第64話 瞬殺無音
ダラマトナの地下深く。
そこには街の住人も知らぬ秘匿された空間が存在した。
一体如何なる方法でこの場所を作り上げたのか、知る者は少ない。
ただ事実としてそれはそこに存在する。
救世会が管理するその場所は、ヴェネリサール王国の貴族ですら一部しか知らぬ、極秘の研究所であった。
そんな場所に配属されているのは、やはり選ばれた精兵のみである。
忠誠心が高く、任務に耐え得る精神力を持つ英俊ばかり。
彼らは名目上前線での遊撃任務に当たっている事になっている。
この研究所から出た後はその功績を以て評価される予定となっていた。
しかしそんな彼らでも、このような地下深くにずっと閉じ込められていると、精神が弛緩してくるのは仕方のない話であった。
通信網すら遮断され、外部との連絡は取れず。
故にろくな娯楽も無い。
秘匿研究所故に訪れるのは決まった人間ばかりで危険性も皆無に等しかった。
形通りに巡回するだけの決まり切った毎日。
それを繰り返して、心持ちが緩まぬような人間はそうそう居ないだろう。
人間常に緊張してなどいられないのだから。
その日も当直の二人は、形ばかりの夜番についていた。
入口を見張る、窓すらない小さい部屋で彼らは時間が経つのを待っていた。
戦闘が無い為ぴかぴかで傷一つ無い現代式甲冑を纏い、横には不測の事態――あり得ないだろうが――に備えて、彼らの愛剣が立てかけられている。
壁面に張り付けられた情報端末には施設内の警報状況等が表示されていた。魔核経由で脳内に直接情報は流れ込んでくるが、魔力阻害による通信障害も念頭に入れ、情報は必ず二重表示――物理的なものと、脳内情報――されるようになっていた。
棚には何本かの巻物が重ねてしまってあり、端にはその区分を表すだろうラベルが張られていた。この施設警備記録であった。
部屋の中央に置かれた小さな机には、喉を潤す為の水が汲まれたコップと替えの水が入ったピッチャーが鎮座している。
朝までの長丁場、水分補給も肝要であった。
「この前、上の方は大変だったようだな」
直結通信による盤上遊戯で対戦しながら、騎士の一人はそんな事をつぶやく。
「魔族の大量侵入とはな」
「ここを探りにでも来たのかね」
もう一人も水を軽く煽りながら、少し楽しげに答える。
社会と断絶したこの環境では、漏れ聞こえてくる噂話も立派な娯楽となっていた。
「だろうな」
その声色にはうんざりしたものが含まれていた。
「あの馬鹿がやらかした日の夜だからな。決まりだろ」
「やはり所詮は衛星国の蛮人だな」
蔑むように、彼は顔を歪めた。
そこには隠しきれぬ差別的な意思が見え隠れしていた。
「ソンブルイユ卿直々の指示に背くとは、亜人は頭に何が詰まっているのだろうな。不思議で仕方ない」
「さぞかしつるつるなのだろうよ。人間様の考えは、けだものには分からんさ」
ハハハ、と彼らは笑いあった。
「とは言え、滞っていた補充が出来たと研究員達は喜んで居たが」
「最近は起動実験すら覚束なかったからな……」
魔力源が無ければ、試験運用すらできない。
ここ一ヶ月はソンブルイユ卿の指示により補充が禁止されていた為、研究員達のフラストレーションは極限まで高まっていた。
そこに偶発的とは言えそれがやってきた。
彼らの喜びは如何程であったか。
頭のイカれた連中ではあるが、彼らと同じ場所で仕事をする同僚でもある。
そのの機嫌が良いに越したことは無かった。
「しかも質が良いって大層ご機嫌だったよな」
「素材としては適齢だとよ。喜んで即弄り回してたぞあいつら」
「ああはなりたくないものだな」
何事にも限度は有る。
あの研究者達のように、衛星国の蛮人相手とは言えあそこまで人倫を捨てた行いができるようになりたいとは、微塵も思わなかった。
何事にも一線は有る。
とは言えその一線を越えた行いの一端を担っているという自覚くらいは有る。後ろ暗い感情を全く覚えないと言えば、嘘になるであろう。
彼は心に黒い影がかかりそうになるのを振り払い、盤上遊戯に意識を向ける。盤上では、相棒の金将が自身の王将に詰めをかける寸前であった。
「クソッ!」
思わず悪態を付く。一応金が賭けられているのだ、この勝負も。
小金ではあっても金が減るのは気分が良いものではない。
暫し意識を他所にやっていたツケが大きな形になって返ってきていた。自分が前手で打った場所は明らかに失策であった。そこを完全に突かれている。
「上の女の事でも考えていたか?」
にやにやと笑う相棒の面が、やたらと腹立たしい。
