第31話「宿痾」
男が二度目に来た。
前回より少し早い時間だった。
棚にシナリオがあった。レコードがあった。男が入ってきて、レコードを一瞬見た。何も言わなかった。
美晴が茶を出した。男が座った。前回より口が重かった。
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しばらく間があった。
男が話し始めた。今度は川島の体の話だった。
監督に昇進した頃からすでに筋萎縮性側索硬化症を発病していたこと。それを知りながら撮り続けたこと。二十種類以上の薬に毎月金をつぎ込んでいたこと。
「病気が遺伝することを恐れていたそうです」
男が続けた。
「だから子供を作らなかった。自分の代で終わりにするつもりだった」
リリが黙って聞いていた。
「亡くなる直前に、愛人に子供ができたんです」
男の声が少し変わった。
「産むことを許さなかった。自分が残せるものは作品だけだと思っていたから」
誰も何も言わなかった。
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しばらくして男が続けた。
「晩年は借金がかさんでいたそうです。取り立てが来るたびに書き留めで金を送っていた」
男が続けた。
「死ぬまでに全部払い終えていたそうです」
リリが「几帳面だね」と言った。
「几帳面なんですかね」と男が言った。「派手に使って、ちゃんと返して、また使って。そういう人でした」
死の直前まで未完のシナリオを三本抱えていたこと。
「お金が入るとすぐ消えた。飲み代、薬代、洋服代。それでも撮り続けた」
美晴が静かに聞いていた。
「亡くなった朝、自室で見つかったんです」
男が言った。
「寛政太陽傳のシナリオを手にしたまま死んでいた」
湊がシナリオに目をやった。棚の上の、あの束を。
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「それでもまだ足りなかったんですかね、川島先生は」
男が言った。
少し間があった。
「……私も、足りないんでしょうね」
誰も何も言わなかった。
リリが茶碗を両手で持ったまま、男を見ていた。
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湊が棚のシナリオを見た。
微かだった。紙の束が、ほんの少し、重くなったような気がした。湊だけが気づいた。美晴が湊を見た。それだけだった。
男は気づかなかった。
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男が帰った。
守り鏡は光らなかった。
湊は安酒を口に含んで、吐き出した。
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