第61話 信仰試験
魔族の大襲撃より三日後、街が寝静まった深夜。
住人たちは眠りに落ち静かに朝を待っている頃合い。
一際巨大なダラマトナの祈祷所にも静寂が満ちていた。
そのはずであった。
灯りが消され薄暗いその屋内に、奇妙な音が響き渡っている。
ずっ、ずっ、と、何か重いものが引きずられているような、這いずるような音。
そしてヒューと微かに空気が漏れるような音。
それらが建物の至る所から聞こえてきた。
巫女クレールは、死力を尽くし廊下を這いずっていた。
だがそんな彼女の様相は目を背けんばかりの恐ろしい状態であった。
膝は砕かれ曲がり、膝より下はぷらぷらとした肉の塊となっており歩く事が困難であると一目でわかる。
小刻みに震える全身からは滂沱の如く冷や汗が流れ、純白の寝間着を濡らしていた。まるで雨を被ったかのようにぴったりと肌に張り付き、その体のラインを無惨に浮き上がらせている。
また腹は膨らみ、まるで蛙が如き姿となっていた。
その顔を見れば、より一層凄惨な印象を受ける。血の気の引いた蒼白なそれに浮かぶ表情は苦痛に歪み、口からはか細い空気が漏れる音しか聞こえない。
言葉を発することができないのは、顎を砕かれているからだ。不自然に横へとズレた顎が、かつては美しかったであろう彼女の相貌を、見るに堪えないものへと歪ませていた。
その目からは涙とも血ともつかない液体がとめどなく流れている。
潰された目からそれらが流れ出ているのだ。
惨憺たる状況であったが、無事に見える部位も存在した。
巫女の両腕。
そこだけは、まるでわざと残されているように無事であった。
その無事な両腕を使い、彼女は這いずる。
まるで何かから逃げるように。
彼女の様子は、傍目から見れば地獄から這い出てきた亡者がもがいているかのような姿であった。
そんな彼女の後ろに、女が一人。
その女は足音一つ立てず、ゆっくりと歩きながら彼女の動きを見守っている。
いや、監視している。
「何をやっているんだ、お前は」
女は静かにそう言うと、巫女クレールを横から蹴りつける。
激痛に喘ぎ、彼女は仰向けに転がされた。
「最初から説明している。お前達が助かる道は一つだけだ」
女は冷たい目で巫女クレールを見下ろしながら、告げる。
「祈れ。やるべき事はそうやって無様に逃げ回る事じゃない。それだけだ」
だが告げられた巫女に、その言葉は届かない。
彼女の頭を占めているのは、如何に苦痛から逃れるかという逃避だけだった。
そしてこの苦痛を与えた対象から少しでも離れないといけないという、本能的な思考。
今の巫女の頭の中は、それで満たされていた。
「仕方ないな」
女はしゃがみ込むと、痛みで腹を抑える巫女クレールの両手を、無理矢理組ませる。
それは彼女が知る故郷の宗教の様式であった。
彼ら光神教のものではないが、女にとっては頓着するような事でもない。
「ほら、手伝ってやったぞ。その為に両手は使えるようにしたんだ。頑張って天の神とやらに祈り給えよ」
さあ、と女は両手を広げ、促す。
まるで教師が出来の悪い教え子を見守るように。
「お前達に与えた時間は、あの子とほぼ同じにしてある」
言い聞かせるように、女は再度語る。
彼女らに、先程と同じ言葉を。
「もし神が人に愛を与え救うというのなら、仕方がないだろう。この世界はそういうものとして納得する。だから、それを身を以て証明してくれるだけでいい」
巫女クレールの肝臓と腎臓は、無惨にも破裂していた。
余命は凡そ3時間から4時間。
その命の残り時間が何を意味するのか、巫女には理解できない。
「そうであれば、私は赦そう。矛を収めるよ。業腹ではあるが、ここはそのような世界なのだから仕方がないと」
一人の獣人の少年が生命を失うまでの時間だったと、思い至れない。
「だがそうでなければお前は死ぬ。お前の言葉には偽りが有った。ならばその命でそれを贖うがいい。何、簡単な話だ」
ずいっ、と女は巫女の耳元に顔を近づけた。
そして囁くように、甘く、恐ろしく告げる。
「信仰を証明してみせろ。これはお前達からすれば試練にすらならないはずだ。違うか?」
祈り。祈り。祈り。
巫女クレールの頭に、それだけが反復する。
クレールは震える手を天に掲げ、必死に祈る。
自分の祈りは届くだろうか。
単なる巫女である自分は単独では神へ声を届ける事ができない。
そのような事ができるのは、五大領の大神殿で侍るアウレリアのような大巫女のみである。
「必死なものだな、まるで虫だ」
その様を、女は冷めた目で見つめていた。
「だが生存本能は生命に宿る根源的な欲求だ。誰もが持ち合わせている。お前が生きたいと願うのは動物であれば当然の事だ」
だが、と。
「他者を生かしたいと考えるのは、人間だけだ。自らの心の内に宿る良心が、そうさせるのだ。時に己すら顧みぬそれは人が美しく尊い生き物である証。人が人である所以」
女はそう静かに語る。
「人とは、他人を想う生き物なのだよ」
ふがふがと砕けた顎を動かし、巫女クレールは聖句を唱えようとする。声にならぬ声で、天へと祈る。
「しかしお前達はそれを外部に委託した。自らで感じる事を放棄し、ただ言われたままに動くだけの機械となった。ならば、そのような存在は果たして」
――人間と言えるのか?
