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役割から降りたい

 相談者は、四十代の男だった。


 スーツはきちんと着ている。

 靴も磨かれている。

 どこを見ても、「ちゃんとした大人」だった。


 ただ――椅子に座った瞬間、肩が落ちた。


「……変な相談なんですけど」


「よくある」


 男は、小さく笑った。


「男って」

「ずっと、何かを求められてる気がして」


 続きを促す。


「稼がないといけない」

「決断しないといけない」

「頼られる存在でいないといけない」


 一息つく。


「その上で」

「清潔感もあって」

「余裕があって」

「いい夫で、いい父で」


 男は、指を組み直した。


「全部、できてないわけじゃないんです」

「仕事も、家庭も」

「一応、回ってる」


「でも?」


「……疲れました」


 声は、静かだった。


「弱音を吐く場所がない」

「辞めたいとも言えない」

「休みたいって言うと、甘えになる」


 沈黙。


「なあ」


「はい」


「それ」

「誰が決めた?」


 男は、すぐには答えなかった。


「……世間、ですかね」


「世間って誰だ」


 男は、苦笑する。


「分かりません」

「でも」

「外れたら、終わる気がして」


 俺は、椅子にもたれた。


「終わるって、何が?」


「……男としての価値、ですかね」


 しばらく、静かだった。


「なあ」


 男を見る。


「その役」

「全部、同時にやる契約」

「結んだ覚え、あるか?」


 男は、目を見開いた。


「……ない、です」


「だろ」


 それだけ言う。


「やりたい役と」

「やらされてる役」

「分けたこと、あるか?」


 男は、ゆっくり首を振った。


「ないです」

「考えたこともなかった」


「だから、疲れる」


 即答だった。


「役を降りるな」

「責任を捨てろとも言わない」


 少し間を置く。


「でも」

「全部、あんたじゃなくていい」


 男の喉が、小さく鳴った。


「……それでも」

「男として、弱くなりませんか」


「弱くなるんじゃない」


 窓の外を見る。


「自分になるだけだ」


 男は、長く息を吐いた。


「……証拠」

「いりませんでしたね」


「ああ」


「誰かに」

「許可をもらいたかっただけでした」


「そうだな」


 男は立ち上がる。

 来たときより、背中が少し軽い。


「強くなくても」

「いいですか」


 少し考えてから答える。


「全員が強くなる必要は、ない」


 男は、苦笑した。


 ドアが閉まる。



 相棒が、ぽつりと言った。


「あなたも普段、男らしくしなきゃって思ってる?」


「そうだなぁ」


 窓の外を見る。


「たまに、ふと思い出すかな」


 事務所に、静けさが戻る。


 役を降りる理由に、

 証拠はいらない。


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