触れられたくない
探偵はソファの上で、だらしなく寝転がっていた。
片手でスマホをいじり、もう片方の手でコーヒーを探すが、空だった。
「コーヒーない」
「さっき自分で飲んだでしょ」
相棒が呆れた声を出す。
「お客さん来てるよ」
「ん」
探偵は体を起こし、ゆっくりソファに座り直した。
向かいには、三十代くらいの女性が座っていた。
きちんとした服装なのに、どこか疲れた顔をしている。
女性は少し迷ってから言った。
「私……夫と、したくないんです」
探偵は「そうか」とだけ言って、コーヒーの代わりに水を飲んだ。
「嫌いなのか」
「いいえ」
女性はすぐに首を振る。
「嫌いじゃないんです。むしろ、大事な人です」
「でも、したくないんです」
少し間が落ちる。
「断れないのか」
「……断ると、かわいそうで」
「夫は何て言う」
「寂しいって言います」
「そりゃそうだ」
女性は小さくうなずいた。
「だから、応じるんですけど」
「終わったあと、すごく疲れて」
「何やってるんだろうって思ってしまって」
探偵は黙って話を聞いている。
女性は続ける。
「でも、夫婦ってこういうものなのかなって」
「私が我慢すればいいのかなって」
「でも、ずっとこのままなのかと思うと……」
言葉が止まる。
探偵はしばらく何も言わなかったが、やがて口を開いた。
「言ってないのか」
「……ちゃんとは、言ってません」
「なんて言うんですか、こういうの」
「したくない、なんて」
「ひどいじゃないですか」
探偵は少しだけ考える。
「ひどいか?」
女性は驚いた顔をした。
「だって、夫婦なのに」
「夫婦でも、できないことくらいあるだろ」
「……」
「好きでも、できないことはある」
女性は黙る。
探偵は続ける。
「したいって言うやつも、間違ってない」
「したくないってやつも、間違ってない」
「どっちも、普通だ」
女性の目が少し揺れる。
「じゃあ、どうすればいいんですか」
探偵はコップの水を少し飲んだ。
「線を引け」
「え?」
「ここまでならいい」
「ここからは嫌だ」
「自分で決めろ」
女性は黙って聞いている。
「我慢ってのはな」
「相手のためにするもんじゃない」
「自分が納得してするもんだ」
「納得してない我慢は、長く続かない」
女性は小さく息を吐いた。
「……私、怖いんだと思います」
「言って、嫌われたらどうしようって」
探偵は少し笑った。
「嫌われたくないからって」
「自分を嫌いになるほど我慢するやつ、結構いるぞ」
女性は何も言えなくなる。
「人と一緒にいるってのはな」
「どこまで相手を入れていいか、決めることだ」
「入られたくないところまで入ってこられたら」
「それはもう、しんどいだろ」
女性の目に少し涙が浮かんだ。
「……はい」
「話せ」
「できない、じゃなくて」
「つらい、って言え」
「それでダメになるなら」
「そこまでの関係だ」
女性はしばらく黙っていたが、やがて小さくうなずいた。
「……話してみます」
「そうか」
女性は立ち上がり、頭を下げた。
「ありがとうございました」
「どういたしまして」
扉が閉まる。
相棒が顔を出す。
「難しいね」
「ああ」
探偵は空のコップを見ながら言った。
「言えないやつ、多いんだよ」
「我慢してる方が、楽だからな」
「でもな」
少しだけ間を置く。
「我慢は、優しさじゃない」
「ただの消耗だ」




