいものか、わからなくて」
封筒をテーブルに置いた。
「みすずさんの、弟さんへの遺書です」
リリが奥から来た。封筒を見た。それから女を見た。何も言わなかった。
湊が封筒を見た。
「触っていいか」
女が頷いた。
中章「負けて勝つ」
湊が封筒に触れた。
怒りがなかった。
最初から、なかった。
来たのは——静けさだった。深く、穏やかな静けさだった。しかしその底に重さがあった。軽い静けさではなかった。多くのものを通り過ぎた後の静けさだった。
声が来た。
女の声だった。柔らかかった。
母への言葉が来た。感謝だった。怒りでも後悔でもなかった。ただ、感謝だった。房江を——娘を、引き取ってくれた。育ててくれた。それへの感謝だった。伝えられなかった感謝だった。月がきれいな夜に、言えなかった感謝だった。
それから——弟への言葉が来た。
湊は受け取った。
詩を守ってくれた。世に出してくれた。小さな命たちのことを書いた詩を、半世紀の時を越えて届けてくれた。その感謝だった。弟はもういない。だから届かない。それでも、声は来た。
後悔がなかった。
死を選んだことへの後悔が、なかった。
湊はそこで少し止まった。後悔のない霊は珍しくなかった。しかしこの静けさは別だった。諦めではなかった。納得でもなかった。ただ——負けて、勝った、という声だった。それだけだった。
湊が封筒から手を離した。
女が湊を見た。
「何か、来ましたか」
「来た」
「怒っていましたか」
「怒っていない」湊が言った。「後悔もない」
女の目が少し揺れた。
「……そうですか」
「感謝が来た。お母さんへの感謝だ」
女が目を伏せた。
湊が続けた。房江のこと。月の夜のこと。言えなかった感謝のことを、そのまま渡した。
女は黙って聞いた。途中で一度だけ、息を吸った。それだけだった。泣かなかった。泣く必要がないような顔をしていた。
「負けて勝つ、という言葉があります」女が静かに言った。「みすずさんの言葉です。ずっと、その意味を考えていました」
湊は答えなかった。
「今夜——少し、わかった気がします」
後章「月がきれいな夜に」
しばらく、誰も何も言わなかった。
ジャズが遠くで鳴っていた。今夜は静かな曲だった。女が窓の外を見た。月が出ていた。
「鰯の葬儀という詩があります」女が言った。窓を見たまま言った。「小さな鰯の葬列を、浜の子どもたちが見送る詩です。誰も笑わない。みんな、ちゃんと見送る」
湊は何も言わなかった。
「私が救われたのは、そういう詩でした。小さいものを、ちゃんと見ている詩でした」
美晴が静かに言った。
「小さいものを見る目を持っていた方でしたね」
女が頷いた。
女が封筒を手に取った。
「これ、どうすればいいか——やっぱり、まだわからないんです」
「返すべき場所に返せるか」湊が言った。
「時間がかかります。でも——探します」女が言った。「みすずさんの詩が今ここにあるのは、正祐さんが守ったからです。だから——この遺書も、ちゃんとしたいと思います」
湊は何も言わなかった。
女が封筒を鞄にしまった。丁寧にしまった。立った。コートの前を合わせた。
引き戸に向かった。途中で一度だけ振り返った。
「みすずさんは——今も、どこかにいますか」
湊が少しの間、黙った。
「さあ」
女が小さく笑った。引き戸が閉まった。
リリが窓の外を見た。
「月、きれいだね」
誰も答えなかった。
湊がカウンターに戻った。安酒のコップを取った。一口含んだ。
飲んだ。
棚の上の守り鏡が、静かに光っていた。リリが気づかなかった。美晴だけが見ていた。