女の問いは、虚空へと消えていく。
それは眼の前の女への問いかけだったのか。
世界そのものへの問いかけだったのか。
震えながら掲げられていたクレールの両腕が、ぱたりと床へと落ちる。
ごん、という鈍い音をさせながら、両手は墜落した。
失血が進み、その意識を消失させたのだ。
「有言実行は、大事だぞ」
女はその様子を一瞥すると、踵を返す。
何ら顧みる事無く、去っていった。
足音一つしないその様はまるでこの世のものとは思えず、幻だったのかと言われても信じてしまいそうな程だった。
後に残されたのは、物言わぬ巫女の骸一つだけであった。
そのような骸が建物のあらゆる場所に、散らかすように点在していた。
神の家は今や、苦痛の果てに息絶えた死者の蔓延する地獄の家と化していた。
しかしそのような中、たった一人だけ違う運命を背負わされた人物が居る。
その人物は祈祷所の地下、物品庫の一角に存在した。
彼は他の巫女たちとは違い、まだ血色も良く命の危険が無い事がわかる。しかしその両手両足の関節は砕かれ、用を為していなかった。
顔面は血まみれであり、激しく加撃された事が見て取れる。
彼――アンドレ司祭はがたがたと震えながら、部屋の一角でうずくまっていた。
一体何故こんな事に。
なんなんだあいつは。
理解不能な恐怖に、震えが止まらなかった。
それは唐突にやってきた。
音も影も無く、寝室で休んでいたアンドレを強襲し、無力化した。
そしてこの部屋の一角に放り込んでいったのだ。
見た目は華奢な女だった。
黒髪を靡かせて現れたそれは最初美しく見え、そしてすぐに恐怖の象徴となった。
まるで人間とは思えぬ、異様さ。
かと言って魔族かと言われれば違う。
高位魔族であれば斯様な姿でも違和感はないが、なんというか。
雰囲気が違う。
全く別物の、まるで異界から現れた怪物のようだと、アンドレには感じられた。
「やあ、おまたせ」
司祭の心臓が跳ねる。
あまりにも不意にかけられた声だった。
男の隣、そこに女が立っている。
部屋のドアが開く音はしなかった。
歩く音も何も無かった。
いつの間にか、女はそこに立っていた。
まるで湧き出たように。
さらなる恐怖が、アンドレの心臓を激しく動かした。
顔には滝のような汗が流れ、それが傷を侵し痛ませた。
しかしその苦痛すら気付けに丁度いいと思えてしまう。
「少々手間取ってね。まあ許してくれ給えよ」
足音無く、女は部屋のある場所へと歩いていく。
その場所にアンドレは心当たりが有った。
――何故、そこを!?
