第103話 敬意と誘い
輝光鹿の体表も、他の魔族と同様に金属で覆われてはいる。
だがそれは箔のように薄く、体表を彩る程度のものでしかない。
装甲と呼ぶにはあまりにも心許なく無意味なそれは、敵の攻撃を防ぐ事など叶わない。
鹿の眉間に突き刺さった槍の穂先は、その表面を貫通し頭蓋の内部へと骨を砕きながら侵入していく。
そしてその脳の中央、そこにこの魔族の核は存在した。
ソルゴという男の賭けは今ここに完全なる勝利を迎える。
核を砕いた固い独特の感触が、彼の手に伝わった。
――勝った。
ほんの少しだけ、ソルゴは笑う。
自らの生涯を賭けた戦いの勝利を、束の間だけ祝った。
彼の周りには、仲間の骸が虚しく広がっていた。
だがその一人一人が、等しく勝者だった。
彼らは今確かに勝った。
誰一人欠けても得られなかった奇跡のような勝利を、その手に掴んだのだ。
ほんの僅かな時間だけの仲間たち。
彼らと駆け抜けた時間が、再びソルゴの脳内を駆け巡る。
決死隊の面々とは、まるで半生一緒に戦い抜いたような、そんな絆があるようにソルゴには感じられた。
――やったぞ、みんな!
ソルゴが心の中で喝采し鹿の核を砕くのと、三体の線兎が彼に蹴りを放ったのはほぼ同時だった。
頭、首、胴。
三つの蹴りがソルゴにめり込む。
輝光鹿の命を刈り取った瞬間、それを行った男もまた小さき魔族にその命を奪われていた。
ソルゴの手から槍が離れる。
全ての力を失った防衛隊第三隊の隊長の体は、ゆっくりと大地に倒れ伏した。
彼の傍らに有るのは、槍に頭を貫かれた鹿の死骸のみ。
場に静寂が戻る。
最早動く人間の姿は一人も居ない。
決死隊の尽くは魔族に討ち取られ、凄惨な骸を大地に晒していた。
遺体の大半は壁牛に踏み荒らされ、原型すら留めていなかった。
だがそれでも、彼らの目的は達成された。
司令塔である魔族を倒すという大役を、素人混じりの彼らが成し遂げて見せた。
それは眩い奇跡と言える程の大戦果であった。
統括するトップを失い、魔族達の統制が乱れ、ダラマトナへの進軍は止まる。
彼らの願いは、ようやく果たされる。
そのはずだった。
だが、魔族達の動きは止まらない。
なんら変わる事無く、歩みを進めていた。
光の民は知らない。
この輝光鹿を魔族では囮型という事を。
目立つ仮初の司令塔として、敵を引き付ける誘蛾灯の役目を果たすだけの魔族でしかないという事を。
真の頭脳は他に潜んでいるという事実を、この魔物と数十年戦い続けて未だ知らなかった。
ソルゴ達決死隊の命を賭けた一撃。
それが徒労であったと彼らが知らずに死ねたのは幸運な事だった。
だが、それなのに。
魔族の進軍が、何かに止められたかのようにぴたりと静止する。
「素晴らしい一撃だった」
魔族の波を掻き分けるように現れた男――魔将ゲーザ。
彼は鷹揚に手を上げ、魔族達に合図を送るように歩いてきた。
地を走る魔族達はそれに呼応したかのように、猛りを静めていく。
戦意を失い、将の下に集わんと、ゆったりと歩みを進めていた。
ゲーザが向かったのは、輝光鹿とソルゴの屍が転がっている場所だった。
「戦士ですら無い、力無き者達の決死の一撃。確かに見届けた」
地に転がるソルゴの屍は、頭が陥没し首がへし折れていたが、それでも満足げに笑っていた。
ゲーザはその瞳をそっと閉じる。
「囮型は愚かな猪武者を釣る為の無様な案山子でしかないが」
ゲーザは空を見上げる。
その上空には、光の民が大鴉と呼ぶ魔族が飛んでいた。
銀翼を太陽で光らせるこの魔族を、闇の民は指揮官烏型と呼ぶ。
真なる指揮官は、この烏であった。
戦場を俯瞰し、最適な指示を出す司令塔。
空高く飛び、狙われる事の無い空中の指揮官。
それがこの魔族の正体だった。
「だが、それがただの民の抗戦であったのなら、嘲笑うまい。お前達はできる限りの最善を尽くした」
