第104話 崩れ行くダラマトナ
決死隊が文字通りその命を賭け魔族へと突撃していた頃。
一方のダラマトナは混乱の極みにあった。
「いいから行くぞ!」
ある家では、父親がなかなか出てこない子供にいらつきを隠せないでいた。
「もうちょっとだけ待って!」
家の二階から聞こえるのは、無邪気な少年の声。
緊迫した状況も理解してないような、呑気さを含んだ声だった。
「あと少しで終わるから!」
少年はお気に入りの玩具や巻物を、どうやって鞄に入れようか思案している所だった。
床に散らばる宝物達は、どれ一つとして置いて行きたくはない。
だけど小さな鞄に入る量には限りがあった。
「うーん」
少年は腕組み悩む。
全部は駄目でも、なるべく沢山入れたい。
宝物を詰めては取り出し、配置を工夫し、なんとか納得の行く収納を達成しようと頭を捻っていた。
ああでもないこうでもないと試行錯誤する少年の時間は、瞬く間に過ぎていく。
「出来た!」
ようやく少年の納得の行く鞄が出来た。
彼は目を輝かせて、階下へと下りていく。
これから始まる父との旅に心を踊らせて。
だが、一階に下りた少年を待っているはずの父の姿は何処にも無かった。
「パパ?」
小さな呟きが、部屋に響く。
しかしそれに答える者は誰も居なかった。
大きな荷物を持った人々が、我先にと争うように街の大通りを走っていく。
目的地は馬車乗り場であった。
――馬車は先着順。数も少ない。
いつのまにかそんな噂話が、街を駆け巡っていた。
結果、ダラマトナでは生き残りを賭けたマラソンが、そこかしこで開催されていた。
「どけ!」
人間の中年男が、街行く人々を突き飛ばしながら走っていた。
よろめいた獣人の婦人は思わず尻もちをつき、後ろから走っていた何人かの足をひっかける生きた罠となった。
「うわあッ!」
唐突な障害物の出現に、対応できなかった者達が折り重なるように倒れる。
ばたりと一人が倒れれば、その上に覆いかぶさるように数人の男たちが突っ込んでくる。
そして倒れた男の足に引っかかり、さらなる転倒者が増え……と、地獄の悪循環が生まれていた。
地獄のような将棋倒し事故がここでは発生していた。
下敷きになった婦人は上からの圧迫を受け、呼吸もできない。
押しつぶされた胸は肺をふくらませる事もできずに地上で溺れ死にそうになっていた。
そして転倒に次ぐ転倒で複雑に絡み合った人々は、起き上がろうとしても起き上がる事ができない。
腰や胸を数人分の重量で圧迫され、動きを制限され、身を捩るのに精一杯だった。
魔族の攻撃を受けるまでもなく、ダラマトナでは犠牲が増えようとしていた。
この惨状を引き起こした当の本人は、そんな事などおかまいなしに走り続けていた。
でっぷりとした腹を揺らし、足をばたばたと無様にならしながら、ひたすら馬車乗り場を目指していた。
「俺は死なん、死なんぞ」
顔面いっぱいに汗を垂らしながら、男はぶつぶつと呟く。
「こんな衛星国の片田舎で死んで堪るか。絶対に王国に帰るんだ」
彼の頭の中を占めるのは、魔族への恐怖。
そして輝かしい故国への郷愁ばかりだった。
「あと少しだ」
あの角を曲がれば、乗り場が見えてくる。
限界になりそうな足をそれでも動かしながら、男は最後のスパートをかけようとして――
いきなり襟元を掴まれた。
「は」
男の体は勢い良く横の路地へと引き込まれる。
何が起こったのか認識するよりも早く、右の頬が熱くなる感覚が彼を襲った。
同時に伝わる、激しい衝撃。
男の体は小さく吹っ飛び、ごん、と家の壁に頭をぶつけながら地面へとずり落ちた。
熱が痛みだと理解した刹那。
次々と、体中に新たな痛みが与えられた。
「ひいッ、なんだよぉ!」
