第31章 黒い信号
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます。
第5部最終章です。
白い飛翔体は消えました。けれど世界が元通りになるわけではありません。
荻野を失った白瀬と榊原。国家が壊れたまま命令を出す黒崎。足場を守った加藤。怖いまま残った奥山。月華から戻った雨宮。医者として限界まで戦った三枝。壊れた世界で朝顔に水をやる柏木と美央。
それぞれの「戦後の最初の一日」を描きます。
そして、宇宙で沈黙していた烈火から届くものがあります。
最後まで読んでいただけたら嬉しいです。
国道六号線は、水戸の手前で途切れていた。
アスファルトが割れたのではない。道の上に、焼けたトラックと倒れた送電塔と、誰かが置いていった毛布の山が積み重なって、車が通れなくなっていた。歩きなら行ける。自衛隊の隊員が一人、その瓦礫の脇に立って手旗を振っていた。北へ向かう避難民に、迂回路を示すためだ。彼はもう三日、同じ場所に立っている。交代は来ない。
さいたま市の大宮駅は、改札が開いたまま放置されていた。電車は止まっている。ホームには人がいる。電車を待っているのではない。屋根があるから寝ているだけだった。駅員は残っていない。誰かが手書きで「水は南口の給水車」と段ボールに書いて柱に貼った。給水車は昨日来たきり、今日は来ていない。
横須賀港では、海上自衛隊の護衛艦が傾いたまま岸壁に繋がれていた。戦闘で傾いたのではない。燃料を抜かれて軽くなり、潮に押されて斜めになっただけだ。燃料は発電施設へ回された。艦の乗組員は陸に上がり、港の倉庫で避難民の炊き出しを手伝っている。
白い飛翔体が消えた朝の、日本の姿だった。
空は青い。どこまでも青い。その青さが、地上の傷をかえって際立たせていた。
防衛庁地下第七区画の作戦室では、古い時計が動いていた。
電波時計ではない。
壁に掛けられた、ぜんまい式の時計だった。誰かが昔、電磁干渉の試験用に持ち込んだもので、華計画の最初の頃には笑い話のように扱われていた。だがいま、その時計だけが、正しいのか間違っているのか分からない時間を、律儀に刻んでいた。
秒針が進む。
白瀬凛は、その音を聞いていた。
紙の上には、最後の報告が残っている。
白色飛翔体、消滅確認。
月華一号機、消滅。
荻野誠一博士、帰還途上。
帰還途上。
その二文字分の逃げ道を、誰も責めなかった。
白瀬は通信卓に座ったまま、ヘッドセットを外せずにいた。耳当ての内側が汗で湿っている。頬に付いたマイクの跡が赤くなっていた。喉は焼けたように痛い。何度も呼びかけたせいだ。
荻野誠一さん。
月華一号機。
応答してください。
帰還してください。
その呼びかけは、最後まで作戦手順だった。最後まで職務だった。最後まで、誰かを帰すための声だった。
白瀬は知っていた。
自分は途中から、職務のために呼んでいなかった。
名前を呼ぶことしか、荻野を人間のまま留める方法がなかった。月華と飛翔体と白い光の中へ溶けていく男を、せめて最後の一秒だけでも、番号ではなく名で掴みたかった。
それが届いたのかどうかは分からない。
ただ、荻野は最期に加藤へ言った。
歩け。
白瀬はその言葉をログに残していない。
残せなかった。
作戦記録には不適切な私語であり、戦術上の指示としては曖昧で、機械が拾った音声としても途切れ途切れだった。
けれど作戦室の全員が聞いた。
だから残さなくても、消えなかった。
黒崎征二は、中央卓の前に立っていた。
手袋を外した指が、机の縁を掴んでいる。力を入れすぎて爪が白い。いつものように背筋は伸びている。声も乱れていない。目だけが、戦闘中よりも疲れていた。
