体験してみたくて来ました
夜の事務所。
雨の音が、窓の外で静かに続いている。
相棒はソファに座って、本を読んでいた。
探偵はコーヒーを飲んでいる。
ドアがノックされた。
「どうぞ」
入ってきたのは、三十代くらいの男だった。
スーツ。整った髪。真面目そうな顔。
でも、少しだけ疲れているように見えた。
「依頼ですか」
探偵が聞く。
男は少し考えてから言った。
「……依頼、というか」
椅子に座る。
「体験してみたくて来ました」
相棒が本から顔を上げる。
「体験?」
「はい」
男は少し笑う。
「個人として扱われる、っていうのを」
少しだけ沈黙が落ちた。
探偵はコーヒーを一口飲む。
「今まで、個人として扱われたことないんですか」
「多分、一度もないです」
男はあっさり言った。
「会社では“使える人”として扱われます」
「家では“しっかりした息子”として扱われます」
「友達には“いい人”として扱われます」
「前の恋人には“都合のいい人”として扱われました」
少しだけ肩をすくめる。
「でも、“俺”として扱われたことがあるかって言われると……よく分からないんです」
相棒が聞く。
「それって、どういう扱いのこと?」
男は少し考える。
「……分からないから、来たんです」
探偵が言う。
「ここは別に、特別なことする場所じゃないけどな」
「はい」
「話聞くだけだ」
「それでいいです」
男は少し笑った。
「多分、そういうのでいいんだと思います」
探偵は男を見る。
「名前は」
男は少し驚いた顔をした。
「……え?」
「名前」
「あ……」
男は少し慌てたように言う。
「佐藤です」
「下の名前」
「……修一、です」
探偵はうなずく。
「修一さん」
男の表情が、少しだけ変わった。
探偵は続ける。
「で、修一さんは、どうしたいんだ」
「……」
修一は少し黙る。
それから、ゆっくり言った。
「分からないんです」
「何が」
「どうしたいのか」
少し間。
「今までずっと、“どうするべきか”で生きてきたんで」
相棒が静かに聞く。
「どうするべきか?」
「親が安心する方」
「会社で評価される方」
「恋人が機嫌よくなる方」
「相手が喜ぶ方」
修一は少し笑う。
「そういうのばっかり選んできたら、何がしたいのか分からなくなりました」
事務所の中は静かだった。
雨の音だけが聞こえる。
探偵が言う。
「じゃあ今日、どうしたい」
修一は少し考える。
長い沈黙。
それから言った。
「……少しだけ、ここにいてもいいですか」
「いいよ」
探偵はあっさり言った。
「仕事の話もしないし、説教もしないし、アドバイスもしないけど」
「はい」
「その代わり、自分のことは自分で決めろ」
修一は小さくうなずいた。
しばらく、誰も何も話さなかった。
相棒がコーヒーを三つ入れた。
一つを修一の前に置く。
「砂糖、入れる?」
修一は少し驚いた顔をした。
「……あ、はい。少し」
相棒は砂糖を一つだけ入れて、スプーンで混ぜる。
カップを修一の前に戻す。
「はい」
「……ありがとうございます」
修一はカップを持つ。
少しだけ、手が震えていた。
一口飲む。
それから、小さく息を吐いた。
「……俺、今」
ぽつりと言う。
「初めて、自分で砂糖の量決めたかもしれません」
相棒が少し笑う。
探偵は何も言わない。
雨の音が、まだ続いている。
修一はコーヒーをもう一口飲んだ。
「……ここ、変な場所ですね」
「そうか?」
「はい」
修一は少しだけ笑った。
「でも、嫌じゃないです」
探偵はカップを机に置く。
「それならよかった」
それだけだった。
その夜、修一は一時間くらい事務所にいた。
特に何を話すわけでもなく、ただ、コーヒーを飲んで、少し話して、黙って。
帰るとき、修一はドアの前で少し振り返った。
「……また来てもいいですか」
探偵は言う。
「依頼があるならな」
少しだけ間。
「なくても、来ていいけど」
修一は少し驚いた顔をして、
それから、少しだけ笑った。
「じゃあ、そのうち依頼、考えてきます」
「そうしてくれ」
修一は頭を下げて、事務所を出ていった。
ドアが閉まる。
相棒が言う。
「ねえ」
「なんだ」
「個人として扱うって、何だったのかな」
探偵は少し考える。
それから言った。
「勝手に決めないことじゃないか」
「……勝手に決めない?」
「ああ」
コーヒーを一口飲む。
「砂糖いくつ入れるか、聞くことだよ」
相棒は少し黙って、
それから、少しだけ笑った。
雨はまだ、降り続いていた。