理由も分からず、男は身を縮こまらせる。
赤ん坊のように丸まり、世界の全てを拒絶するようにぎゅっと頭を抱え込んだ。
だが痛みは止まる事無く、彼を襲う。
「痛いっ、痛いっ!」
最早男に出来るのは惨めに叫ぶ事だけだった。
「助けてくれえ! 助けてえ! 痛いんだよお!」
無様に叫ぶ男を囲んでいるのは、数人の獣人の少年たちだった。
彼らは転がる男を踏みつけるように甚振っていた。
「ざまあねえな、人間さんよ!」
少年の目はぎらつき、怪しい輝きがそこに宿っていた。
「いつものデカい態度はどうしたよ! 言ってみろよ、蛮人がって!」
止めどなく降り注ぐ蹴りが、男の皮膚を破り肉を潰した。
血が周囲に飛び散り、赤黒い化性を路地に塗り込む。
「気分が良いな、人間を殴るってのは」
「今日は割り込んでくる衛兵も居ねえ」
足から伝わる感触が、少年たちに実感を与える。
見下していた者を逆に見下すという、これ以上無い快感。
自分達は今上位者になったのだと。
そしてそれを為す暴力こそこの世で最上の快楽という真実を、彼らは今悟っていた。
やがて男がぐたりと、力を抜いた。
白目を剥いて意識を失い、全身は血に塗れていた。
その様に溜飲を下げた少年たちは男の懐や荷物を漁る。
「おっ、流石人間様。溜め込んでやがる」
懐の袋に入っていた金貨を数え、少年たちは目を輝かせる。
自分たちの稼ぎではとても見る事のできない大金。
それが今目の前にあった。
「お小遣いありがとさ―ん!」
少年が、全力で股間を蹴り上げる。
意識のない男がびくん、と一つ体を震わせ、身を捩った。
だらしなく開いた足、そのズボンの股の所から、じわりと血が滲み出てくるのが見えた。
「これで金は全部無くなったなあ。ハハハハハ!」
笑いながら少年たちは路地裏に消えていく。
地面に横たわる男は、泡を吹いて地面の冷たさをただ感じるだけだった。
その感触もあと数刻もしない間に感じなくなるだろう事を、男自身理解していなかった。
ただ幸せな王国の夢を見ながら、男は転がっている。
表通りの人間は、誰も彼に気づかない。
路地裏など見ている余裕は誰にもなく、ただ足早に過ぎ去っていく。
稀に目にする人間が現れても、見なかった事にして通り過ぎていった。
男の命の炎は、誰にも看取られる事無く消えていった。
隊列を組んだ馬車がダラマトナを出発していく。
その台数は十台。
列を為して進む一団は、一路ラニヤナへと向けて進んでいた。
馬車の内部はぎゅうぎゅうに人が詰まっていた。
本来なら十人程度の乗車人数である幌馬車の内部には、二十人を越える人数が無理矢理乗せられていた。
隙間という隙間に人が入り込み、身動きすら取れないような酷い有り様がそこには広がっていた。
狭い車内に密集した人熱で内部は暑苦しく、動いてもいないのに乗客の顔には汗が滲んでいた。
乗客は誰一人、声すら発しない。
ただ何かに耐えるよう、自分の手荷物を抱えてじっとしている。
彼らの顔は一様に暗い。
例え命を永らえたとしても、この先の未来になんの展望も無い。
全てを失い裸一貫、どうやってやりなおせと言うのか。
そのような表情が皆には浮かんでいた。
だがそれでも彼らは、しばらく生き残る目処が立っている。
それだけは確かだった。
馬車乗り場はさらに凄惨な有り様だった。
「俺が先だ!」
「お前が退け! ここは俺の場所だ!」
危惧されていた通り、乗り場は既に混乱し、酷い有り様となっていた。
誰もが我先にと幌馬車に乗り込もうと、押し合いをしている。
「落ち着け! 順番に乗るんだ!」
衛兵達が必死にそれを押し留めようとするも――
「うるせえ!」
一人の男が、衛兵を殴る。
それを切っ掛けに、衛兵に人が殺到し、その体を執拗に殴りつけた。
