沈黙の面会
教室に入るとそこにはいつも通りの風景が広がっていた。
昨日、あの現場に居合わせたやつも含め、皆何もなかったかのように振舞っている。
だが、どこか無理しているように見えた。
俺の存在に気がついた一人が、こちらに駆け寄って来る。
「よう、潦哉。おはよう。」
笑いかけながら挨拶してきたのは”リュウ”こと、永瀬龍心だ。
「おう、おはよう。」
「俺には無しですかぃ。」
柊輝がそう言い、俺の陰から顔を出すと龍心は一瞬、顔をしかめる。
「え、流石にひどくないですかぃ?」
もちろん本気で嫌っているわけじゃない。
いつもの冗談だ。
龍心は軽く息をつくと、ふと思い出したように俺の方へ向き直った。
「ごめん、今日の放課後空いてる?」
そう龍心は突然聞いてくる。
俺が返事する前に龍心は続きを話す。
「あいつのお見舞いに行こうって皆で話してて、二人もどうかな?」
あの後、あいつは救急車でそのまま病院に運ばれた。
偶然、その場を目撃した通行人が通報してくれたらしい。
「もちろん、行きますよ。」
柊輝はそう勝手に返事すると、いつもの調子でクラスの輪に消えていった。
「……相変わらず元気だよな、あいつ。」
龍心が苦笑しながら呟く。
「まあ、あいつらしいけどな」
俺がそう返すと、龍心はふっと小さく笑った。
「潦哉も、無理すんなよ。昨日のこと……気にしてるだろ?」
図星だった、けれど、言葉にはしない。
「……大丈夫だよ。」
そう答えると、龍心はどこか安心したように息をついた。
龍心の言葉が途切れた瞬間、ホームルーム開始のチャイムが響いた。
「もうこんな時間か。じゃあ放課後、昇降口に集合な。」
「おう。」と軽く手を上げてそう言うと、龍心も自分の席へ戻って行った。
その後、俺はまだ机の上に自分の鞄が置いていることを思い出し、慌てて準備を始めた。
午前中の授業は、正直ほとんど頭に入らなかった。
黒板を走るチョークの乾いた音も、窓の外を遠ざかるバイクの排気音も、すべてがどこか遠い世界の出来事みたいに聞こえる。
窓際の席からは、外の景色がよく見える。
街をゆく人々の服装に半袖が混じり始めていることに気づく。
もうそんな季節か、と制服の袖を無意味に引っ張ってみたが、指先に伝わる布の感触にすら現実味がなかった。
こうして、意味もなくただ時間を流すようにぼんやりしているのは、嫌いじゃなかった。
そうしている間だけは、すべての不安や懸念から解放されたような心地になれるからだ。
だが、今日は少し違う。
視界の端、街並みの向こうにひと際大きな建物が見える。
あいつが運ばれた病院だ。
昨日の光景が、何度も脳裏をよぎる。
——あの時、一歩踏み出せていれば。
考えても仕方のないことだとわかっているのに、思考はそこから動かない。
以前、部活の顧問が「たられば」なんて意味がない、終わったことをいくら悔やんでも結果は同じだ、と言っていたのを思い出した。
(わかってても、そんな簡単に切り替えられるかっつーの。)
心の中で、この場にいない顧問へ小さく毒づいた。
昼休みになっても、俺の気持ちが晴れることは無い。
皆、普段通りに騒いでいる。笑っている。
その“普段通り”が、逆に胸に刺さった。
「潦哉、飯行こうぜ。」
龍心に肩を叩かれ、ようやく顔を上げた。
「……ああ、今行く。」
立ち上がりながら返すと、龍心は一瞬だけ俺の表情を探るように目を細めた。
けれど、そのまま何も言わずに廊下へ歩き出す。
その沈黙が、今の俺にはありがたかった。
午後の授業も、気づけば終わっていた。
頭の中が昨日の記憶に支配されていたせいで、受けたはずの授業の内容は一切残っていない。
終業のチャイムと同時に、教室のあちこちで椅子を引く音が重なった。
ワンテンポ遅れて、俺も重い腰を上げる。
「行こーぜ。」
俺が立ち上がった瞬間、龍心は背後から肩に手をかけてくる。
その際に体重も乗せてきたため、思わず体勢を崩しコケかけたが、何とか踏みとどまる。
「柊輝は?」
俺がそう尋ねると龍心は親指で後ろを指さす。
そこには机で突っ伏している柊輝の姿があった。
恐らく寝ているのだろう。
「飯食ってからずっと。」
食べれば眠くなる――それが人間の性だ。
だが、こいつほど露骨なやつはそうはいない。
