表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
23/33

第23話 「試合時間」


前章「空気が変わった夜」

 男が来たのは、夜だった。

 フードを深くかぶっていた。大柄だった。引き戸を開けて、店内を見た。一瞬だけ躊躇した。それから入ってきた。

 リリが奥から出てきた。男を見た。目が止まった。美晴がリリを目で制した。リリが口を閉じた。

 源じいが奥で気配を正した。

 湊がカウンターから男を見た。

「九条さんですか」

「そうだ」

 男が椅子に座った。フードを取った。鞄を膝の上に置いた。

「変なことを頼みに来たと思ってください」男が言った。日本語だった。少しなまりがあった。「これを——誰かに見てもらいたくて」

 美晴が出てきた。茶を出した。男は両手で茶碗を受け取った。大きな手だった。

 鞄から布の包みを出した。丁寧に広げた。

 ユニフォームだった。

 白かった。古かった。しかし保存状態が良かった。イングランドの紋章が胸についていた。

「ダンカン・エドワーズのものです」男が言った。「どういう経緯で手元に来たかは——長くなるので省きます。ただ、最近気配がするんです。夜中に。このユニフォームから」

 湊がユニフォームを見た。

「触っていいか」

 男が頷いた。


中章「試合時間を教えてくれ」

 湊がユニフォームに触れた。

 来た。

 愛着だった。

 怒りでも嘆きでもなかった。深く、重く、しかし温かい愛着だった。街への愛着だった。ピッチへの愛着だった。赤いユニフォームへの愛着だった。マンチェスターという街そのものへの、切り離せない愛着だった。

 声が来た。

 若い声だった。二十代の声だった。それより若いかもしれなかった。

 不満が来た。今のクラブへの不満だった。怒りではなかった。悲しみに近かった。大きなクラブになったことはわかっている、と声は言った。金が動くことも、世界中に商売をすることも、理解できる。しかし——あのチームはマンチェスターの人間のチームだったはずだ。街の人間が誇れるチームだったはずだ。それだけは忘れてほしくない、と声は言った。

 それから——別の声が来た。

 重かった。

 15日間の記憶が来た。

 病院だった。体が動かなかった。しかし意識があった。ある夜、意識が戻った。最初に思ったのはピッチのことだった。試合のことだった。声が出た。試合時間を教えてくれ、と言った。誰かが答えた。答えの内容は来なかった。ただ——その瞬間のことが来た。死の間際まで、ピッチにいた。後悔していない、と声は言った。あの15日間を後悔していない。ただ戦っていた。それだけだった。

 湊がユニフォームから手を離した。

 男が湊を見た。

「何か来ましたか」

「来た」湊が言った。「マンチェスターへの愛着だ。それと——最後の15日間のことだ」

 男が目を伏せた。

「後悔していないと言っていた。あの15日間を。ただ戦っていたと」

 男が動かなかった。しばらく動かなかった。

 それから鞄を開けた。もう一つ、何かを取り出した。

 レプリカのユニフォームだった。安価なものだった。本物と並べると、差は明らかだった。

 男がレプリカを手にした。広げた。眺めた。それから自嘲気味に笑った。

「自分にはこれがお似合いだ」

 誰も何も言わなかった。

 男がレプリカを膝の上に置いた。本物には触れなかった。

「届かなかったんです」男が言った。それだけ言った。何が届かなかったかは言わなかった。

 湊がもう一度、本物のユニフォームに触れた。

 声が来た。

 短かった。

 湊が手を離した。男を見た。

「あんたに言っている」

 男が顔を上げた。

「届かなくても、戦っていたことは本物だと言っている」

 男が動かなかった。

「試合時間を聞いた男が言っている」湊が続けた。「届いたかどうかじゃない。戦ったかどうかだと」

 男の目が、少し揺れた。

 泣かなかった。泣く手前で、止まっていた。

 レプリカを見た。本物を見た。

 何も言わなかった。


後章「ピッチの外」

 しばらく、店の中が静かだった。

 ジャズが遠くで鳴っていた。今夜は力強い曲だった。

 美晴が静かに言った。

「最後まで試合時間を聞いた方でしたね」

 男が頷いた。

「知っています。ずっと、知っていました」男が言った。「だから——このユニフォームが手元に来た時、持っていなければいけないと思った。でも最近、気配がして。怖くなって」

「怖かったか」湊が言った。

「怖かった」男が正直に言った。「自分が届かなかったことを、知っているような気がして」

 湊は何も言わなかった。

 男がユニフォームを布で包み直した。レプリカも、丁寧に折り畳んだ。

「持って帰っていいですか。両方」

「あんたのものだ」

 男が頷いた。立った。フードをかぶった。

 引き戸に向かった。途中で一度だけ振り返った。

「ダンカンに——まだマンチェスターは、あなたのものだと伝えてもらえますか。街の人間は、まだ覚えていると」

 湊がユニフォームの包みに手を置いた。

 声が来た。

 知っている、と言っていた。だから離れられないと言っていた。

「知っているそうだ」湊が言った。「だから離れられないと」

 男が小さく笑った。

 引き戸が閉まった。

 リリが息を吐いた。

「サインもらえばよかった」

 美晴が静かに言った。

「リリ」

「わかってる」

 湊がカウンターに戻った。安酒のコップを取った。一口含んだ。

 飲んだ。


 棚の上の守り鏡は、光らなかった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