手に持った鞄を振り上げ、凶悪な鈍器としてそれが振るわれた。
衛兵は抵抗する暇もなく、その意識を失った。
最早そこに秩序は存在しなかった。
生存本能が支配する、醜い執着の坩堝がそこには作り上げられていた。
邪魔者が居なくなった馬車乗り場は、弱肉強食の狩り場へと変貌していった。
力が強いものが他者をなぎ倒し、我先にと馬車に乗り込む。
負けたものは打ち捨てられ、路上に転がった。
「出せ」
そんな兇行の前では、馬車の御者も言われるがままに馬車を出すしかない。
従わなければどうなるか分かったものではない。
恐怖に震えながら御者は静かに馬車を走らせた。
「待て、行くな!」
何人かが馬車に無理矢理しがみつく。
荷物も打ち捨てて、ただ助かりたい一心で幌を掴み、へばりつく。
「落ちろ、このっ!」
へばりついている一人が、他の人間を蹴落とそうと必死に足を振り回した。
蹴りを食らった男は片手が離れ、馬車にぶら下がるような形になった。
そしてその体が、車輪に巻き込まれる。
「ギャアアアア!」
通常の重量の倍以上にもなった馬車。
その異常な圧力で、彼の体はプレスされ、すり潰された。
ごりごりと無理矢理体を寸断され、肉体には轍が刻まれ切り離された。
馬車の後ろを見ると、恐ろしい形相で転がり体が真っ二つになった男の姿が見えた。
だが乗っている乗客は、誰も、何も言わない。
ただ無関心に自分の膝を眺め続けていた。
もう何も見たくないとでも言うように。
彼らにとって地獄のような馬車旅の始まり。
だがこれほどまでの惨状を引き起こしてなお、街の住人の一割も脱出できていなかった。
街の喧騒を聞きながら、トトは一人家の前で座り込んでいた。
体育座りで膝を抱えながら、走っていく街の住人たちをただ眺める。
「逃げんのか」
そんな彼女にかけられる声。
トトの良く知っている、厳しくもやさしい隣人の声。
心配そうに覗き込む顔は、ポンスのものだった。
「お母さんが逃げたくないって言ってるです」
「そうか」
トトの一言には言い表せないような複雑な感情が混じり合っているように、ポンスには聞こえた。
憤り、諦め、悲しみ。
この小さな少女は行き場の無い感情を何処にぶつけたらいいのか分からないのだと、そう感じた。
「ポンスさんこそ、逃げないんですか」
その問いかけに、ポンスは諦めたような笑いを見せる。
「儂はここで生まれてここで育ってきた。今更何処にいけっちゅうんだ」
ポンスはトトの隣に座り込む。
「この街が無くなるなら、一緒に骨を埋めるさ。それでいい」
「そうですか」
二人は暫く、無言だった。
変わらぬ喧騒が二人を包み、時間が流れていく。
「未来とかいうお嬢さんはどうした。もう逃げたのか」
「決死隊に加わるって言って出ていったですよ」
「そりゃあ」
想像もしていなかった行動に、ポンスは言葉も無い。
「良く、やるな」
街の住人でもない、しかも少女。
さらに言うと人間が、何故命を投げ出すような真似をするのか。
ポンスにはまったく理解できなかった。
「本当にわけわかんねえ後輩なんですよ」
トトは苦笑する。
寂しそうに、静かに。
「でも帰って来るって約束したですから、トトはここで待つですよ」
そう言うトトに、ポンスは何も言えなかった。
相手は魔族の大群。
とても生きて帰ってこれるとは思えない。
だとしてもこの少女がそう信じるのであれば、それを見守る事しかできない。
弟達を立て続けに失った彼女に、これ以上現実を叩きつけるのは余りにも酷だと、ポンスも口を噤んだ。
魔族がこの街を蹂躙するまで、あとどれくらいの時間が有るんじゃろう。
ポンスはこの街と過ごす残り少ない時間を、静かに共有していた。




