第26話 「薔薇色の人生」
前章「片方だけ」
女が来たのは、夜だった。
四十代。白衣の下にコートを着ていた。鞄を肩にかけていた。引き戸を開けて、店内を見た。骨董には目をやらなかった。どこに座ればいいか探す目をしていた。
湊がカウンターから女を見た。
「九条さんですか」
「そうだ」
女が入ってきた。椅子に座った。鞄を膝の上に置いた。
「病院で働いています」女が言った。「処分に困ったものがあって。捨てられなくて、ずっと引き出しに入れていたんですが——」
女が小さな紙袋を出した。テーブルに置いた。
「開けていいですか」
湊が頷いた。
女が紙袋を開けた。
ピアスだった。
片方だけだった。シルバーだった。小さかった。高価なものではなかった。しかし細工が丁寧だった。
「遺品の整理で出てきました。返す遺族もいなくて。でも——捨てられなかった」
美晴が出てきた。茶を出した。女は一口飲んだ。ピアスから目を離さなかった。
「誰のものかはわかりますか」湊が言った。
「エディット・ピアフのものだと、記録に残っていました。本人かどうかは——確認できませんでしたが」
リリが奥から来た。ピアスを見た。それから湊を見た。
「触っていいか」
女が頷いた。
中章「燃えた生涯」
湊がピアスに触れた。
怒りが来た。
自分への怒りだった。他の誰かへの怒りではなかった。止められなかった、という怒りだった。わかっていた、それでも止められなかった、という怒りだった。アルコールのこと。モルヒネのこと。無理な舞台のこと。体が壊れていくのを見ながら、止められなかった。
それから謝罪が来た。
ファンへの謝罪だった。憧れてくれた人たちへの謝罪だった。同じ道を歩ませてしまった、壊したかったわけではなかった、という声だった。あなたたちに見せたかったのはこんなものではなかった——しかし言葉にならなかった。
怒りと謝罪が、同じ場所にあった。切り離せなかった。
湊がピアスから手を離した。
女を見た。
「ピアフが来ている」
女が少し目を見開いた。
「自分への怒りが来た。ファンへの謝罪も来た」
女が静かに聞いた。
湊が話した。止められなかったことへの怒り。壊し続けたことへの怒り。憧れた人たちへの謝罪。悪い道を示してしまったことへの謝罪。全部、そのまま渡した。
女が黙って聞いた。病院の人間として聞いた。裁かない顔で聞いた。
湊がもう一度、ピアスに触れた。
別の気配が来た。
男だった。
大きな気配だった。静かだったが、大きかった。怒りがなかった。責める気配がなかった。ただ——来た。
湊が手を離した。
「もう一人来ている」
リリが息を呑んだ。
「セルダンだ」湊が言った。「マルセル・セルダン」
美晴が動かなかった。
部屋が静かになった。
ピアスの上の空気が、変わった。リリにはわかった。何かが、そこにあった。
湊がピアスに触れた。
ピアフの気配が変わった。
怒りが止まった。謝罪が止まった。全部が止まった。
それから——静けさが来た。
自己燃焼するように生きた女の、最後の静けさだった。燃え尽きた後の静けさだった。
湊がピアスから手を離した。
「会えた」と湊が言った。それだけ言った。
しばらく誰も何も言わなかった。
それから湊が言った。
「消えていく」
部屋の中の何かが、少しずつ薄れていった。リリにはわかった。美晴にはわかった。
後章「針を落とす」
女が紙袋にピアスを戻した。
「持って帰っていいですか」
「あんたが持ってきたものだ」
女が頷いた。立った。コートを着た。
引き戸に向かった。途中で一度だけ振り返った。
「——よかった」女が言った。「捨てなくて」
引き戸が閉まった。
リリが奥の棚を見た。
「レコード、あったよね」
美晴が頷いた。
リリが棚からレコードを出した。ジャケットを湊に見せた。
湊が受け取った。しばらく見た。
プレーヤーに置いた。
針を落とした。
棚の上の守り鏡は、光らなかった。




