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第27話「経世済民」

 

 前章

 師走の夜、九条の引き戸が開いたのは、閉め時を過ぎてからだった。


 入ってきたのは、六十を少し越えたとおぼしき男だった。背筋が妙に正しく、しかし目のあたりに疲れを滲ませている。手に、風呂敷包みを持っていた。


「夜分に申し訳ありません」と男は言った。「近衛のお屋敷で、長年、遺品の管理をさせていただいております、森田と申します。父の代からの仕事で」


 美晴が茶を出した。男は両手で受け取り、しかし飲まなかった。


「近衛文麿公の遺品を、改めて整理していたところです。長い間、そのままにしておいた箱がいくつかありまして」


 リリが棚のそばで、何かの埃を払っていた。源じいは奥に引っ込んでいた。


「その中に、これが入っておりました」


 風呂敷を解くと、縦長の箱が出てきた。桐の、古いものだった。蓋を取ると、中に一枚の紙が収まっていた。墨の、濃い。文字は崩れているが、力がある。右の端に小さく、署名と落款。


 湊が一歩、近づいた。


「大塩平八郎の書です」と男は言った。「鑑定書もございます。公が、お亡くなりになる二、三日前に、どこかから入手されたようで」


 美晴が静かに聞いた。「公は、何かおっしゃっていましたか」


「父から聞いた話なのですが」男はようやく茶を一口含んだ。「夢を見た、と。大塩の夢を。何度も、と。怖い、と、そうおっしゃっていたそうです」


 湊が書に手を伸ばしかけ、止まった。


 男が続けた。「処分するべきかとも思いましたが、どうにも踏み切れなくて。こちらのことを人伝に聞きまして」


「経世済民」とリリが読んだ。独り言のように。「世を経め、民を済う、か」


 男が振り返った。「ご存じですか」


「大塩さんの、根っこの言葉でしょう」リリは埃払いの手を止めた。「それが今も、ここにある」



 中章

 湊が書に触れた。


 その瞬間、九条の空気が変わった。


 重かった。鉛のような重さではなく、もっと固いもの、凝り固まって形を変えられなくなったものの重さだった。


 湊は目を閉じた。


 声、ではなかった。怒りだった。ただの怒りではなく、形を固定された怒りだった。天保の飢饉、餓死する民、見て見ぬ振りをする幕府の役人、そして焼き討ち、鎮圧、処刑。それが圧縮されて、石のようになっていた。以来ずっと、その石が転がり続けていた。十一代から十四代の将軍へ、維新の功臣たちへ、そして近代の為政者たちへ。民が困窮するたびに、石は熱を持ち、ぶつかった。


 思考、ではなかった。


 ただの爆発の装置だった。


 湊が手を離した。


 美晴が湊の顔を見た。湊は何も言わなかった。


 それから、気配が変わった。


 道徹だった。いつの間にか、土間に立っていた。いつも通り、音がなかった。


「来てしまいましたか」と美晴が言った。


「ええ」道徹は書を見た。近づかなかった。「対話はできません。すでに、思考が止まっています。残っているのは条件反射だけだ」


「祓えますか」


「技術として、はい」


 男が立ち上がりかけた。美晴が手で制した。「このままでいてください」


 その時、九条の端で、もう一つの気配が生まれた。


 忠長だった。


 着物の裾が揺れた。源じいが奥から姿を見せ、背筋を正した。


 忠長は書の前に立った。しばらく、黙っていた。それから、独り言のように言った。


「ここまでやってしまったのか」


 誰に向けた言葉でもなかった。憐れむ声だった。同情ではなく、もっと個人的な、自分のことを見るような憐れみだった。


「志が、石になってしまった」


 リリが忠長を見た。忠長はリリを見なかった。書だけを見ていた。


 道徹が動いた。


 長くはかからなかった。技術として、正確に、静かに。九条の空気が揺れ、それから、重さが消えた。固まっていたものが、散った。


 男がうつむいていた。何かを堪えているようだった。


 しばらくして、顔を上げた。「公は、その夢の中で、何を見ていたんでしょうか」


 湊は答えなかった。


 美晴が言った。「民のことを、思っていた方でした。それだけは確かです」


「それで、十分です」男はそう言って、頭を下げた。



 後章

 男が帰った後、湊は縁側に出た。


 安酒の瓶を持ってきた。いつもと違う動作だった。盃に注ぎ、しかし口に運ばなかった。縁側に置いた。


 供えた。


 飲みも、吐き出しもしなかった。


 美晴が後ろから見ていた。リリも見ていた。


「どこかで、ちゃんと眠れているといいけどね」リリがつぶやいた。大塩のことを言っているのか、近衛のことを言っているのか、わからなかった。


 九条の棚で、守り鏡の曇りが、ほんの少しだけ、薄れたように見えた。



 後日

 雨が上がった翌日、湊は一人で大阪に向かった。


 美晴とリリが後を追った。止めなかった。「行くなら一緒に行く」とリリが言い、美晴が「そうですね」と言っただけだった。


 天満の町を歩いた。湊は特に何も言わなかった。ただ、歩いた。かつて与力の屋敷があった辺り、かつて火が上がった辺り。今は何も残っていない。道があり、建物があり、人が行き来している。


「感じる?」リリが聞いた。


「何かがいた、という跡は」湊は少し間を置いた。「ある」


 それだけだった。




 晴明神社に参ったのは、夕方近くだった。


 リリの発案だった。「せっかく大阪まで来たなら、行っておこうよ」京都ではなく、大阪の堀川に面した小さな社を選んだのは、なんとなく、そちらの方が今日に合っている気がしたからだ、とリリは言った。


 境内は静かだった。参拝客がぽつぽつといる程度だった。


 湊が鳥居をくぐった時、何かが変わった。


 美晴が気づいた。湊の歩き方が変わったわけではない。ただ、空気が湊を中心に少し、密度を増したように感じられた。


 湊が社の前に立った。


 長い間、動かなかった。


 それから、何かを受け取った。声、ではなかった。感覚だった。広がりの感覚だった。物ではなく、場所そのものが持っている記憶、その土地に刻まれた思い、縁故のある者の残滓。それが開いた。鍵が回るように、ゆっくりと。


 美晴が湊の隣に立った。「湊さん」


 湊は振り返らなかった。「見える、というより」少し間があった。「聴こえる。場所が」


 美晴は何も言わなかった。


 そこに言葉があった。声の形をしていない言葉だった。平安の訛りでもなく、現代語でもなく、ただ意味だけが降りてきた。


 ——めざめのときが、参りました。


 湊は静かに目を閉じた。


「わかった」と、小声で言った。


 リリが遠くから二人を見ていた。「何かあった?」


 美晴が振り返り、静かに言った。「ええ」


 それだけだった。


 帰りの電車の中で、湊はずっと窓の外を見ていた。大阪の夜景が流れた。美晴は文庫本を開いていた。リリは眠っていた。


 湊は、今日から、変わったことを知っていた。物から声を受け取るのではなく、場所から受け取ることができる。強い思い入れが土地に刻まれていて、縁故のあるものが尋ねれば、開く。


 それが何をもたらすか、まだわからなかった。


 窓の外で、街の灯りが続いていた。




 守り鏡は、その夜、誰も見ていなかった。しかし曇りは、昨日より確かに薄れていた。





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