第28話「遺髪」
前章
池袋の駅から少し歩いた。
サンシャイン60のビルが見える辺りで、依頼人は立ち止まった。四十代の半ばほどの男だった。スーツを着ていたが、ネクタイは緩めていた。
「ここで合ってますか」
湊が頷いた。美晴とリリは少し後ろにいた。
「祖父から聞いた話です」男は鞄から小さな桐箱を取り出した。「松井閣下の部下でした。戦後、巣鴨に面会に行った時に、松井閣下から預かったと」
箱を開けると、白い紙に包まれた遺髪が入っていた。
「広田さんの、奥さんのものだそうです」男は言った。「松井閣下の家族と、広田さんの奥さんが、支え合っていたと聞いています。奥さんが亡くなった後、松井閣下が形見として手元に置いていたものを、祖父に渡したと」
リリが桐箱をそっと覗き込んだ。何も言わなかった。
「祖父はずっと、これをどうすべきか悩んでいました。私も引き継いで、長い間、悩んでいました」男は空を見上げた。高層ビルの頂が、夕暮れの光の中にあった。「ここへ来るたびに、思い出すんです」
湊が男を見た。「何かしようとしていますか」
男は少し間を置いた。「はい。まだ、形にはなっていませんが」
「それを聞いてから、触れます」
男は頷いた。「記録を掘り起こしたいんです。何があったか、誰が何を考えていたか。埋もれているものを、きちんと残したい」
湊は遺髪に手を伸ばした。
中章
重さがなかった。
怨みではなかった。圧力でもなかった。ただ、静かな、長い時間の重さがあった。
二つの気配が、そこにいた。
一方は、言葉を選ぶ人間だった。外交官として生きてきた人間の、慎重な言葉の選び方があった。軍部現役大臣制——その四文字が、石のように沈んでいた。あの制度を復活させた閣議を止められなかった。あの一点が、その後の全てに繋がった。言い訳はしなかった。ただ、悔いていた。そして、自分が何を考え、何に抗い、何に敗れたか——それが後世に届いていないことを、静かに、長く、惜しんでいた。
もう一方は、もっと直接的な人間だった。武人の気配があった。病の中で床に伏していた日々が、染みついていた。前線で何が起きていたか、知っていた。止められなかった。体が動かなかった。その無力を、ずっと抱えていた。裁きは受け入れた。しかし、自分が何を思い、何を悔い、何ができなかったか——それもまた、政治の駆け引きの中に埋もれた。
二人に共通していたのは、怒りではなかった。
静かな、待つ気配だった。
真実はいつか明らかになる——そう思っていた。思い続けていた。しかしまだ、その時が来ていなかった。
湊は遺髪から手を離した。
男が湊の顔を見た。
湊は少し間を置いてから、言った。「二人います」
男が息を呑んだ。
「一人は、制度を止められなかったことを悔やんでいます。自分が何を考えていたか、それが伝わっていないことを、惜しんでいます」
男は黙って聞いていた。
「もう一人は、体が動かなかったことを悔やんでいます。前線で何が起きていたか、知っていた。止められなかった。それを、誰かに伝えたかった」
夕暮れの風が吹いた。ビルの谷間を、乾いた風が通り抜けた。
「二人とも、抗弁はしていません」湊は言った。「受け入れた。それが自分の責任だと思っていた。ただ、真実が——」湊は少し止まった。「埋もれたまま、ということを、惜しんでいます」
男の目が赤くなっていた。
「あなたが動くなら」湊は続けた。「眠れると言っています」
男は長い間、動かなかった。
それから、深く頭を下げた。頭を上げた時、顔が変わっていた。決まった顔だった。
後章
九条には戻らなかった。
池袋の路地に、小さな屋台があった。美晴が見つけた。リリが「入ろう」と言い、誰も反対しなかった。
男は先に帰っていた。
湊は屋台の親父にコップを三つ頼んだ。酒を注いでもらった。
一つは自分の前に。一つは右に。一つは左に。
飲まなかった。しばらく、そのまま置いていた。
リリが何も言わずに見ていた。美晴も何も言わなかった。
屋台の親父は何も聞かなかった。
しばらくして、湊は自分のコップを飲んだ。残りの二つは、そのままにした。
「眠れるといいね」リリがつぶやいた。
美晴が静かに言った。「長い間、待っていましたから」
湊は何も言わなかった。屋台の灯りが、夜の路地に小さく滲んでいた。
その夜、九条の守り鏡に変化はなかった。




