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私なんていない方がいい

 夜の駅のホーム。

 人は少なかった。


 探偵はベンチに座って、缶コーヒーを飲んでいた。

 仕事の帰りだった。


 ふと、ホームの端に立っている人が目に入る。

 白線の、かなり前。


 電車のライトが遠くに見えた。


 探偵は立ち上がって、その人の腕をつかんだ。


「危ない」


 振り向いたのは、三十代くらいの女性だった。

 驚いた顔をしている。


「離してください」


「離したら落ちるだろ」


「……別にいいです」


 女性は言った。


「私なんて、いない方がいいから」


 電車がホームに入ってくる。

 風が強くなる。


 探偵は腕を離さなかった。


 電車が止まり、ドアが開く。

 誰も乗らないし、誰も降りない。


 ドアが閉まり、電車が走り去る。

 ホームに静けさが戻った。


 探偵は言った。


「どうしてそう思う」


 女性は少し黙ってから言った。


「仕事もできないし」

「結婚もしてないし」

「子供もいないし」

「何もないから」


 探偵は黙って聞いている。


「私がいなくても」

「誰も困らないし」


 女性は笑った。


「だから、いいかなって」


 探偵は少し考えた。


「じゃあ」


 少し間。


「誰か一人も、お前がいなくなっても何も思わないか?」


 女性は何も言わない。


「親は?」

「友達は?」

「昔の同級生は?」

「会社のやつは?」


「誰か一人くらい」


 コーヒーを一口飲む。


「ちょっとは嫌な気分になるやつ、いるだろ」


 女性は下を向いたまま言った。


「……いるかもしれません」


「じゃあ、いない方がいいってことはないだろ」


 女性は黙る。


 探偵は続ける。


「それにな」


「仕事してないやつもいる」

「結婚してないやつもいる」

「子供いないやつもいる」


「でも、生きてるやつはいっぱいいる」


 女性は小さく言った。


「でも、何のために生きてるんですか」


 探偵は少し考えた。


「さあな」


 女性は少し驚いた顔をした。


「意味なんて、ないかもしれない」


 少し間。


「でも」


 探偵は言う。


「今までお前が食った飯も」

「話したことも」

「笑ったことも」

「好きだったやつも」


「全部、なかったことになるぞ」


 女性は黙る。


「もったいないだろ」


 女性の肩が少しだけ震えた。


 しばらく沈黙が続く。


 やがて女性は小さく言った。


「……どうしたらいいですか」


 探偵は答えた。


「とりあえず」


 少し間。


「今日は帰って寝ろ」


 女性は少しだけ笑った。


「……はい」


 探偵はベンチに戻って、冷めた缶コーヒーを飲んだ。


 夜のホームに、電車の音だけが響いていた。

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