「外部回線の復旧状況は」
問われた通信士が顔を上げる。
「国土系統は断続。官邸回線、応答なし。北部統合司令、雑音のみ。西部臨時司令からは、飛翔体消滅を確認したとの短文受信。国連系統は、まだ言語同期が取れていません」
「民間放送は」
「一部が復旧しています。ただし、各局とも独自判断で避難誘導と安否情報を優先。飛翔体消滅については、確認済み情報として扱うかどうか保留中です」
黒崎は頷いた。
勝利を発表する相手がいなかった。
国の中枢は沈み、命令系統は裂け、各地の部隊は自分たちの持ち場で生き残ることに必死だった。世界中の軍隊が、いまも誤射を恐れて通信を待っている。国境線の向こうでは、飛翔体に奪われた都市を取り返す名目で、人間同士の砲撃が始まっている地域もある。
白い飛翔体は消えた。
白い飛翔体が作った空白を、人間はもう撃ち始めていた。
黒崎は、そのことに驚かなかった。
驚かない自分に、負けたと思った。
彼は長いあいだ、国家というものを信じているふりをしてきた。信じていなければ、命令を出せない。信じていなければ、若い操縦者を死地へ送れない。信じていなければ、壊れた機体の搭乗者を「損耗」ではなく「帰還途上」と呼び続けることができない。
いま、黒崎の前にある国家は、机の上の断線した回線図だった。
それでも彼は命令を出す。
「飛翔体消滅は、確定情報として全回線へ流せ。だが祝賀文はつけるな。被害状況の集約、避難路の再構成、医療搬送の優先順位を添付する」
「了解」
「月華一号機および荻野博士については」
黒崎は一瞬だけ黙った。
白瀬が顔を上げる。
「喪失とは書くな」
作戦室の空気が、ほんのわずかに震えた。
「現時点で回収不能。帰還支援継続。そう書け」
誰も異議を唱えなかった。
榊原洋介が、古い紙テープ記録器の前に座っていた。
彼の眼鏡は片方のつるが折れていて、医療用テープで雑に補修されている。顔には煤がつき、白衣は血と油と埃で灰色になっていた。それでも彼は、機械式記録器に手を置くと、まるで聴診器を当てる医師のように静かになった。
「飛翔体消滅後の外縁観測データを再走査します」
「休め」
黒崎が言った。
榊原は首を横に振った。
「休むと、考えます」
「考えろ」
「考えると、荻野さんの仮説が正しかったことになります」
その言葉に、誰もすぐには返せなかった。
正しかった。
白色飛翔体は、荻野博士の仮説通り、単なる物体ではなかった。境界の殻であり、帰還しようとする力の集合であり、こちらの世界に触れるたびに、こちら側の物理を借りて形を保つ何かだった。
撃退方法も、ほとんど仮説通りだった。
月華の胸部エネルギー高炉をB-MAXで最大開放する。対象と月華を意図的に融合させ、境界の密度差を反転させる。核分裂に似た崩壊を誘導し、飛翔体の自己保持を失わせる。
理論上は可能。
実運用上は、一機と一人を失う。
荻野は、それを紙に書いた。
そして自分で実行した。
榊原は、記録器のつまみを回した。
「科学は、人を救うためにあると教わりました」
白瀬は黙っていた。
「でも、今回救えたものの中心に、人を救わない手順があった。僕は、そこから目を逸らしたくない」
彼の指が震えていた。
感動していた。
荻野の仮説が世界を救ったことに。
敗北していた。
その仮説を、人間の犠牲なしに実現できなかったことに。
紙テープが、かすかな音を立てて吐き出された。
かた、かた、かた。
榊原はその穴列を見つめた。
「外縁ノイズ、再取得」
「残留干渉か」
「分かりません。白色飛翔体由来の波形ではない。もっと荒い。古い。……黒い」
黒崎の視線が上がった。
「黒い、とは」
「すみません。技術用語ではありません。ただ、波形の位相が、烈火の手動姿勢補正信号に近い」
