第6章 破壊不能
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第2部 華計画(第6話〜第14話)
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連華班は干渉圏から生還しました。
けれど、白い飛翔体には触れられず、世界はまだ勝利を手にしていません。
第6章では、ユニオンランス後の世界と、「破壊できないもの」を前にした人類の変化を描きます。
三日経っても、白いものは消えなかった。
世界は、白い飛翔体を観測し続けた。
観測する以外に、できることがない。
ユニオンランスの失敗から三日が過ぎていた。
太平洋、インド洋、ユーラシア大陸上空、北極圏、南米沖。白い飛翔体は、一定しない軌道で地球の上を巡っていた。速度は変わる。高度も変わる。進路も変わる。だが、その変化に意味を見つけることはできなかった。
都市を狙わない。
軍事施設を狙わない。
攻撃してこない。
交信してこない。
逃げもしない。
ただ、いる。
それだけのことが、人類には耐えられなかった。
ジュネーブ郊外の国際臨時観測センターでは、電子機器の多くが飛翔体の接近時に焼けていた。今は各国から集められた紙の地図、透明なセルロイド板、赤と青の糸、手書きの数字、そして人間の声で観測が続けられている。
白い飛翔体の現在位置は、地図上の白いピンで示されていた。
敵ではないという判断ではない。まだ、何者か分からないという保留だ。だが、その保留が日に日に薄くなっていくことを、センターにいる者たちは感じていた。
「南緯二十一度、東経百七度。高度推定一万二千」
「速度、低下しています」
「低下ではない。変動だ」
「推定誤差は」
「分かりません」
最後の言葉だけが、どの言語でも同じ意味を持っていた。
中央の長机に、ユニオンランスの最終報告書が置かれている。
まだ正式版ではない。死者の数も、喪失した機体の数も確定していない。
だが、一つだけ確定している項目があった。
対象への有効損傷なし。
その一文の下に、誰かが鉛筆で書き込んでいた。
破壊不能。
公式にしてはいけない言葉だ。それでも、会議室の中でその言葉を知らない者はいなかった。
防衛庁地下第七区画では、紙テープがまた伸びていた。
白く細い紙に、黒い線が震えながら刻まれている。
連華三機が持ち帰った記録だった。
干渉圏内での機体挙動。油圧の変化。リンク機構の歪み。搭乗者の心拍。砲撃時の反動。そして、対象接近時に生じた不可解な減衰。
榊原技官は、机に広げた紙テープの上へ指を置いた。
爪の先が黒い線を追う。
「ここです」
黒崎仁陸将補は黙って見ていた。
地下第七区画の解析室。壁は厚く、天井は低い。照明は白く、窓はない。換気扇の音と、紙を巻き取る小さな音だけが続いている。電子計算機が使えれば数分で済む解析を、人間の目と指と疑いで行う。それが一番信頼できる手順になっていた。
「加藤機の砲撃直後、反動値は正常です。砲身の熱膨張も想定内。弾体は発射されています」
「それは映像でも確認した」
「はい。ですが、対象まで届いていない」
榊原は別の紙を取った。
光学観測班が描いた、飛翔体と弾道の手書き図だった。
「弾体が消失した、という表現は正確ではありません。爆散でもない。逸れたわけでもない。速度が落ち、形が崩れ、対象の表面に到達する前に意味を失っています」
「意味を失う」
黒崎は、その言葉を繰り返した。
「物理としてひどい表現だな」
「ひどい現象です」
榊原は言った。
疲れていた。目の下に影がある。白衣の袖にはインクがつき、髪は結び直す余裕もない。だが声は乱れていなかった。乱れれば紙の線を読み違える。今は、そういう小さな誤差が人を殺す。
「飛翔体表面から一定距離内で、運動エネルギーが対象へ伝達されない。あるいは、伝達される前に別の形へ変換されている。推測はいくつかありますが、どれも証明できません」
「結論は」
「触れていません」
黒崎は少しだけ目を閉じた。
第1特務機械化隊は帰ってきた。動いた。撃っている。記録を持ち帰った。それは成果だった。
だが触れていない。
その言葉だけは、何度聞いても体の中に冷たいものを残した。
「連華の改修でどうにかなるか」