龍心は黙ったまま柊輝の頭を叩く。
柊輝はゆっくりと顔を上げ、不機嫌そうな表情を覗かせた。
だが、それでも動こうとはしないので、渋々二人で引っ張って行くことにした。
昇降口には壮志郎と旭がいた。
どうやらこいつらのクラスは先に終礼が終わっていたようだ。
二人も、昨日あの現場に居合わせた人物だ。
「おせーよ。」
壮志郎は、待ちくたびれた言わんばかりの表情でこちらを見る。
「ごめんって。」
そう謝ってみるも壮志郎は依然として不服そうにこちらを見ている。
「揃ったことだし、行こうぜ。」
旭の一言で、皆が歩き出した。
頭上には曇天の空が広がっている。
この空が、俺の心をさらに沈ませた。
病院までは、そう遠くない。
けれど、その距離がやけに長く感じられた。
慣れない道、ということもあるだろうが、それ以上に誰も言葉を発さないことが原因だ。
一歩踏み出すごとに、足に重りが付けたされるように感じる。
それでも何とか、足を前に踏み出し続ける。
ふと前を見ると、曇り空の下に白い建物が見えてくる。
あの病院だ。
誰かがそれに気づき、スピードを緩めたのか、わずかに全体の速度が落ちた。
けれど、止まるやつはいない。
近づくにつれて、建物はやけに大きく感じられた。
無機質な外壁。規則的に並ぶ窓。
どこか現実味のない光景に、胸の奥がざわつく。
「ふっ。」と軽く息を吐き出し、呼吸を整える。
「行くぞ。」
そう言い、あいつが入院している部屋に向かって歩を進める。
病室は事前に聞いるため、迷うこともない。
だが、病室までの道のりはいつまでも続くほど長く感じた。
廊下には、俺達の足音だけが響く。
その音が、ざわついている俺の胸をさらに掻き乱した。
ついに部屋の前に着いたとき、皆足を止めた。
だが、誰も扉に手をかけようとしない。
痺れを切らし、手を伸ばそうとするも、動かない。
この奥に広がる光景の最悪の事態を想像してしまい、恐怖から体が固まってしまった。
「俺が開けようか?」
旭がそう一歩前に出て、扉に手をかける。
「やめてくれ、見たくない。」そんな言葉を口にできるはずも無く、俺は黙ったまま頷いた。
旭はゆっくりと扉を引く。
目をそらしながら中を確認すると、そこにはベットの上に横たわるあいつの姿があった。
こちらには背を向け、窓の外を見ていたようだが、俺たちの存在に気がついたのか、寝返りを打ちこちらを向く。
一瞬だが、目が合う。
その瞬間、心臓を強く掴まれたような気がして、呼吸が少し乱れた。
見る限り、目立った怪我は腕の骨折だけのように見える。
俺はそのことに少し安堵しつつも、その怪我も本来負わずに済んだはずだ、と罪悪感に責め立てられる。
「よう。」
ベットに横たわったまま、湊は」そう声をかけてくる。
俺達は「よう。」と返すだけで、その後の会話には発展しない。
病室を重苦しい沈黙が覆う。
壁にかかっている時計の「カチッ」という針の動く音だけが聞こえる。
時間だけが流れていくような気がした。
「昨日、助けてくれなかったな。」
湊は沈黙を断ち切るように言った。
必死に返す言葉を探すも、出てくる言葉は言い訳ばかりで、結局は黙り込んでしまう。
病室に再び静寂が訪れる。
「……悪かった。」
壮志郎が絞り出すようにして発したその一言は、普段の様子から考えられないほど、弱々しかった。
湊はゆっくりと瞬きをし、天井を一度見上げてから、また俺たちへ視線を戻す。
「別に責めてるわけじゃないんだ。」
そう言う湊の声は、とても優しく感じた。
けれど、その優しさが逆に胸を締めつける。
「多分、俺もああしたと思う。」
湊は苦笑のような、ため息のような表情を浮かべた。
その顔が、痛いほどに“いつもの湊”だった。
「でもさ。」
湊は少しだけ視線を落とし、包帯の巻かれた腕を見つめる。
「やっぱ……助けてほしかったな。」
その言葉は、誰に向けたものでもなく、ただ湊自身の胸の奥から零れ落ちたようだった。
俺たちは誰も口を開けなかった。
開けられなかった。
湊はふっと息を吐き、俺達を見た。
「来てくれて、ありがとな。」
優しく微笑みかけるようにして発せられたその一言が、胸の奥に深く刺さった。
俺はただ、黙って頷くことしかできなかった。




