第29話「牌」
前章
女が九条に来たのは、夜も深い時間だった。
三十代の半ばほどだった。着ているものは地味だったが、目が利く人間だとわかる目をしていた。しかし今夜の目は、違った。何かに怯えている目だった。自分自身に怯えている、という方が近いかもしれなかった。
「骨董のオークションで、手に入れました」
テーブルに置いたのは、小さな木牌だった。古い。朝鮮の様式だった。
「李垠殿下のゆかりの品と聞きました。日本にいらした頃のものだと」
美晴が牌を見た。手には触れなかった。
「私に、朝鮮の血が少し入っています」女は言った。「ずっと気になっていて。自分のルーツを、何か形で感じたくて、手に入れたんです」
リリが女の顔を見た。
「それからです」女は続けた。「おかしくなったのは。電車に乗ると、隣の人が悲しんでいるのがわかる。道を歩くと、すれ違う人が怒っているのがわかる。わかる、というより、流れ込んでくる。自分のものじゃない感情が、止まらなくて」
女は両手を膝の上で握り合わせた。「最初は気のせいだと思っていました。でも、毎日です。眠れなくて、外に出られなくて。この牌を手にしてから、ずっと」
湊が牌を見た。
「捨てればいいとも思いました」女は言った。「でも、捨てられなくて。なんでか、捨てられないんです」
美晴が静かに言った。「捨てられないのは、あなたのせいじゃないと思います」
女が美晴を見た。
「呼ばれているんです」美晴は続けた。「あなたが」
中章
湊が牌に触れた。
流れ込んできたのは、言葉ではなかった。感情の地層だった。
一番上にあったのは、疲れだった。長い、骨の芯まで染みた疲れ。その下に怒りがあった。しかし怒りは形を失っていた。長く抱えすぎて、もう誰に向けていいかわからなくなっていた。舅への怒り、夫への諦め、それから——子供のこと。産まれなかった子、産まれても長く生きられなかった子。その悲しみが一番深いところにあった。
そしてその全ての下に、一つの問いがあった。
なぜ、心を痛めたのか。
道具として使われた。政治の道具、権力の道具。ならば道具らしく、心など持たなければよかった。しかし持ってしまった。痛めてしまった。そして最後には、邪魔になって、殺された。
心を持ったことへの、答えが出ない。
無情の、埋め方がわからない。
湊は長い間、黙っていた。
女が湊を見ていた。
「道具だったと、思っています」湊はゆっくり言った。「それでも心を痛め続けた。なぜそうなったか、自分でもわからない、と」
女の顔が歪んだ。
「邪魔になったら、殺された」
女が目を閉じた。
湊は牌を持ったまま、少し間を置いた。それから、静かに言った。
「消えるか」
九条の空気が止まった。
答えが来た。声ではなかった。しかし確かに届いた。
——その方が、楽よね。
諦めではなかった。選択だった。長く苦しんで、ようやく見つけた、唯一の出口を選ぶ声だった。
道徹が来た。
いつの間にか、土間に立っていた。牌を一度見た。湊を見た。湊が頷いた。
道徹は何も言わなかった。技術として、正確に、しかし今夜は、いつもより少しだけ、丁寧に動いた。
九条の空気が揺れた。
長い疲れが、ほどけるように、散った。
女が息を吐いた。自分でも気づかないうちに、ずっと息を詰めていたのかもしれなかった。
しばらく誰も動かなかった。
それからリリが、静かに言った。「楽になれたといいね」
誰への言葉か、わからなかった。
後章
女はしばらく、その場に座っていた。
「感じなくなりました」女は言った。「さっきまで、あなたたちの気持ちも流れ込んできていたのに」
美晴が頷いた。「ぼやけていくと思います。少しずつ」
「寂しい気もします」女は牌を見た。「変ですね」
「変じゃないです」リリが言った。
女は牌を手に取った。今度は、ただの古い木だった。何も流れ込まなかった。女はそれをテーブルに戻した。「持って帰ります。大切にします」
女が帰った後、湊は縁側に出た。
安酒の瓶を持ってきた。盃に注がず、瓶のまま、一口あおった。
美晴が後ろから見ていた。
「苦しかったんでしょうね」美晴が言った。問いかけではなかった。
湊は何も言わなかった。夜の空気が冷たかった。
九条の棚で、守り鏡が揺らぐように光った。一度、二度。それから静かになった。
リリが棚のそばに立っていた。守り鏡を見ていた。「揺れた」
美晴が頷いた。「ええ」
「悲しい光だった」
美晴はそれには答えなかった。
湊は空を見上げた。星は出ていなかった。




