第50章 帰る場所
第6部最終章です。
黒色域から初を連れ戻した加藤たち。
月の重力に合わない振り子時計が、地球よりゆっくりと時を刻みます。
勝敗ではなく、帰る場所に何が残ったのかを描きます。
振り子時計は、地球の重力で作られていた。
月では振り子が遅い。
初はぜんまいを巻き、時刻を合わせようとして、やめた。
「ここでは、これが正しいんです」
時計は地球よりゆっくり、こつ、こつ、と鳴った。
澪標の医務室で、真壁が封筒を開けた。
中に入っていたのは便箋一枚だった。
帰ってきたら、飯を食べに行きましょう。
店の名前も、差出人の名前もない。整備員が書き忘れたのかもしれない。真壁は何度も読み、それから笑った。
「まだ帰ってないな」
加藤が言う。
「ああ。だから、まだ取っておく」
月の稜線では、二隻の接近艦が砲門を閉じていた。こちらを諦めたわけではない。地上では、ジェネシス・アイルの管理を巡る会議が始まり、会議場の外で別の部隊が銃を磨いている。
ただ、一つだけ、昨日までと違うことがあった。
二隻のうち小さいほう――あのとき名乗りを拒まれたソコロワ少佐の艦が、砲門を閉じたまま、月の稜線から一度だけ信号を送ってきた。
攻撃ではない。座標でもない。
帰り方を、教えてくれ。
末尾に、ソコロワ、と署名があった。
加藤が拒んだ名乗りを、今度は向こうから差し出していた。
その艦もまた、燃料を使い切り、帰る道を失っていた。澪標の灯りは、敵にも見えている。
黒崎は、すぐには答えなかった。
人間の恐怖は、白い飛翔体と一緒には消えなかった。
黒色域も残っている。
門か。
検疫線か。
それとも、外へ出してはいけない何かを抱えた、宇宙の古い傷か。
初は答えを紙へ書かなかった。
分からないものを、分かった形にして残すのは、父の悪い癖だった。
格納区では、三機の連華が修理を待っていた。帰路は両脚を失い、灯台は左腕が垂れ、足は酸素剤で白く汚れている。四号機だけが立っていた。右脚は三秒遅れる。それでも立つ。
初はその脚に梯子を掛け、油差しを持って登った。
「休め」
加藤が下から言う。
「時計を巻いたので、次はこっちです」
「命令だ」
「それ、取り消すんでしょう」
加藤は口を閉じた。
奥山が笑い、伊藤が残った誘導灯を一つ直した。
三つ目の灯りが点く。
地球から見えない月の裏側で、未完成の空母が光った。
迎えには行けない。
道を照らすことしかできない。
それでいい。
帰る者には足がある。
帰ろうとする者には、名を呼ぶ声がある。
黒い宇宙のさらに奥で、信号が一つだけ生まれた。
真壁のものではない。
荻野のものでもない。
初は受信盤へ手を置いたが、すぐには読まなかった。
先に、格納区を見た。
加藤がいる。
伊藤がいる。
奥山がいる。
真壁が、生きている。
振り子時計が鳴っている。
帰る場所は、もう決めてある。
初は紙テープを引き寄せた。
「読みます」
誰かが、隣で頷いた。
澪標の灯りは消えなかった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
第50章「帰る場所」でした。
黒色域の正体も、人類同士の争いも終わっていません。烈火一号機も戻りませんでした。
ただ、かつて名乗りを拒んだソコロワ少佐の艦が、砲門を閉じたまま「帰り方を教えてくれ」と信号を送ってきました。敵もまた、帰る場所を失っていた――灯台は、味方だけのものではありませんでした。
それでも真壁は生き、初は自分の名を持って戻り、壊れた連華が格納区に並んでいます。澪標は迎えに行くことはできなくても、帰る方向を照らし続けます。
新しい信号を読む前に、初は自分の帰る場所を確かめました。
第6部まで見届けてくださり、本当にありがとうございました。