ここから詰みを回避するにはどうすればいいか、必死に頭を働かせる。
急場を凌いだとして、まだ暫く劣勢は続く。
どう挽回するか――
その時、脳裏に輝く光が一つ。
「解錠警報?」
外部との入口扉が開かれたという警報。
照合ではアンドレ司祭と出ている。
「司祭がこんな夜更けになんの用だ?」
「何か緊急の連絡でも有ったのかもしれない」
この秘匿研究所は完全に外部と遮断されており、一切の連絡手段が存在しない。
情報の交換には物理的な移動が必要となる。
その為、緊急連絡等は全て、偽装として建てられた祈祷所の主・アンドレ司祭に一任されていた。
彼らはしぶしぶと勝負を放り出し、入所手続きの準備に入る。
形式的なものではあるが、やらねばならない。
そもそもここに部外者が侵入する事などあり得ない話ではあるが、何事にも形式上揃えなければならない情報というのは有るのだ。
《《ここには特定の人物しか出入りしていない》》という形を、公式文書で残さねばならない。
救世会も所詮組織。
組織とはこのように煩雑で面倒な手続きの上に成り立っていると下っ端の彼も良く思い知っていた。
あの一見人の良さそうな司祭を、手持ち無沙汰にしながら待つ。
彼から見たアンドレはいつもにこにこと人の良さそうな笑みが堪えない、万人から好かれそうな壮年の男であったが、実際は金にがめつい男で有る事を良く知っていた。
アンドレという男は、明らかに信仰を道具にしている。それで金を儲け、地位を得て、自らの快楽を満たそうとしている。
それが彼にとっては堪らなく不愉快だった。
神はどうしてこのような男をお許しになるのかと、常々思っていた。
光の民でありながら偉大なる至天神に対して畏敬を抱かぬとは、なんたる不信心さか。
あのような男が同じ王国民であるなどと思いたくもない。
まあそのような男だからこそ今回の計画に一枚噛む事にもなったし、救世会としても便利に使う事ができたのだろうと思う。
欲望を満たせば、望むように動いてくれる。
使い潰しても心が痛まないという点も最高だな、と彼は思っていた。
「…………来ないな」
どれほど二人は待っただろうか。
数分もすればやってくるはずの司祭が、一向に姿を表さない。
「誤発報じゃないだろうな」
そう訝しむが。
「整備は月一で行っているんだぞ。あるかよそんな話」
内容が内容だけに細心の注意を払われているこの施設の魔導式管理は、王宮もかくやというレベルで徹底されていた。
「仕方ない。少し見てくる」
そう言って彼の相棒が立ち上がった。
「あのオッサン、もしかしたら階段でコケてうずくまってるかもしれないからな」
苦笑しながら、使う事は無いと思っていた剣を念の為握りしめ、部屋の入口へと向かう。
「お前はここで監視しててくれ。何かあったらすぐ上に報告しろ」
「ああ、解った」
まったく手間をかけさせてくれる、と彼は押し寄せる眠気を押し殺しながら思う。
神職でありながら信仰心の薄い司祭は、どこまで自分達に迷惑をかければ気が済むのか。
そう考えればこの場所――衛星国は似合いの場所だな、と彼は薄暗い喜びを覚えた。
待つ。
待つ。
待つ。
おかしい、と彼の頭に疑問浮かび上がる。
相棒が出ていって何分経った?
もう既に司祭の下に辿り着いて良いはずだ。そうなれば、短距離通信で連絡の一つも寄越すはず。それが、無い。
何か、嫌な予感がする。
寒いものが、ほんの僅かに彼の胸に入り込んできた。
受付所を空にするのは本来不味い。しかし夜間の今、起きている人数は限られているし、全員が全員ここと似たような状態である。応援として持ち場から離れるのは難しいだろう。
ましてや、迂闊に上司に裁可を仰ごうものなら、自身の査定にも響く。
これで単なる勘違いだった日には、自分の評価はだだ下がりだ。
「仕方ない」
彼は意を決して、自ら確認しに行く道を選んだ。
|アンダーリムの怜悧な眼鏡の調子を確かめながら、彼は立ち上がる。何、ちょっと行って帰って来るだけだ。問題は無い。
愛剣の重みを確かめながら、彼はゆっくりと廊下を進んでいく。その先は徐々に薄暗くなり、まるで地獄へと続いているかのように暗闇に閉ざされていた。
階段とその先暫くに照明が無いのは、万が一この場所を覗かれても暗闇のみしか目に入らないようにする為と、この施設を来た当初彼は説明を受けた記憶があった。
仮に魔導式眼鏡で暗視を使用したとしても、見えるのは延々と続く階段だけであろう。
勿論好奇心に負けて進んでくる馬鹿が居ないとも限らない。そういう場合は、剣の錆になってもらうだけだ。
