第21話 「算盤」
前章「近江の男」
老人が来たのは、夜だった。
八十に近い年齢に見えた。しかし背筋が真っ直ぐだった。風呂敷包みを両手で持っていた。引き戸を開けて、店内を見た。骨董を一つ一つ、ゆっくりと見た。それから湊を見た。
「九条さんですか」
「そうだ」
老人が入ってきた。椅子に座った。風呂敷包みをテーブルに置いた。
「近江から来ました。商いをしております」
湊が待った。
「これを、どうにかしてほしい」老人が言った。「持っていられなくなりました」
美晴が出てきた。茶を出した。老人は一口飲んだ。それから風呂敷を開いた。
そろばんだった。
古いものだった。珠が黒ずんでいた。しかし框はしっかりしていた。丁寧に使われてきたものだった。
「石田三成公にゆかりのものです」老人が言った。「近江の商家に伝わってきました。我々にとって三成公は——身内のようなものです。同じ近江の人間として、大切にしてきました」
老人がそろばんを見た。
「しかし最近、気配が変わりました。怒っている。いや——怒りではない。もっと暗いものです」
「怨みだ」湊が言った。
老人が湊を見た。
「そうかもしれません」
中章「怨みの正体」
湊がそろばんを見た。
「触っていいか」
老人が頷いた。
湊がそろばんに触れた。
来た。
激しかった。これまでで最も激しい部類だった。怒りではなかった。怨みだった。煮詰まって、凝り固まって、出口を失った怨みだった。豊臣恩顧の大名たちへの怨みが来た。名前が来た。清正、正則、長政——裏切った者たちへの怨みが波のように来た。
湊がそろばんから手を離した。
老人を見た。
「三成が来ている」
老人が息を呑んだ。
「怨みが強い。悪霊に近い」
老人の顔が青くなった。
奥で気配がした。
源じいが廊下に出てきた。背筋を正した。
忠長が現れた。
音もなく、気配もなく、ただそこにいた。式神の現れ方だった。
老人が忠長を見た。何も言えなかった。
忠長がそろばんを見た。それからリリを見た。
リリが奥から出てきた。
忠長がリリを見た。視線が止まった。一瞬ではなかった。長く、止まった。
リリが忠長を見た。
「……誰」
忠長が答えなかった。答えられない顔をしていた。
美晴が静かに言った。
「忠長様です」
リリが忠長を見た。忠長がリリを見ていた。その視線の中に何があるか、湊にはわからなかった。
湊がもう一度そろばんに触れた。
怨みが来た。今度は忠長の気配に反応した怨みだった。徳川への怨みが来た。
湊が手を離した。
「三成」湊が言った。声に出した。「聞こえているか」
店の空気が変わった。
老人が椅子の上で固まった。
湊が続けた。声が平坦だった。しかし速度が落ちなかった。
「お前が豊臣恩顧の大名を怨んでいるのはわかった。しかし聞け」
空気が揺れた。怨みが押し返してくる感触があった。
「お前は多くの者に怨まれている。大名にだけではない。民にも怨まれている」
揺れが強くなった。
「実現性のない意地のために、多くのものを死に追いやった。関ヶ原で死んだのはお前だけではない。お前の意地に巻き込まれて死んだ者がいる。それをわかっているか」
怨みが荒れた。店の中の骨董が微かに揺れた。美晴が棚に手を添えた。
湊が動かなかった。
忠長が口を開いた。
静かな声だった。
「同じだ」
怨みが止まった。一瞬、止まった。
「ガラシャも。豊臣も。私も」忠長が言った。「意地を通すために人が死んだ。実現しない夢のために動いて、周りを道連れにした」
誰も何も言わなかった。
「私は弟を死なせた。父に疎まれて、最後は自分も死んだ。何も守れなかった。何も変えられなかった」
忠長がそろばんを見た。
「お前だけではない、三成。同じ過ちを犯した者が、ここにいる」
責めていなかった。告白だった。自分自身の話をしていた。
後章「亀裂」
店の中が静かになった。
怨みが揺れていた。凝り固まったものが、内側から揺れていた。しかし解けなかった。亀裂が入ったまま、閉じることもできずにいた。
リリがそろばんを見た。
忠長がリリを見た。また、長く見た。
リリが忠長を見返した。
「私の顔に、何かあるの」
忠長が少しの間、黙った。
「……いや」
「嘘だ」リリが言った。
忠長が答えなかった。美晴が忠長を見た。湊が見ていた。老人は何が起きているかわからない顔をしていた。
怨みがまだそこにあった。
しかし最初とは違っていた。荒れていなかった。重く、静かに、そこにあった。
湊が老人を見た。
「今夜は持って帰れ」
老人が湊を見た。
「終わっていないんですか」
「終わっていない。しかし今夜は変わった」湊が言った。「また来い」
老人が頷いた。そろばんを風呂敷に包み直した。立った。引き戸に向かった。途中で一度振り返って、忠長を見た。それから湊を見た。何も言わずに出て行った。
忠長がリリを見ていた。
リリが忠長を見ていた。
「また来るの」リリが言った。
「式神だ」忠長が言った。「呼ばれれば来る」
「誰が呼ぶの」
「悪霊が来れば現れる」
リリが頷いた。それ以上聞かなかった。
忠長がいなくなった。音もなく、気配もなく、ただいなくなった。
美晴が棚を見た。
守り鏡が光っていた。強くではなかった。しかしはっきりと光っていた。
リリが棚に近づいた。守り鏡の前で止まった。触れなかった。ただ、見た。
「……きれいだね」
誰も答えなかった。
湊がカウンターに戻った。安酒のコップを取った。一口含んだ。
吐き出した。