白瀬がヘッドセットを握り直した。
誰かが息を止めた。
まだ、その名を口にしてはいけないような気がした。
宇宙で消息不明だった黒い未完成機。
脚を持たない、人間の形を途中で諦めた機体。
勝つために帰還を削られ、それでも搭乗者が帰ると言った機体。
烈火。
地上では、加藤が立ち上がろうとしていた。
連華一号機の操縦殻は、開いたまま煙を上げている。機体の左脚は膝から下が半ば失われ、右腕は肘関節を固定した状態で動かない。胸部装甲には月華二号機とのB-MAX干渉で焼けた黒い筋が残り、そこへ白い粉のようなものが降り積もっていた。
飛翔体の残骸ではない。
月華一号機の残響でもない。
空から落ちてきた、ただの灰だった。
どこかで燃えた街の灰。
加藤はそれを指で払った。
指先が血で濡れている。握ると痛い。痛いことが腹立たしい。自分の身体がまだここにある証拠だからだ。
生きている。
荻野は消えた。
加藤は、勝った人間の顔をしていなかった。
周囲には、生存者が集まり始めている。富士火力試験隊の連華四号機は横倒しになっており、五号機は片膝をついたまま動かない。六号機の操縦者、相馬は操縦殻から引きずり出され、救護班に酸素を当てられていた。
相馬はまだ震えていた。
「降りられたな」
加藤が言うと、相馬は顔をしかめた。
「降りられた、じゃねえですよ」
声は掠れていた。
「落ちたんです」
「同じだ」
「違います」
相馬は目を閉じ、酸素マスク越しに息を吸った。
「でも、足が着いた。……それだけは、すげえと思いました」
加藤は笑わなかった。
笑えば、泣くと思った。
あの降下は、戦術的には無茶だった。連華を空から落とすなど、機体の思想に反している。地上で踏みしめるために作られたものを、空に投げ込んだ。パイロットは全員、降りられないかもしれないと知っていた。
それでも降りた。
怖いと言いながら。
叫びながら。
地獄の戦場の中へ、足を持って降りてきた。
加藤は、そこに感動していた。
人間は、こんなにも馬鹿で、こんなにも必死で、こんなにも美しいのかと思った。
同時に、敗北していた。
それだけの足があっても、荻野一人を地上へ戻せなかった。
奥山凪は、少し離れた場所で膝を抱えていた。
医療班が彼の腕に簡易包帯を巻いている。奥山は、何度も「すみません」と言った。誰に謝っているのか、自分でも分からなかった。
「奥山」
加藤が呼ぶ。
奥山は顔を上げた。
「怖いか」
奥山は、すぐには答えなかった。
空を見る。
白いものはない。
それでも怖い。
機体の中に戻るのが怖い。戻らないのも怖い。生きているのが怖い。生き残った理由を考えるのが怖い。荻野の声がもう聞こえないことが怖い。怖さが消えたら、また自分は何か大切なものを壊してしまうのではないか――そのことが、何より怖い。
「怖いです」
奥山は言った。
「すごく」
加藤は頷いた。
「なら、今日は勝ちだ」
「勝ちなんですか」
「お前が怖いまま生きてる」
奥山の顔が歪んだ。
励ましではなかった。
慰めでもない。
ただ、事実だった。
奥山は怖いまま、最後まで連華に戻った。怖いまま、逃げる人を見た。怖いまま、撃たなかった。怖いまま、自分の中の壊れた部分を人間の側へ引き戻した。
奥山はその事実に、ひどく小さく感動した。
自分が英雄になったからではない。
英雄にならなくても、生きていてよかったと思える瞬間があったからだ。
だが同時に、敗北感は消えない。
怖いと言えるようになるまでに、どれだけの人が死んだのか。
自分がもっと早く怖がれていたら、誰かを傷つけずに済んだのではないか。
その問いは、白い飛翔体の消滅では消えなかった。
