第50話 ザバとカロ
それからまた幾日か経った日の夕刻。
未来は紙にペンを滑らせていた。
淀み無くカリカリと紙を削りインクが染み込む音は、ある種の音楽を奏でているかのようにすら感じた。流麗であるというのはそれだけで完成された旋律を生み出していた。
「まあ、こんなものだろう」
彼女は片手で持っていた巻物を、手元に置く。
驚くべきことに、この世界に紙の本という媒体は非常に少なかった。
その代替物として普及しているのが、この巻物である。
なんらかの皮を魔化――魔力による恒久的な素材強化らしい――して薄いシート状にしたものを丸めたのがこれだ。
丸める時の中心部となる一方の端には、芯となる棒のようなものがついている。
良く注意して見れば、そこに小さな魔石が嵌っているのが見えるだろう。
開くと、中には目次と思われる文字がうっすらと表面に浮き上がる。現代人から見れば立体的なホログラフィックスのようなそれは、淡く輝く光の文字として表れる。
その文字を手で触れると、驚く事に巻物表面の内容が書き換わり――目次の内容が巻物に映し出されるのだ。
その文字をスワイプするように横に滑らせれば、さらなる内容が端から出てくる。
その操作感はまさに現実世界のスマホやタブレットと変わらなかった。
これが、この世界の標準的な情報媒体であった。
少なくとも、衛星国で流通しているものはこれである。
流石の未来も最初にこれを見た時は驚いた。
技術発展度合いが、ちぐはぐだなと。
情報媒体のインターフェースを始めとした情報系技術に関しては現代日本と遜色ないくらい進んでいるか、凌駕している部分すら有る。
しかし一方で産業革命が起きなかったかのように手工業が主体であり、画一的な大量生産は行われていない。
地球という科学文明の徒である彼女の目には、この世界が非常に奇異なものとして映っていた。
未来はこの巻物を、貸本屋――巻物なのに本というのもおかしなものだが、翻訳システムの妙であろう――から借りてきて、文字の勉強に使用していた。
料金はやや高額であるが、返却する際貸出金の一部が返って来るシステムになっている。
一定以上の纏まった金を出せる相手のみへの貸し出しを行うと共に、破損時の保証金も兼ねているそれは合理的な料金システムと言えた。
借りた本は大衆小説が主である。
というよりそういうものしか無い。
庶民が求める書物とは、つまるところ娯楽だ。
学術書の類が欲しければ然るべき場所へ行く以外無いだろう。
「これはこれで十分勉強になったけどね」
数本のスクロールを手に取りながら、未来は満足げに呟く。
大衆小説も馬鹿にはできない。
話の筋は兎も角――嗜好や風俗、通俗的な観念等を学ぶにはむしろ最適な媒体だった。
所謂「常識」を知る上では、この上ない教科書だったと言える。
それと同時に、現代社会で供給されるエンターテイメントのレベルの高さも思い知る。まあ週刊やら月刊やらでそれらが供給され、生き残りを賭けて熾烈なデッドヒートを繰り広げているのだ。面白くもなろうというもの。
競争原理というのは強い。競い合う事で高まるものというのは確実に存在する。
借りたものも一応「これ今の流行りだよ。オススメ」と言われた話だったのだが、未来視点ではまあそこそこかなという感想であった。
巻物と筆記用具一式を持ち、立ち上がる。
それらを持って向かった先は、ザバとカロの下であった。
ザバとカロの二人は何やら遊び――双六のような、そういう感じのゲーム――をしていたようだった。
「今、大丈夫かい?」
横から声をかけられたザバは一瞬驚きを見せるが、相手が誰だかわかると笑顔を浮かべて返事をした。
「大丈夫です。なんですか、未来さん」
「約束通り、これを君に」
未来は一通り揃った筆記用具一式を、彼の前に差し出す。
「えっ!?」
ザバは驚愕に目を見開いていた。
未来がそれを手に入れてから幾日も過ぎてはいない。
