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第24話 「口紅」


前章「暗号の男」

 男が来たのは、夜だった。

 四十代。地味な服を着ていた。眼鏡をかけていた。鞄を肩にかけていた。引き戸を開けて、店内を見渡した。骨董には目をやらなかった。湊を探す目をしていた。

 湊がカウンターから男を見た。

「九条さんですか」

「そうだ」

 男が入ってきた。椅子に座った。鞄を膝の上に置いた。少し間を置いた。

 美晴が出てきた。茶を出した。椅子を引いて、少し離れた場所に座った。男を見た。何も言わなかった。

 男が茶を一口飲んだ。鞄から小さな箱を出した。古い箱だった。

「チューリングのものです」男が言った。「アラン・チューリング。暗号研究者として、ずっと研究してきました。どういう経緯でこれが手元に来たかは——説明が長くなります。ただ、来た時から気配がして。持っていられなくなって」

 男が箱を開けた。

 口紅だった。

 古かった。しかし形は残っていた。深い赤だった。

 誰も何も言わなかった。

 美晴が男を見た。男は口紅を見ていた。

「研究者として来たのか」湊が言った。

 男が少し間を置いた。

「それだけではありません」

 湊が待った。男は続けなかった。続けなくていい、という沈黙だった。

 湊が口紅を見た。

「触っていいか」

 男が頷いた。


中章「喜べない嬉しさ」

 湊が口紅に触れた。

 怨みが来た。

 しかし揺れていた。定まらない怨みだった。国家への怨みが来た。弾圧への怨みが来た。化学的去勢への怨みが来た。しかし——怨みが続かなかった。

 別のものが来た。

 嬉しさだった。

 世界が変わったことへの嬉しさだった。許容されるようになったことへの嬉しさだった。自分の後に生まれた人間たちが、自分のままで生きられるようになったことへの嬉しさだった。

 しかし——嬉しさと不幸が同じ場所にあった。

 切り離せなかった。

 世界が変わったから嬉しい。しかし世界が変わる前に自分は死んだ。嬉しさの隣に不幸がある。不幸の隣に嬉しさがある。どちらに整理することもできなかった。どちらかを選べなかった。

 声が来た。

 早く生まれすぎた、と声は言った。才能のことではなかった。研究のことでも暗号のことでもなかった。自分のままで生きたかった、という声だった。愛する者と普通に生きたかった、という声だった。それだけだった。

 湊が口紅から手を離した。

 しばらく、黙っていた。

 男が湊を見た。

「何か来ましたか」

「来た」湊が言った。「怨みが来た。しかし揺れていた」

「怨んでいましたか」

「怨んでいた。しかし——嬉しさも来た」

 男が動かなかった。

「世界が変わったことへの嬉しさだ。許容されるようになったことへの」

 男の目が少し揺れた。

「しかし」湊が続けた。「嬉しさと不幸が同じ場所にある。切り離せないと言っている。世界が変わる前に死んだ。それだけだと言っている」

 男が口紅を見た。

 美晴が男を見ていた。何も言わなかった。ただ見ていた。

「早く生まれすぎた、と言っていた」湊が言った。「才能のことじゃない。自分のままで生きたかったと。それだけだと」

 男が目を伏せた。

 長い沈黙だった。

 誰も何も言わなかった。ジャズが遠くで鳴っていた。今夜は静かな曲だった。低く、長く続く曲だった。

 男がゆっくりと口を開いた。

「私は——間に合いました」男が言った。「この時代に生まれて、間に合いました。自分のままでいられる時代に」

 湊は何も言わなかった。

「それが——チューリングを研究するたびに、重かった。間に合った自分が、間に合わなかった人の研究をしている」

 美晴が静かに男を見続けていた。

 湊がもう一度、口紅に触れた。

 声が来た。

 短かった。

 男に向かっていた。

 湊が手を離した。

「あんたに言っている」

 男が顔を上げた。

「間に合ったなら、自分のままで生きろと言っている。それが——自分には出来なかったことだから、と」

 男の目から、涙が一筋だけ出た。拭わなかった。

 何も言わなかった。

 言葉にする必要がないような顔をしていた。


後章「口紅の赤」

 しばらくして、男が口紅を箱に戻した。

「これ、どうすればいいか——まだわからないんです」

「返すべき場所があるか」湊が言った。

「探します」男が言った。「ただ——もう少し、手元に置いていてもいいですか。もう少しだけ」

「あんたが持ってきたものだ」

 男が頷いた。

 男が立った。鞄を肩にかけた。引き戸に向かった。途中で一度だけ振り返った。

「チューリングに——間に合わなかったことを、申し訳なく思っていると伝えてもらえますか。世界が間に合わなかったことを」

 湊が口紅の箱に手を置いた。

 声が来た。

 知っている、と言っていた。しかし——嬉しくもあると言っていた。それだけだった。

「知っているそうだ」湊が言った。「嬉しくもあると」

 男が小さく頷いた。引き戸が閉まった。

 美晴が静かに言った。

「重い嬉しさでしたね」

 湊は答えなかった。

 カウンターに戻った。安酒のコップを取った。一口含んだ。

 飲んだ。


 棚の上の守り鏡が、静かに光っていた。誰も気づかなかった。



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