第23話 「試合時間」
前章「空気が変わった夜」
男が来たのは、夜だった。
フードを深くかぶっていた。大柄だった。引き戸を開けて、店内を見た。一瞬だけ躊躇した。それから入ってきた。
リリが奥から出てきた。男を見た。目が止まった。美晴がリリを目で制した。リリが口を閉じた。
源じいが奥で気配を正した。
湊がカウンターから男を見た。
「九条さんですか」
「そうだ」
男が椅子に座った。フードを取った。鞄を膝の上に置いた。
「変なことを頼みに来たと思ってください」男が言った。日本語だった。少しなまりがあった。「これを——誰かに見てもらいたくて」
美晴が出てきた。茶を出した。男は両手で茶碗を受け取った。大きな手だった。
鞄から布の包みを出した。丁寧に広げた。
ユニフォームだった。
白かった。古かった。しかし保存状態が良かった。イングランドの紋章が胸についていた。
「ダンカン・エドワーズのものです」男が言った。「どういう経緯で手元に来たかは——長くなるので省きます。ただ、最近気配がするんです。夜中に。このユニフォームから」
湊がユニフォームを見た。
「触っていいか」
男が頷いた。
中章「試合時間を教えてくれ」
湊がユニフォームに触れた。
来た。
愛着だった。
怒りでも嘆きでもなかった。深く、重く、しかし温かい愛着だった。街への愛着だった。ピッチへの愛着だった。赤いユニフォームへの愛着だった。マンチェスターという街そのものへの、切り離せない愛着だった。
声が来た。
若い声だった。二十代の声だった。それより若いかもしれなかった。
不満が来た。今のクラブへの不満だった。怒りではなかった。悲しみに近かった。大きなクラブになったことはわかっている、と声は言った。金が動くことも、世界中に商売をすることも、理解できる。しかし——あのチームはマンチェスターの人間のチームだったはずだ。街の人間が誇れるチームだったはずだ。それだけは忘れてほしくない、と声は言った。
それから——別の声が来た。
重かった。
15日間の記憶が来た。
病院だった。体が動かなかった。しかし意識があった。ある夜、意識が戻った。最初に思ったのはピッチのことだった。試合のことだった。声が出た。試合時間を教えてくれ、と言った。誰かが答えた。答えの内容は来なかった。ただ——その瞬間のことが来た。死の間際まで、ピッチにいた。後悔していない、と声は言った。あの15日間を後悔していない。ただ戦っていた。それだけだった。
湊がユニフォームから手を離した。
男が湊を見た。
「何か来ましたか」
「来た」湊が言った。「マンチェスターへの愛着だ。それと——最後の15日間のことだ」
男が目を伏せた。
「後悔していないと言っていた。あの15日間を。ただ戦っていたと」
男が動かなかった。しばらく動かなかった。
それから鞄を開けた。もう一つ、何かを取り出した。
レプリカのユニフォームだった。安価なものだった。本物と並べると、差は明らかだった。
男がレプリカを手にした。広げた。眺めた。それから自嘲気味に笑った。
「自分にはこれがお似合いだ」
誰も何も言わなかった。
男がレプリカを膝の上に置いた。本物には触れなかった。
「届かなかったんです」男が言った。それだけ言った。何が届かなかったかは言わなかった。
湊がもう一度、本物のユニフォームに触れた。
声が来た。
短かった。
湊が手を離した。男を見た。
「あんたに言っている」
男が顔を上げた。
「届かなくても、戦っていたことは本物だと言っている」
男が動かなかった。
「試合時間を聞いた男が言っている」湊が続けた。「届いたかどうかじゃない。戦ったかどうかだと」
男の目が、少し揺れた。
泣かなかった。泣く手前で、止まっていた。
レプリカを見た。本物を見た。
何も言わなかった。
後章「ピッチの外」
しばらく、店の中が静かだった。
ジャズが遠くで鳴っていた。今夜は力強い曲だった。
美晴が静かに言った。
「最後まで試合時間を聞いた方でしたね」
男が頷いた。
「知っています。ずっと、知っていました」男が言った。「だから——このユニフォームが手元に来た時、持っていなければいけないと思った。でも最近、気配がして。怖くなって」
「怖かったか」湊が言った。
「怖かった」男が正直に言った。「自分が届かなかったことを、知っているような気がして」
湊は何も言わなかった。
男がユニフォームを布で包み直した。レプリカも、丁寧に折り畳んだ。
「持って帰っていいですか。両方」
「あんたのものだ」
男が頷いた。立った。フードをかぶった。
引き戸に向かった。途中で一度だけ振り返った。
「ダンカンに——まだマンチェスターは、あなたのものだと伝えてもらえますか。街の人間は、まだ覚えていると」
湊がユニフォームの包みに手を置いた。
声が来た。
知っている、と言っていた。だから離れられないと言っていた。
「知っているそうだ」湊が言った。「だから離れられないと」
男が小さく笑った。
引き戸が閉まった。
リリが息を吐いた。
「サインもらえばよかった」
美晴が静かに言った。
「リリ」
「わかってる」
湊がカウンターに戻った。安酒のコップを取った。一口含んだ。
飲んだ。
棚の上の守り鏡は、光らなかった。