四日。
たった四日しか、彼女はそれを使用していなかった。
「僕に気をつかっているのでしたら、どうぞお構いなく。未来さんがここを発つまで、存分にお使いになってからで十分ですから」
未来が日中は仕事に邁進しているのをザバも知っていた。
ペンを握っていた時間は一日に一時間と無い。
この筆記用具はほぼ新品と変わらない、そうザバには感じられた。
ザバはこれを、自分に気を使って譲ってくれるのだろうと考えたのだが――
「いや、本当にもう使わないんだ」
やや困ったように、苦笑しながら未来は言う。
「全部覚えたからね。まあ、専門的な綴りは知らないかもしれないが……文字と生活全般で使う単語は大体網羅できたよ」
そう聞いたザバは、まさに言葉も無いようだった。
彼が未来の言う事を信じるのなら、僅か数日、いや普通の人間なら一日分の練習時間も取らずにそれら全てを覚えた事になる。
それを成すのに常人だったら早くても数ヶ月単位の時間を費やすはず。
少なくとも数日で済むような簡単な話ではない。
異常としか言いようがない学習速度。
どんなに賢い人間であっても決して為し得ないそれを目の当たりにし、少年は完全に圧倒されていた。
「だからほら、遠慮せずに受け取ってくれ給え。約束通りに」
ほらほら、と未来は筆記用具を差し出す。
見た目にはほぼ新品と変わらないそれが、ザバの眼の前にはあった。
「……いいんですか?」
「いいとも」
ザバはそれでも躊躇いを見せていた。
戸惑い、腕を空中に惑わせ、しばし迷うように動きながら。
ザバは筆記用具に手を伸ばす。
ザバは両手でしっかりと筆記用具を受け取ると、満面の笑みを浮かべた。
「ありがとうございます!」
隠しきれない喜びを見せるザバに、未来も自然と笑顔が漏れた。
彼女はこのように誰かが喜んでいる姿を見るのが何より好きだった。
「僕、一杯勉強したいんです。そして」
ザバが語ったそれは、彼の夢だった。
「偉い人になって、お母さんを楽にしてあげたいんです。もう、苦労しなくていいように」
「そうか」
「お母さんは体があまり強くないんです。それでも僕達の為に、一生懸命働いてるから。今度は僕がお母さんに楽をさせてあげたい」
今もローネは階下の土間で内職をしている。
彼女は一日中、そうして針仕事をして家計を支えている。
トトの送る稼ぎとそれで、なんとか暮らしているのがこの家の現状だった。
「だったら、頑張らないといけないな」
「はい!」
ザバの威勢の良い返事に、未来は眩しそうな表情を見せた。
幼いからこその真っ直ぐな意思。
愚直とも言えるそれはいずれ変わるかもしれないが、それでも今だけは真実だった。
それが果たされるかどうかは誰にも解らないが、それでもあの筆記用具が夢を果たす一助となればいい、と未来は思った。
ザバは早速筆記用具を使うべくテーブルへと向かっていった。
ペンの感触を早く味わいたいと待ち切れない様子であった。
他方、残されたカロは一人でおはじきに使うような石を弄んでいた。床で滑らせながらかちかちと、弾いたり纏めたり、本人にだけわかる何かをしているようだった。
「凄く似合ってるよ、それ」
カロの髪には、先日あげたリボンが結わえられていた。髪を一房纏めるように付けられたそれは、少女に可憐な印象を与えていた。
お気に入りを褒められて、カロの顔からは隠しきれない喜びが溢れていた。
少女は普段のおどおどした表情と違い、にこにことした顔をしていた。
「カロは何をしてるんだい?」
暇をしているだろうカロに、未来は優しく問いかける。
暫し時間が空いた。
この少女に付き合うのもいいだろうと。
傍から見た二人の姿はまるで、姉と妹のようだった。
窓から差し込む日差しは傾き、徐々に赤みを帯びていく頃合いだった。
もう少しすればトトが帰って来る。
そうなれば楽しい夕食の時間。
なんでもない平和な一日が今日もまた終わろうとしていた。




