第30話「シナリオ」
**第30話「シナリオ」(改稿版)**
夜、九条に男が来た。
中年の役者だった。くたびれたコートを着ていたが、身なりは悪くなかった。仕事のある男の顔をしていた。
美晴が茶を出した。男は座って、少し間を置いてから内ポケットに手を入れた。
封筒を取り出した。それからもう一つ、レコード盤。
「一緒に入っていました」
封筒の中からシナリオの束を出した。表紙に「寛政太陽傳」とあった。
美晴がレコードを受け取った。棚に並べた。シナリオを湊に渡した。
湊がページをめくった。
男が話し始めた。フランキー堺の後輩の弟子であること。後輩が亡くなる前に渡されたこと。川島先生のものだからと言われたこと。何年も引き出しの奥にしまっていたこと。
「なぜ今日持ってきたんですか」
美晴が聞いた。
男は少し間を置いた。
「捨てられなくて」
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リリが棚のレコードのジャケットを覗いた。
「これ、何」
「フランキーさんの出発点みたいなものです」
男が答えた。それだけ言った。
リリがジャケットをもう一度見た。それから棚に戻した。
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湊はまだシナリオをめくっていた。
男が話し続けた。川島雄三という人間について。促されたわけでもなかった。自分でも止められないように話した。
家を持たなかった話。宿を転々としながら撮り続けた話。日本軽佻派を名乗り、権威を笑い、喜劇で世界を斬った話。
「松竹にいた頃、同期と小冊子を作ったんです。会社の上の連中をからかう内容で」
男が続けた。
「四号で潰されました。会社から圧力がかかって。それでも川島先生は笑ってたそうです」
リリが「懲りないね」と言った。
「懲りない人でしたよ」と男が言った。少し表情が緩んだ。
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しばらくして男が別の話をした。
弟子の浦山という監督が映画を撮った。川島先生はその試写をこっそり見に行って、終わった後「新人にしちゃ、よく出来たシャシンです」と言って打ち上げをご馳走したと。浦山には知らせなかった。気づかれないところで支えていた。
「そういう人でした」
男が言った。それ以上は言わなかった。
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それから男は幕末太陽傳の話をした。
あの映画にはシナリオ上、別のラストがあったこと。佐平次がセットを飛び出し、撮影所を飛び出し、現実の街を走り去っていく結末だったこと。しかしスタッフに反対されて撮れなかったこと。
「積極的逃避——川島先生はそう言ってたそうです。佐平次はあらゆるものから逃げ出すんだ、積極的にって」
男が少し間を置いた。
「撮れなかったんですよ、そのラストは」
湊がページをめくる手を止めた。
リリが黙っていた。
「かっこよかったんでしょうね」と男が言った。「私には関係ない話ですが」
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帰り際に男が言った。
「置いていっていいですか」
「預かります」
美晴が答えた。
シナリオが棚に置かれた。レコードの隣に並んだ。
リリがしばらくそれを見ていた。
「この映画、見てみたかったな」
誰も答えなかった。
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守り鏡は光らなかった。
湊は安酒を口に含んで、吐き出した。
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