伊藤怜司は、連華三号機の傍らで空を見ていた。
三号機は動かない。
地上側基準点として月華を繋ぎ留める役目を終えた後、機体の内部構造は限界を越えていた。補助脚も、姿勢制御も、ほとんど焼き切れている。伊藤がもう一度乗れば、起動するかもしれない。だが二度と歩けないかもしれない。
伊藤はそれを、妙に穏やかに受け止めていた。
この機体は、戻すために壊れた。
三号機の装甲に触れた。指の腹に、まだ残っている。月華の脚装甲をワイヤーランチャーの砲身で叩いたときの衝撃が、鉄を通して伝わってくるような気がした。
あの振動は、地面がある、という合図だった。
空に溶けかけていた雨宮へ、地上から送った一撃。戻ってこいとは言わなかった。帰れとも言わなかった。ただ叩いた。鉄で。力任せに。言葉にならないものを、振動に変えて。
昔の自分には、それができなかった。
夜の海へ落ちていく僚機を、見ていた。管制が帰投を命じるのを聞いていた。計器が赤く染まるのを読んでいた。見て、聞いて、読んで――それだけだった。手は動かなかった。声も出なかった。空にいたのに、何も届けられなかった。
あの夜から長い時間が経っている。
今日、伊藤は叩いた。見る代わりに殴った。空へ手を伸ばす代わりに、地面の側から振動を送った。帰投優先。その四文字を、声ではなく鉄の震えに乗せた。
雨宮は戻った。月華は降りた。
それだけが、あの夜と今日を分けるものだった。
伊藤は感傷を嫌う。だから感動とは呼ばなかった。ただ、三号機の冷たい装甲に額を預けた。数秒。誰にも見えない角度で。
見ることと帰すことは違う。
その差を埋めるのに、壊れた機体が一機、焼けた右肩が一つ、喉から出さなかった声の全部が要った。それでも埋まったのかどうかは分からない。分からないまま、額を離した。
救いは、勝利と同じではない。
伊藤のポケットには、汚れた記録票が入っている。何度も折り畳まれ、汗で滲み、角が裂けていた。そこには、月華二号機の帰還補助語が書かれている。
灯台。
そして別の紙には、烈火帰還案の古い走り書きがあった。
真壁を帰す。
その一文を、伊藤は白い飛翔体が再び戻ってきた夜から消していない。
白い飛翔体が消えた空を見ながら、伊藤は思った。
空は空に戻った。
宇宙は、まだ戻っていない。
通信機が鳴ったのは、そのときだった。
『第七区画より全生存機。外縁観測に微弱信号。烈火手動系と類似』
伊藤は顔を上げた。
加藤が振り返る。
奥山が包帯の手を止める。
相馬が酸素マスクを外そうとして、救護員に怒られる。
『確定前情報。繰り返す。確定前情報。烈火一号機由来の可能性あり』
伊藤は三号機の装甲に手を置いた。
冷たい。
冷たさの奥に、まだ何かが残っているような気がした。
「真壁二佐」
伊藤は小さく言った。
「帰るって言ったよな」
雨宮澪は、医療区画の簡易ベッドの上で目を覚ました。
最初に感じたのは、背中の痛みだった。
月華二号機との接続を切られた後も、神経のどこかに翼の感覚が残っている。肩甲骨の奥で、見えない羽根が燃えているようだった。彼女は息を吸い、吐いた。
「雨宮さん」
三枝真帆が横にいた。
目の下に深い隈がある。医師の白衣は汚れ、髪はほどけ、手袋の上からでも分かるほど指が震えていた。
「飛翔体は」
「消えました」
雨宮はまばたきをした。
その言葉は、あまりにも簡単だった。
「荻野博士は」
三枝は答えなかった。
沈黙が答えだった。
雨宮は目を閉じた。
自分は月華二号機に乗った。
月華一号機を見た。
荻野が、あの白いものへ触れるために月華を使い、自分ごと消えるのを感じた。彼の声は直接聞こえなかった。接続の残響の中で、月華一号機が最後に何をしたのかは分かった。