「近づくことはできます」
「触れることは」
榊原は答えなかった。
答えないことが答えになる。
黒崎は紙テープから目を上げた。
「月華は」
解析室の空気が、わずかに変わった。
月華。空の華。神経を機械へ開く機体。飛翔体の波動の隙間を、人間の脳で読むための禁忌。
「月華なら、波動の変化へ反応できる可能性はあります」
榊原は慎重に言った。
「ただし、乗り手が持ちません」
「どの程度」
「試験では、三十七秒で幻肢痛。六十二秒で自己身体境界の混濁。九十秒を超えた被験者は、機体停止後も右腕を自分のものとして認識できませんでした」
黒崎は黙った。
「対象の干渉圏内では、さらに悪化します」
「月華を使わずに済む道は」
「あります」
榊原は即答した。
黒崎が見た。
「飛翔体が去ることです」
その冗談にならない冗談を、二人とも笑わなかった。
奥山三尉は医務室のベッドで、天井の染みを数えていた。
十七個目で数が合わなくなる。やり直す。十一個目で、隣のベッドからうめき声が聞こえる。またやり直す。
体はだるい。腕が重い。肩には連華の反動がまだ残っている。操縦殻の中で強く握りすぎたせいで、手のひらには赤い跡が残っていた。
医官は過労と緊張反応だと言う。
奥山としては、もっと立派な病名をつけてほしかった。たとえば、白いもの見たくない症候群。あるいは、二度と出撃したくない病。その方が正確だ。
カーテンの向こうで足音がした。
「入ります」
伊藤二尉だった。
「見舞いですか」
「報告書の確認です」
「見舞いって言ってくれてもいいんですよ」
「確認ついでの見舞いです」
伊藤は丸椅子に座った。手には紙の束を持っている。端がきれいに揃えられていた。世界が壊れても、この人は紙の端を揃える。
「二号機の砲撃時、あなたは照準を二度修正しています」
「覚えてません」
「一度目は対象中心。二度目は下部外縁」
「だから覚えてませんって」
「なぜ修正したのかを知りたい」
奥山は天井を見た。染みは、もう数える気になれなかった。
「変だったんです」
「何が」
「真ん中を狙うと、見えない壁みたいなのがありました。いや、見えないんですけど。見えないのに、そこは駄目だって感じがしたんです。だから下を狙いました」
伊藤の鉛筆が止まった。
「感覚ですか」
「そうです。怖いですね。軍人の報告としては最悪です」
「いいえ」
伊藤は短く言った。
「干渉圏内では、感覚も観測値です」
奥山は伊藤を見た。冗談ではない顔だった。
「伊藤さん。また行くんですか」
伊藤はすぐには答えなかった。
その沈黙の長さで、奥山は答えを知った。
「嫌だなあ」
「同感です」
「伊藤さんも嫌なんですか」
「合理的にも、個人的にも」
奥山は少し笑った。笑うと胸が痛んだ。
「それ、少し安心します」
「安心材料にはなりません」
「なりますよ。怖い人が二人いる方がまだましです」
伊藤は何か言いかけて、やめた。紙の端を指で整える。
「奥山。次に出る時、最初に何を決めますか」
「……帰れるかどうか、ですかね」
「帰り方です。行きは命令が決める。帰りは、先に自分で決めておくものです」
奥山は、その言葉を胸の隅に置いた。
「加藤隊長は」
奥山が訊いた。
「格納庫です。寝ていません」
「司令も?」
「寝ていません」
「この基地、寝るの禁止なんですか」
「推奨はされています」
「実施されてない」
「はい」
奥山はため息をついた。白い飛翔体は攻撃してこない。なのに、誰も眠れない。そのことが一番怖かった。
地上では、眠れない者たちが増えていた。
東京の避難所では、夜になると小さなラジオの周りに人が集まる。電池は節約しなければならない。だから音量は低い。それでも人は耳を寄せる。政府発表。海外通信。噂。訂正。また噂。
佐伯美央は、朝顔の鉢を抱えて座っていた。
花はまだ半分だけ開いている。避難所の窓際は日当たりが悪い。水も多くはない。だが美央は、毎朝少しずつ水をやっていた。
父の柏木亮は、壁にもたれて座っている。包帯の下の腕はまだ動かない。それでも目は起きていた。空へ戻れない操縦士の目だった。
「ねえ」
美央は言った。
「白いの、何もしないんだよね」
「今のところは」
「じゃあ、どうしてみんな怖いの」
