深夜の自販機
深夜の道は、人がいない。
自販機の明かりだけが、ぽつんと光っている。
探偵は小銭を入れて、缶コーヒーを買った。
ガタン、と音がして、缶が落ちてくる。
隣に、先客がいた。
三十代くらいの男。
缶コーヒーを持ったまま、飲まずに立っている。
探偵は缶を開けながら言った。
「飲まないのか」
男は少し笑った。
「今から帰るんですよ」
「家か」
「はい」
少し間。
「帰る前に、ここで一本飲むんです」
「毎日」
探偵はコーヒーを一口飲む。
「どうして」
男は少し考えてから言った。
「このまま帰ると、会社の自分のまま家に入っちゃうから」
探偵は黙る。
男は続ける。
「ここで少しだけ、一人になるんです」
「一人だろ、今も」
「会社の帰りの一人と」
「家に帰る前の一人は、ちょっと違うんですよ」
少し笑う。
「ここで、ちょっとだけ何もない自分に戻ってから帰るんです」
車が一台、通り過ぎた。
男は缶を開けた。
「家帰ったら、父親だし」
「旦那だし」
「会社行ったら、課長だし」
一口飲む。
「でも、ここにいるときだけ、何でもないんです」
探偵は言った。
「何でもない時間か」
「はい」
少し沈黙。
男は缶を飲み終わって、ゴミ箱に入れた。
「じゃあ、帰ります」
「そうか」
「ありがとうございました」
「どういたしまして」
男は歩いて、暗い道の方へ帰っていった。
探偵は自販機の明かりを見ながら、ぼそっと言った。
「家に帰る前に」
少し間。
「一人に戻る時間か」