月華は戻りたくなくなる機体だ。
だから雨宮は、灯台を持たされた。
帰るために。
荻野は、自分の灯台を持っていなかったのではない。
彼は灯台になる側を選んだ。
雨宮は涙を流さなかった。
涙が出なかった。
その代わり、胸の奥が静かに崩れた。
感動していた。
誰かが自分の帰り道を失ってまで、他の人間の帰り道を作ったことに。
敗北していた。
その人を、自分の月華では追いかけられなかったことに。
「三枝先生」
「はい」
「月華二号機は」
「封印準備中です。あなたの接続は切れています」
「もう、乗れませんか」
三枝は、少しだけ怒った顔をした。
「乗せません」
雨宮は、その怒りにほっとした。
誰かがまだ、自分を機体ではなく人間として扱っている。
三枝はすぐに表情を崩し、手元の記録板を握りしめた。
「すみません」
「謝らないでください」
「私は、医者なのに、結局誰も完全には守れなかった」
雨宮は三枝の手を見た。
その手は、一晩で何人もの血を止めた手だった。薬剤を切り詰め、ベッドを譲り、死者の目を閉じ、生存者に水を飲ませた手だった。
「先生」
「はい」
「今、私が人間に戻れているのは、先生が怒ってくれたからです」
三枝は唇を噛んだ。
医療区画の外では、負傷者たちの声が続いていた。痛みを訴える声。誰かの名前を呼ぶ声。水を求める声。眠れない子供をなだめる声。
それらはすべて、勝利の歓声ではなかった。
それでも、生きている音だった。
佐伯美央は、瓦礫のそばで水を探していた。
柏木亮は、片腕を吊ったまま彼女の後ろを歩いている。右脚を引きずるたびに顔をしかめるが、止まらなかった。
「お父さん、座ってて」
「座ってたら、お前が変なところに行く」
「行かないよ」
「お前は行く」
美央は少しむくれた。
その表情が、柏木にはたまらなく眩しかった。
国道沿いの避難所では、毛布が足りないまま朝が来ていた。大宮駅のホームでは、段ボールの案内板が風でめくれていた。横須賀の港では、傾いた護衛艦の甲板に朝日が当たっていた。
白い飛翔体は消えた。
その全部を知らないまま、娘はむくれることができる。
それが柏木にとって、どんな勲章よりも重い勝利だった。
同時に、敗北している。
父親として、美央に安全な家を返せない。温かい食事も、きれいな布団も、学校へ行く朝も、約束できない。飛翔体が消えても、街は燃え、道は裂け、明日の水を探さなければならない。
美央は割れたペットボトルの底に、わずかに残った雨水を見つけた。
「これ、使えるかな」
「飲むには無理だ」
「朝顔には」
柏木は空を見た。
青い。
白いものはない。
遠くで黒い煙が上がっている。
「少しなら」
美央は、胸元の小さな包みを開いた。
朝顔の種。
昨日まで、種だった。
今日もまだ、ほとんど種だった。
一つだけ、殻の端が割れている。
白い根のようなものが、ほんの少しだけ覗いている。
美央は息を呑んだ。
「お父さん」
「ああ」
「出てる」
柏木は頷いた。
何か言おうとして、言葉が出なかった。
感動とは、大きな音で来るものだと思っていた。
国旗が上がり、群衆が叫び、勝利の報道が流れるようなものだと。
本当は、瓦礫の陰で割れた種の端を見ることなのかもしれない。
そして敗北とは、そこに水をやるだけの水を探さなければならないことだった。
美央は指先で、ほんの一滴を落とした。
種は何も言わない。
それでも柏木は、何かが返事をしたような気がした。
第七区画では、黒い信号の解析が続いていた。
榊原は、紙テープを机に並べていた。電子復号装置は何度も停止した。デジタル処理は、飛翔体消滅後の残留ノイズと区別できず、同じ箇所で誤読を繰り返す。
だから榊原は、紙を読んだ。