柏木は答えを探した。子どもに言える答えと、子どもだから言わなければならない答えが違う時がある。
「何をするか分からないからだ」
「何もしないかもしれないよ」
「そうかもしれない」
「だったら」
「でも、何もしないものが、ずっと空にいるだけで、人は自分で怖いことを考える」
美央は朝顔を見た。
「自分で?」
「そうだ」
避難所の奥で、大人たちが小声で話している。水の配給が減るらしい。外国が日本に怒っているらしい。連華という機械を外国へ渡せと言っているらしい。
らしい、が増えていく。事実より速く。
「怖いものが空にあると、人は地面にいる誰かを責めたくなる」
柏木は言った。
「空には届かないから」
美央は、その意味を全部は分からなかった。だが父の声が暗いことは分かった。
「鉄の人たちは、また行くの?」
「たぶん」
「勝てる?」
柏木は、すぐには答えられなかった。伊藤の顔を思い出す。怖いです、と言った声。空を嫌いではないと言いながら、空へ戻ることを恐れていた目。
「勝てるかは分からない。でも、帰ってきた」
美央は朝顔の鉢を抱き直した。
「帰ってくるのは、勝ったってことじゃないの」
柏木は少しだけ笑った。
「そう思いたいな」
ラジオの音が途切れた。砂嵐のような雑音が流れる。美央は窓の白い紙を見た。紙の隙間から、夜の空が少しだけ見える。そこに白いものはいなかった。それでも、みんな空を気にしている。
加藤一尉は、格納庫で一号機の膝関節を見ていた。
整備員が二人、足元に潜っている。油の匂いが濃い。床には交換された部品が並んでいた。削れたピン、歪んだリンク、熱で変色した圧力管、傷だらけの装甲板。どれも、人類が白い飛翔体へ近づいた証拠だった。
証拠であって、勝利の証ではない。
「隊長」
奥山が格納庫の入口に立っていた。病衣ではなく制服に着替えている。顔色は悪い。
「医務室はどうした」
「脱走しました」
「戻れ」
「ですよね」
奥山は戻らなかった。加藤も、もう一度は言わなかった。
「二号機は」
「砲架を交換中だ」
「怒ってますか」
「誰が」
「二号機が」
加藤は整備台の上に置かれた砲架を見た。
「怒るほど繊細ではない」
「じゃあ、僕だけですね」
「何に怒っている」
奥山はしばらく黙った。格納庫の奥で工具が鳴る。連華の胸部装甲が開閉され、内部の操縦殻が覗く。あそこへまた入る。そう思うだけで、奥山の胃は縮んだ。
「あれ、何もしてこないじゃないですか」
加藤は奥山を見た。
「撃っても撃っても、向こうは撃ち返してこない。追ってもこない。怒りもしない。なのに、こっちは壊れる。世界も壊れる。そんなの、卑怯じゃないですか」
加藤は答えなかった。
「敵なら、敵らしくしてほしいんです。撃ってきてくれたら、避ければいい。殺しに来るなら、怖がっていい。逃げてもいい。でも、あれは何もしない。何もしないのに、みんな勝手に怖くなって、勝手に疑って、勝手におかしくなっていく」
言い終えると、奥山は息を吸った。吸いすぎて、むせる。
加藤は、しばらく一号機の膝を見ていた。
「お前は正常だ」
「今の話を聞いて、その判断になるんですか」
「なる」
「基準が壊れてます」
「世界が壊れたからな」
奥山は笑いそうになって、やめた。笑うには、まだ喉が硬い。
「敵が敵らしくない時ほど、人間は味方を敵にする」
加藤は言った。
「経験談ですか」
「そうだ」
奥山はそれ以上訊かなかった。加藤の過去には、まだ入ってはいけない場所がある。連華の装甲より厚いものが、そこにはある。
「次も出るぞ」
「でしょうね」
「怖いか」
「ものすごく」
「なら、覚えておけ」
加藤は奥山へ向き直った。
「怖がっている間は、まだ戻れる」
奥山はその言葉を聞いて、なぜか背中が冷えた。怖くなくなった時のことを、加藤は知っている。そういう言い方だった。
伊藤は、第三区画の旧滑走試験室にいた。
かつて航空機の着陸脚や射出装置の試験に使われていた地下の長い筒。今は連華三号機のブースター調整区画になっている。
三号機は固定架に拘束され、背中の大推力ソリッド・ブースター・ユニットを晒していた。
使わなかった翼。いや、翼ではない。あれは翼の真似をする爆薬だ。伊藤はそう考えていた。
整備員が燃焼試験の結果を読み上げる。
「推力偏差、許容範囲内。固定ボルト四番、五番に歪みあり。交換推奨」