暗視の魔導式を起動しながら、彼は暗闇の領域に足を踏み入れる。
この廊下も長く、そして何度か折れ曲がっている。その為先の見通しは非常に悪い。
尤もこの廊下にも最新式の魔力探知式警報は張り巡らされていた。
だから不審な何者かが侵入していたとしても、位置から何から全ての情報が彼には丸見えになっているはず。
何度目かの曲がり角を曲がった時。
彼はぎょっと目を見開いた。
先程部屋を出た相棒が、眼の前で倒れ伏しているではないか。
まるで眠るように、傷一つ無く、相棒は倒れているように見えた。
手足を広げ力なく地面に伏す様子は、全てから解放されリラックスしているようにすら感じる。そこで眠気が限界に来て、夢の中へと入り込んでしまったかのように。
慎重に、彼は相棒に近づく。
魔導式眼鏡に表示される情報は、この場所が安全で有る事を示していた。だというのに、彼は警戒を解かなかった。
心の何処かが、警鐘を鳴らすのだ。
これは異常だと。
「おい」
間近に歩み寄った彼は、相棒の体を揺する。
二三度、少し強く。
だが、なんの反応も返ってこない。
皮膚から伝わる熱の感触は、相棒が眠っているのかと思わせるものがあった。
しかし半ば開いて白目を剥いている目と、だらしなく閉じる事の無い口を見れば、そうでない事は明白のように感じられた。
何より、胸の辺りから感じる鼓動が一切無い事が、それを裏付けていた。
一体、何が。
反射的に、彼は剣を抜いた。
名工による業物が、僅かな光を反射し鈍く光る。
暗闇の中で刃の輝きはまるで世界を照らす灯台のように眩く感じられた。
ゆっくりと立ち上がり、辺りを見回す。
何も不審なものはない。
無機質な素材で形成された壁。清浄な空気を纏った空間。つるんとした高めの天井。
全てがいつも通りの姿だった。
五感を総動員し、集中する。
不審な動き。僅かな物音、不自然な熱。不快な異臭。そのようなものが無いか、全力で探った。
送られてくる情報全てが、安全である事を示していても。
今厳然たる事実として、この状況は異常であった。
――これは、上に判断を仰ぐべきかもしれない。
ごくりと一つ喉を鳴らし、彼はそう判断する。
死者が出た以上、どちらにせよ報告しない訳にはいかない。
しかし「よくわかりませんが一人死にました」などと挙げられる訳が無い。
情報が必要であった。
少なくとも、説明が成り立つ程度の。
じり、と擦るように足を動かし、少しづつ進んでいく。
まずはあの曲がり角の先。それを見る。
今自分がやってきた所内の方に異常は無かった。そうなれば、相棒がこうなった原因はその先に有る。
曲がり角の手前で、彼は体を壁に張り付け、気配を殺す。
この先に何かがいるのか。
胸の鼓動が早くなるのを感じていた。
自らの緊張に呼応するように、ドッドッという音が耳に届き始めた。
意を決して、角の先を覗き込む。
ちらりと、顔を半分だけ出したその先に見えた光景は――
やはり、変わらぬ暗闇であった。
ばっと勢いよく飛び出し、その先に敵が居るかのように剣を青眼に構える。
何も居ない。
数秒間そうして警戒を続け、何も無いと確信した所で、彼は漸く緊張を緩めた。
「ふう」
思わず口から声が漏れる。
溶けた緊張が自然と肺の空気を押し出し、彼の声を響かせた。
正直、何もなくて安心した、というのが本音だった。
彼とて腕に自信は有る。
しかし、未知の相手となれば、緊張もしようもの。
無傷で勝てる保証は、何処にも無かった。
――先の方も調べてみるか。
そう考えて、彼は足を踏み出し。
彼の思考は、永遠の闇へと落ちていった。
どさり、という音が暗く静かな廊下に響き渡る。
そして音も無くその隣に降り立ったのは、黒髪の女――天音寺未来。
彼女は彼の上空から頭部へと加撃し、その脳幹を破壊せしめ、即座に絶命させたのだ。
傍から見た者が居れば、それはただ頭上で片手を用い倒立しただけのような、滑稽な姿であっただろう。しかしその一撃は人体を破壊するに十分な威力を備えていた。
暗い色の制服を着込んだ少女はまるで闇に溶け込むような佇まいをしていた。
その足音はおろか衣擦れの音すら聞こえさせず、まるで幻のようにそこに存在していた。
未来は足元に転がった肉塊を、興味なさげに見下ろした。
暗がりに潜んでいた少女は、そのまま音もなく施設奥へと姿を消す。
その歩みに迷いはなく、あたかも自室の廊下を歩くかのような、ひどく場違いな軽やかさであった。
ダラマトナに作られた秘匿研究所。
そこに一匹の怪物が侵入した事に、まだ誰も気づいていなかった。