あまりの驚愕に最早心の臓は張り裂けんばかりの爆発的な拍動を開始した。
このまま胸が破けるのではないかと思うほど、体が揺れる程のものであった。
「お前を残しておいたのは、質問が有ったからだ。まあ、知っているならここで一番偉い奴だろうとね」
女はこんこん、と壁を叩く。
なんの変哲もないただの壁。
そう見える。
「ここはなんだ?」
答える事はできなかった。
答えれば彼の命が無くなる事は、容易に想像できたからだ。
この祈祷所最大の秘奥、それを語る事は、死を意味する。
「わ、私はヴィセ家と懇意にしている!」
必死の懇願。
彼が選んだのは懐柔であった。
「なんでも融通しよう。なんなら王国人になれるよう取り計らっても良い。一流の技師を紹介しよう。今からでも魔核を埋め込める、腕の立つ技師だ。五大領での地位も約束しよう」
にやけた笑いを浮かべながら、男は言葉を並べる。
自らに利用価値は有ると、自分は富と名声を与えられると。
その有用性を雄弁に語りかけた。
「それに私を殺せばお前は助からんぞ。中央貴族全てを敵に回すのと変わらん。なら、ここは利益を取って大人しく手を取る方が賢いと思わんか」
女は無言でアンドレ司祭の方へと近づいてくる。
優しげな笑みを浮かべて、静々と。
戦意一つ見えないその姿に、アンドレは僅かばかりに安堵を覚える。
話が通じるかもしれない。
女はにっこりと笑うと、アンドレの頭を掴み――
三度、その顔面を床に叩きつけた。
肉が潰れる鈍い音と、骨が砕ける硬質な音。それらが入り混じり、最悪な事に頭蓋骨を通じて、アンドレの耳に不可避の音として届けられた。
彼は自らの顔面が破壊されるのを、黙って聞く以外の道が残されていなかった。
「私はここはなんだと聞いている」
女の顔はにこやかで、声は優しげだ。
だがそれは、まるで死の宣告が如き恐ろしさであった。
「誰が無意味な高説を垂れろと言った。言葉は正確に理解しろ」
もう一度、力強くアンドレの顔面が床に叩きつけられる。
「まあ男の不出来を許すのもいい女の甲斐性だ。流すよ」
とびきりの笑顔で、女はもう一度、同じ質問を繰り返す。
「ここはなんだ?」
アンドレの心は、折れた。
恐ろしい。
あまりにも目の前の女が恐ろしい。
怒りでもない。
殺意でもない。
まるで世間話の合間のように暴力を挟んでくるこの女が、本当に恐ろしかった。
「……救世会の秘匿研究所だ」
観念し、全てを話す。
最早彼に逆らう気力は残されていなかった。
「対魔王軍用の兵器の開発をしていると、聞かされている」
「ふうん」
女は少し考え込むような素振りを見せた。
何事かを思案し、検討するかのような顔。
僅かに垣間見えた、女の人間らしい表情だった。
「開けろ」
「へっ!?」
「開けろと言っている」
促されるまま、アンドレは壁面に隠された魔導式を起動する。
これは一部の人間の遺伝子にしか反応しないように調整された、高位の魔導式であった。
貴重で高価な魔導具の専用化、およびこのような秘匿性の高い場所に使われる技術である。
ズズズ、と鈍い音と共にに亀裂が入り、石造りの壁が姿を変えていく。そこに現れたのは、大きな両開きの扉であった。そしてその先に見えるのは人が一人程通れる程の通路、そして地下へと続く階段であった。
灯りすらない薄暗いそれは、まるで地獄へ続く入口のようにも見えた。
「馬鹿は高い所に昇りたがる。自己顕示欲が強く注目を集めようとするからだ」
女は注意深く、そこを覗く。
そこから流れる空気はこの物品庫のそれより余程清浄に感じられた。
「そしてクズは地下に潜みたがる。他人の視線を避けようとするからだ」
女が語る言葉は、冷え冷えとして突き刺さるようにアンドレに届いた。
「あの、一定時間で戻ってしまうので」
もう早く消えてくれ。
そういう気持ちで、アンドレは促す。
この女がここから居なくなるならどうでもいい。
「そうか、ありがとう」
女はそう言うと、男の首をへし折った。
ぺきり、という乾いた音が狭い室内に響き渡る。
そうしてアンドレはどさりとその場に崩れ落ちた。
「礼にバカンスチケットをやろう。期限は永遠、行き先は神の国だ。うれしいだろう?」
女――天音寺未来は、地下へと一歩、進む。
その先に何が有るのかは未だ不明。
しかしそれは彼女にとって重要な事ではない。
彼女はこの場所の一切を殲滅すると決めた。
ならば続く先に有る場所もそうするだけだと。
ゆっくりと、暗闇に溶けるよう地下へと下りていった。