「推奨ではなく交換してください」
「了解」
伊藤は光学照準器の調整表を見た。地上から空へ。連華で飛ぶ。言葉にすると馬鹿げている。だが、馬鹿げたものだけが今は少しだけ前へ進める。
戦闘機は飛翔体の近くで死ぬ。誘導弾は目を失う。レーダーは白く焼ける。電子制御は黙る。連華は重い。遅い。不格好だ。飛ぶために作られていない。だからこそ、まだ動いた。
伊藤は、その事実が気に入らない。気に入らないから、正確に認めていた。
「伊藤二尉」
背後から声がした。榊原だった。手には封筒を持っている。
「月華の資料です」
伊藤は封筒を見た。受け取らなかった。
「私に渡す理由は」
「あなたが一番嫌がるからです」
「理由になっていません」
「月華を簡単に希望扱いする人間に渡すよりは、ましです」
伊藤は封筒を受け取った。紙は厚い。中に入っているものが、設計図だけではないことが重さで分かる。試験記録。事故報告。被験者の経過。成功と呼ばれた失敗。
「起動するのですか」
「まだです」
榊原は言った。
「まだ、という言葉が嫌ですね」
「私も嫌いです」
伊藤は封筒を脇に置いた。
「月華は飛べるのですか」
「飛べます」
「帰れますか」
榊原は答えなかった。
伊藤は、やはりと思った。飛べる機体は多い。帰れる機体は少ない。飛翔体が現れてから、その差は残酷なほど大きくなった。
「連華三号機のブースターを改修します」
「月華支援用ですか」
「いいえ。帰還用です」
榊原は、少しだけ伊藤の横顔を見た。
伊藤は資料へ目を落とす。封筒の表には、赤い判でこう押されていた。
月華試験記録。閲覧者制限。精神負荷事故含む。
伊藤はそれを開いた。紙の匂いがした。空の匂いではない。
その夜、白い飛翔体はインド洋上空で高度を下げた。
沿岸部の漁村では停電した家々から人が外へ出て、海の向こうの雲が白く光るのを眺めた。ある者は祈り、ある者は泣き、ある者は隣人の家から水を盗んだ。
飛翔体は何もしなかった。ただ、雲の上を通過した。その下で、人間だけが動いた。
世界各地で同じことが起きていた。教会にも寺院にもモスクにも人が集まった。白い飛翔体を神の徴と呼ぶ者、終末を告げるものだと叫ぶ者、特定の国が招いた災厄だと断じる者が現れた。
科学者は否定し、政府は冷静を求め、軍は治安維持に出た。だが恐怖は、命令系統を持たない。誰にも指揮されず、必要な場所よりも速く広がる。
破壊不能だと知った時、人類は一つの結論へ向かったわけではなかった。むしろ、無数の結論へ割れていった。それぞれが、自分に耐えられる答えを選び始めた。答えがなければ、人は恐怖を抱えられない。だが、選んだ答えが正しいとは限らない。
深夜、黒崎は地下司令部の片隅で一枚の電文を読んでいた。
何度も中継され、暗号化され、復号され、要約され、最後に人間の手で打ち直されたもの。
内容は短い。
複数国による華計画共同管理案。特殊合金原料の輸出制限。干渉圏内対応装備の国際査察要求。連華運用データの即時開示。月華、烈火に関する照会。
各国は華計画の技術開示を要求し、希少金属の供給が制限され始めていた。白い飛翔体を倒すための技術が、そのまま国家間の切り札になる。その構造に、黒崎は驚かなかった。
黒崎は最後の行で指を止めた。
月華。烈火。
存在を知っている国がある。あるいは、推測している国がある。隠し通せるとは思っていなかった。だが早すぎる。飛翔体よりも、人間の目の方が速い時がある。
加藤が司令部へ入ってきた。
「呼びましたか」
「呼んだ」
黒崎は電文を渡した。加藤は読んだ。表情は変わらなかった。
「連華班への影響は」
「ある。お前たちは、飛翔体だけでなく世界中から見られる」
「見られるのは慣れています」
「違う見方だ。英雄としてではない。証拠として見られる。日本が人類の盾を独占している証拠。あるいは、日本が世界を危険に晒した証拠。都合のいい方にな」
加藤は電文を机に置いた。
「盾と言えるほど硬くありません」
「世間は硬さを見ない。形を見る」
「なら、壊れているところも見せればいい。連華は万能ではありません。触れてもいない。三機とも損傷し、搭乗者も消耗している。そこまで含めて開示すべきです」
「正論だ。正論で済むなら、俺はとっくに寝ている」
加藤は黙った。