無惨に死した三十余名の男たち。
立場上殺さずにはいられない相手ではあったが、だからこそ憎しみは無い。
むしろ非力な身で立ち向かってくるその姿には敬意すら感じた。
だからこそ、ゲーザは進軍を止めた。
彼らは今、確かに勝利したのだ。
だというのにその対価が与えられないなど、余りにも不憫。
「故に俺はここで止まろう。それが誇り高き男たちへの報酬だ」
魔族はゲーザの下へと集いつつあった。
新たな軍勢を構成し、彼を守るように。
「何故この者達を戦力として出してきたのか、理解できないが」
手近な岩に座り込み、ゲーザは頬杖を付く。
その視線は遥か先、ダラマトナを見据えていた。
「来ているのだろう? 秘密兵器とやらは」
ゲーザは見ていた。
地平の彼方に奔る光を。
強大な破壊の奔流を、彼方から彼は感じていた。
――来るがいい、光の民の切り札よ。
「ここで俺は待つ。彼らの奮戦に敬意を表し、我が進軍はここまでとする」
掲げるゲーザの手が、激しく震える。
それは彼の心をそのまま現したかのような、世界を震わせる振動だった。
「お前達がこの犠牲を無為にするような愚か者でない事を、俺は祈っているぞ」
魔族達の動きが変わった事を、未来とニノンも既に察知していた。
絶え間無く次々と襲いかかってきていた鋼鉄の獣達が、波のように引いていく。
あれだけ戦意をむき出しにし、執拗に襲いかかってきていた魔族の群れが、戦いを忘れたように踵を返し来た道を戻っていっていた。
「退却してきますね」
ふー、と額の汗を拭いながら、ニノンが呟く。
「これはあいつら上手くやったんかな」
「少なくとも、なんらかの成果を上げたのは間違いないだろう」
下がっていく魔族を見据えながら、未来も剣を収めた。
何が有ったとしても、状況が一段落付いたに違いないのは、この様子を見れば明らかだった。
「まったくカッコ付けちゃって」
ニノンは冷めた目で彼方を見つめている。
その先、魔族の軍勢の向こう。
そこで男たちが最後の仕事を終えたのだろうと、彼女も察していた。
「死んじゃどうにもならんでしょうに」
生きたくても生きられなかった子供たちが居た。
それを見てきた直後だけに、ニノンの胸中は穏やかではなかった。
「まあ、自分の命だから使い方は勝手かもしれないですけどね……」
とん、と杖を地面に付いて、溜息を一つ付く。
「それでも、やっぱり生きてる方がずっと良いと思うんですよニノンちゃんは」
「死ねば、確かに全てはおしまいだ」
未来の視線も、またそこを見ていた。
男たちの墓標となっただろう場所を、確かに見ていた。
「だがそれでも、彼らには残したいものが有ったのだろう。人の意思は残り、受け継がれる」
ああ、と未来は呟く。
はっと何かに気づいたように。
「そうだな、意思は残る……例え死んだとしても、残るんだな。その意思が残る限り、本当の意味で人は死なない」
「なんか結構センチメンタルな事言いますね未来さん。乙女なとこ、いきなり出してこないで下さいよ」
ニノンとしては、死ぬなら勝手に死ねば良いくらい言いそうな印象だった。
短い付き合いだが、そこにはドライなタイプだと思っていたのだ。
だが意外に情緒的な部分が有るんだなあ、と、この少女への評価を彼女は改めた。
そのような思考に浸っていた為、彼女は聞き逃していた。
未来の、続く一言を。
――つまり真に殺すとは肉体の殺害のみに留まらない。そういう事か
怪物の最悪な気づきを、天才と言われる魔法使いの耳が拾う事は無かった。
彼女が史実で辿るであろう道を、なんの因果か異世界でも同じように歩こうとしていると、神ですら気づいていなかった。
「で、これからどうします」
目的は達成した。
生き残りはおそらく自分たちしか居ない。
じゃ、帰ります?
