第25話 「燕の女」
前章「竹簡」
竹簡は、細い紐で束ねられていたという。
京極がそれを九条の台に置いたとき、源じいが奥から出てきて、静かに背筋を正した。
「中国史が専門ではないのですが」と京極は言った。「知人の研究者から預かりました。燕の出土品です。文字は読めましたが、内容が——どうも、ここに持ってくるべきだと思いまして」
美晴が竹簡を手に取り、しばらく見た。
「旅立ちの前に書かれたものです」
「誰の」
「荊軻の」
京極が少し間を置いた。「暗殺者の」
「そう呼ばれた人の」
リリが台の端から竹簡を覗き込んだ。触れなかった。
中章「産めなかった」
湊が竹簡に手を置いたのは、美晴が頷いてからだった。
しばらく、何もなかった。
それから湊の指先が、わずかに動いた。
受け取っている、とリリにはわかった。
声は、来なかった。
代わりに、湊の表情が少しずつ変わった。眉間ではなく、目の奥が、何かを見るように細くなった。
「女だったんですね」と湊が言った。誰かに言ったのではなく、確かめるように。
美晴が動かなかった。
「剣を持って、男として、丹のそばにいた。丹のために、秦へ渡った」
湊が続けた。
「秦についてから、わかった」
部屋が静かになった。
リリが、京極を見た。京極は竹簡を見ていた。
「産めなかった」と湊が言った。「丹に言いたかった。喜んでほしかった」
美晴が立ち上がった。
珍しいことだった。
台のそばに来て、湊の隣に立った。荊軻がいるとすれば、そこにいるだろうという場所へ、向き直るように。
「伝わっています」と美晴は言った。「ここに来た竹簡が、証拠です」
リリも立った。
何を言うか決めていない顔だったが、立った。
「すごいと思う」とリリが言った。「全部抱えて、秦まで行ったんでしょう。それだけで、充分すごい」
湊が、竹簡から手を離さないまま言った。
「よく生き抜いた。子のことも、丹のことも、剣のことも、全部。よく持ちこたえた」
後章「次の生」
道徹が来たのは、その後だった。
いつの間にか、部屋の端に立っていた。
美晴が視線を向けると、道徹は小さく頷いた。
「輪廻の道が詰まっている」と道徹は言った。感情のない声だった。「産まれなかった子への執着と、言えなかったことへの執着が、二重に絡んでいる」
京極が息を呑む気配があった。
「解けるか」と美晴が言った。
「説ける」
道徹が台の前に立った。
「次の生がある」と道徹は言った。荊軻へ向けて、技術として、しかし過不足なく。「産まれなかった子は、次の生で会える縁になる。言えなかったことは、竹簡に残った。丹への別れは、届いた」
「届いたのか」と湊が言った。
「竹簡がここに来た。それが答えだ」
守り鏡が、静かに光った。
美晴が見た。リリが見た。今夜は二人が見ていた。
光は長くなかった。しかし確かに、温かかった。
京極が竹簡を受け取って、しばらく台の前に立っていた。
それから、ゆっくりと振り返った。
リリを見た。
湊を見た。
「少し、話してもいいですか」と京極は言った。「荊軻のことではなく」
美晴が、椅子を勧めた。
湊が安酒を口に含んで、飲んだ。