司令部の古い時計が音を立てた。針が一つ進む。それだけの音が、妙に大きく聞こえた。
「次の任務が決まる」
黒崎は言った。
「華計画は本格化する。連華の量産検討、月華の再試験、烈火の軌道投入準備。政府は全部を同時に進めるつもりだ」
「無理です」
「無理だと分かった上で進める。そういう段階に入った」
白い飛翔体は破壊不能。だから人類は、破壊できるものを探し始める。予算。機密。国境。同盟。人間の体。人間の心。壊せるものはいくらでもある。
「連華班は、命令に従います」
加藤は言った。
「それだけか」
「いいえ」
加藤は黒崎を見た。
「帰します」
誰を、とは言わなかった。黒崎も訊かなかった。その言葉だけが、今の加藤にとって命令より重いことを知っていた。
翌朝、地下第七区画では連華の修理が続き、解析室では榊原が紙テープの線を何度も見直した。格納庫では加藤が一号機の前に立っている。
旧滑走試験室では、伊藤が月華の事故記録を読み進めていた。
最初の被験者は、機体停止後に自分の右腕を探した。
右腕はあった。肩から先に、何の欠損もなく残っていた。だが本人は、それを自分のものだと認めなかった。
記録には、淡々と書かれていた。
被験者、右上肢の身体所有感を喪失。
次の行には、もっと短い言葉があった。
帰還不能。
伊藤は、鉛筆を止めた。
飛べなかった、ではない。撃墜された、でもない。
帰還不能。
その言葉は、空の記録で何度も見てきた。戦闘機の残骸が見つからない時。通信が途絶え、燃料限界を過ぎ、捜索範囲だけが広がっていく時。報告書は、最後にその言葉で人間を閉じる。
死んだ、よりも冷たい。
伊藤は封筒の中から別の紙を出した。
月華の操縦系統図。神経接続の模式図。飛翔体干渉圏内での想定機動。
どの線も美しかった。無駄がなく、軽く、速い。連華のように油臭くない。歯車も、ワイヤーも、踏みしめる足もない。空へ行くためだけの形だった。
だから危険なのだと、伊藤は思った。帰ることを考えない機体ほど、美しく見える。
伊藤は月華の資料を裏返し、余白に短く書いた。
帰還手順を先に作る。
その下に、もう一行。
三号機、月華回収用ブースター案。
書いてから、鉛筆の芯が折れた。
乾いた音が、地下の長い筒に響いた。
固定架に拘束された連華三号機は、黙っていた。背中のブースターは未使用のまま、鈍く光っている。飛ぶために作られていない鉄の機体が、飛ぶために作られた禁忌の機体を迎えに行く。
馬鹿げている。
伊藤はそう思った。
だが、馬鹿げていない方法は、もう世界にほとんど残っていない。
通信管から、遠い司令部の声が漏れてきた。
白い飛翔体、再上昇。
高度、成層圏。
進路、不定。
伊藤は顔を上げなかった。
空にあるものは壊れない。その事実は、もう十分だった。問題は、壊れないものへ向かう人間が、どれだけ壊れて帰ってくるか、だ。
そして、帰ってこられない者を、誰が迎えに行くかだった。
伊藤は折れた芯を捨て、新しい鉛筆を取った。
月華の資料の余白へ、帰還経路を書き始める。
線は何度も途切れた。推力が足りない。高度が足りない。連華の脚部がもたない。搭乗者の体がもたない。
それでも、伊藤は線を引いた。
白い飛翔体は、沈黙したまま空を進む。
破壊不能なものとして。
その下で伊藤は、壊れることを前提にした帰り道を描いていた。
その時、旧滑走試験室の奥でベルが一度だけ鳴った。
電子警報ではない。
壁に取り付けられた、古い機械式の打鐘だった。
伊藤は顔を上げた。
月華関連区画。
封印中のはずの区画名が、真鍮板の表示窓に浮いている。
故障か。
誰かの確認ミスか。
それとも、白い飛翔体の波に、眠っている機体が反応したのか。
伊藤は折れた鉛筆を置き、月華回収用ブースター案の余白へもう一行を書いた。
起動前異常反応あり。
希望ではない。
希望と呼ぶには、あまりにも嫌な音だった。
お読みいただきありがとうございます。
第2部は、連華が示した小さな希望が、同時に世界の疑心や争いの火種にもなっていくところから始まります。
今回の章では、飛翔体そのものよりも、それを見上げる人間たちの恐怖に焦点を当てました。
そして、月華という禁忌の機体も少しずつ物語の表へ出てきます。
次章では、特防群と加藤の過去に踏み込んでいきます。




