第3話:慈愛の弾道 ―荒波に消えた3000の祈り―
1.
「……何も、無いのか」
源じいの乾いた声に、湊はカウンターに突っ伏した。
指先には、今朝ガレージで弄り倒したカブのチェーンルブが黒くこびりついている。
「リリ、今夜は贅沢させるって約束しちまったんだよ。……俺は、あの部屋の点滅を繋ぐためなら、死神の使い走りだって何だってやる。だが、弾がないんじゃ戦えねえ」
背後の壁にもたれたリリが、冷たく鼻で笑う。
「贅沢? あんたが言う贅沢なんて、どうせコンビニのちょっと高いアイスくらいでしょ。……でも湊、源じいの後ろ。あの人が抱えてるもの、ただ事じゃないわよ」
湊は顔を上げ、源じいの一歩後ろに立つ初老の紳士に視線を向けた。その男が震える手でカウンターに置いたのは、サンゴと砂にまみれた、朽ち果てた木製のバットの破片だった。
「……これを、案内たい。父が最期まで握りしめていた、未練の欠片です」
2.
依頼人が持参したバット。その主は、1972年の大晦日、地震被害に苦しむ人々へ支援物資を届ける途中に墜落死した伝説の打者、ロベルト・マクスウェルだった。
「夜な夜な、カリブの波間からバットを振る音が聞こえるんです。そして、届くはずだった薬やパンの幻影が、岸に打ち寄せられては消える。……父は、まだあの日から一歩も動けていない」
リリがバットの破片に触れ、悲しげに目を伏せる。
「……聞こえるわ。激しい怒りじゃない。『間に合わなかった』っていう、途方もない自責の念。この人、自分の死なんてどうでもいいのよ。ただ、待っている子供たちに届かなかったことが、彼をこの世に縛り付けてる」
湊は、琥珀色の安ウィスキーを一口含み、洗面台に吐き出した。
「……死人のくせに、随分と自分勝手な聖人様だ。いいだろう、案内してやる」
湊はカウンターを立ち際、依頼人をひと目見て、短く告げた。
「来い」
3.
深夜、暴風雨の海岸線。
ハンターカブ(CT125)のハイビームが、荒れ狂う波を射抜く。
カブの後ろに、息子が乗っていた。
カラン、カラン……と、空っぽの薬箱が波に洗われる幻影が浮かぶ。その中心、巨大な打者の影が、折れたバットを構えて立っていた。彼の背後には、3000本安打を象徴する無数の光球が、重いプレッシャーとなって渦巻いている。
「……止まれ」
湊はカブを停め、エンジンを切った。
息子が砂浜に降り立つ。彼の足元を、冷たい波が洗った。
ロベルトの影が、息子の姿を認めた瞬間、動きを止めた。
息子は何も言わなかった。ただ、コートの内ポケットから一枚の紙を取り出し、風にさらされながら広げた。それは、彼が何度もニカラグアへ物資を届けた際の、現地の子供たちからの手紙だった。文字は読めなくても、絵は見えた。
ロベルトの影が、ゆっくりと膝をついた。
「……届いて、おったのか」
誰に向けた言葉でもなかった。
3000の光球が、静かに雨へと変わった。荒れ狂う海が、凪いでいく。ロベルトは息子の顔をしばらく見つめ、それから微笑んで、光の粒子となって消えた。
湊は何も言わなかった。ジッポーを一度だけ回し、ポケットに戻した。
4.
古美術「九条」に戻った湊は、安酒で口をゆすぎ、重厚な鍵を開けた。
「……今回の案内は、少しばかり、眩しすぎたな」
リリが隣で「……あの報酬、半分も寄付しちゃって。ステーキはどうなったのよ」と、呆れたように、けれど誇らしげに笑う。
廊下の奥、「あの部屋」に入る。
緩やかな電子音が、今日はどこか軽やかに響いていた。
暗闇の中で点滅する緑の光。
湊は、案内を終え、ただの古木に戻ったバットの破片をそっと棚に置いた。
緑の瞬きは、今日、一番の力強さで少女の寝顔を照らしていた。
湊は何も言わず、ただその光をじっと見つめた。
扉に鍵をかける音が響き、古美術「九条」には、またいつもの気だるいジャズだけが流れ始めた。