ニノンの言葉にはそういう雰囲気が含まれていた。
「戻るべきだと思うんだが」
未来は依然として、地平線から目を離していなかった。
「誘われているな」
「誘われている?」
未来の奇妙な言葉の意味が、ニノンには理解できなかった。
「私らに負けてとぼとぼ帰っていくようにしか見えませんけど?」
負け犬が尻尾巻いて逃げている。
魔族達の様子は、ニノンにはそうとしか見えなかった。
「臭いだよ」
未来はすっと指を立てる。
何かを窺うように、もしくは留めるように、眼前に。
「戦いの臭いがまだ有る」
「バトルジャンキー特有の感覚的表現止めてくれません!?」
そういうの私はまったくわかんねえんだよ!
インドア派なんだよ!
そう叫びたいのをニノンはぐっと堪えた。
「じゃあなんですか」
ニノンは杖で地平の先を指し。
「あの先で魔族がやる気満々で待ち構えてるとでも言うんですか?」
「多分」
未来はしれっとそう答えた。
「引いたのは退却じゃない。再編の為だ」
「いやもう勘弁して欲しいなあーほんと!」
気持ちよくぶっぱして敵は撤退していった。
そう思いたかったのに。
「素直に逃げ帰ってるよりそっちの方が全然納得いっちゃうんですよねえええええ!?」
理性としては、そうするだろうなという合理的な回答の方が強かった。
「あいつらの自爆特攻で指揮官とやらは倒せたんじゃないんかい」
「倒せはしたんじゃないか、じゃなきゃ引いていかない」
一時的にせよ動きが乱れたのは、決死隊の面々が仕事を果たしたから。
そうだと未来は考えていた。
「だが、態勢を立て直せる戦力が追加された。新しい指揮官に相当する魔族が」
「そしてまたダラマトナを攻めようとしている?」
ニノンの言葉に、未来はいいや、と首を振った。
「待ち構えている、あいつらは。きっと私達を待っている」
「それも臭いとやらですか」
「説明し難いが、そうだ」
「いやもう本当に全然わかんねえからそういうの」
生粋の魔法使いにはもう理解できない領域の話になってきた。
ニノンは素直に理解を諦めた。
「で、未来さんの言う通り誘われてるとして」
「行くか帰るか」
「そう。どちらを選ぶつもりです?」
二人の少女の答えは決まっていた。
だとしても、それを形にする事は必要だろうと、ニノンは聞いた。
「行く」
未来もまた、即答する。
思考するまでもない、当然の答えを口にした。
「今退いたとしても何も変わらない。ダラマトナは依然脅威に晒されたままだ」
背後の彼方に有るダラマトナは、今もまだ大混乱だろう。
逃げ出そうとする人々。
残る事を選んだ者。
様々な人々がまだあそこには居る。
「お試しでやれると理解ったんだ……とことんまでやろう。最後まで」
トトとローネを守る為。
彼女たちの故郷を守る為に戦う。
それが、未来の決断だった。
「私もねえ、中途半端に獲物を残して帰るのは気持ち悪いと思ってたんですよねぇ~」
そういうニノンも、凶悪な笑顔を浮かべていた。
「最後の最後までやらないと、こういうのは」
「奇遇だな」
フッと未来も笑う。
「私もそうなんだ。何事も最後まできっちりと済ませたいタイプでね」
「意外と似たとこありますね、私達」
未来とニノンが踏み出したのは、ほぼ同時だった。
さらに前へ。
魔族の待ち受けるその先へ、二人の少女は歩を進めた。