穴の列。
間隔。
手動姿勢補正信号特有の揺れ。
人間の手がレバーを動かしたときだけ生まれる、均一ではないリズム。
「白瀬さん」
「はい」
「呼びかけをお願いします」
「烈火へ、ですか」
「はい。デジタルではなく、アナログで。音声を直接重畳してください。短文。名前優先」
白瀬はヘッドセットを付け直した。
喉が痛む。
声が出るか分からない。
出さなければならなかった。
彼女はマイクを寄せた。
「烈火一号機」
作戦室が静まり返る。
「こちら防衛庁地下第七区画、統合作戦通信、白瀬凛三尉」
雑音。
古い雨のような音。
「真壁遥二佐。聞こえますか」
白瀬は、息を吸った。
荻野を呼んだときの痛みが喉に残っている。
また返事がなかったら。
また、自分の声だけが虚空に落ちたら。
それでも呼ぶ。
「真壁二佐。白色飛翔体は消滅しました。月華一号機は、作戦を完遂しました。荻野博士は、帰還途上です」
黒崎が目を閉じた。
榊原が紙テープを見つめる。
「烈火一号機。受信できる場合は、手動姿勢補正信号を三回短く」
雑音。
沈黙。
そして。
かた。
記録器が鳴った。
白瀬は動かなかった。
かた。
二度目。
榊原の指が紙を押さえる。
かた。
三度目。
誰も歓声を上げなかった。
上げられなかった。
その三つの音は、あまりにも小さかった。勝利の音ではない。帰還の音でもない。生存確認と呼ぶには弱すぎる。真壁遥が生きていると断言するには、宇宙は遠すぎた。
三回だった。
人間が言われた通りに返す、三回。
白瀬の目から涙が落ちた。
今度は声が震えた。
「烈火一号機、応答確認」
榊原が紙テープを持ち上げる。
「追加信号、来ます」
穴列が続いた。
均一ではない。
途切れながら。
歪みながら。
それでも、文字にできる部分があった。
榊原は読み上げた。
「REKKA-1」
作戦室の誰かが、小さく息を吐いた。
「MAKABE」
白瀬は目を伏せた。
「KIKAN DORYOKU KEIZOKU」
帰還努力を継続。
その言葉は、最初に烈火が宇宙へ上がった日から、ずっと同じだった。
同じであることが、奇跡だった。
黒崎は片手で顔を覆った。
榊原は泣きながら笑っていた。
白瀬は声を出さずに泣いた。
感動は、作戦室の床を揺らさなかった。
ただ、全員の胸の内側で、静かに何かを壊した。
次の紙テープで、その感動はすぐに敗北へ戻された。
「続きがあります」
榊原の声が低くなる。
「外縁観測。白色対象消滅後、黒色反射域を捕捉」
「黒色反射域」
黒崎が繰り返す。
「座標は」
「不安定です。飛翔体の消滅点よりさらに外側。地球周回軌道ではありません。月軌道でもない。烈火の光学系が、飛翔体の消えた先に残った何かを見ています」
白瀬は涙を拭った。
「何か、とは」
「分かりません」
榊原は正直に言った。
「ただ、白色飛翔体が帰ろうとしていた場所、あるいは、白色飛翔体をこちらへ押し出したものの痕跡かもしれない」
勝利は、そこで終わった。
いや、最初から終わっていなかったのかもしれない。
白い飛翔体は消えた。
世界から、あの白い影は消えた。
飛翔体がいなくなった空白には、理由が残っている。
なぜ現れたのか。
どこへ帰ろうとしていたのか。
その向こうに、何があるのか。
そして地上では、人間同士の戦いが始まりかけている。
月華の高炉とB-MAXの記録を巡って、各国はもう動き始めるだろう。飛翔体を消した力は、飛翔体が消えた後こそ、最も危険な兵器になる。連華の足も、月華の翼も、烈火の質量も、人間は敵へ向けることができる。
黒崎はそれを知っていた。
加藤も知っていた。
伊藤も、奥山も、雨宮も、三枝も、白瀬も、榊原も、柏木も、たぶん美央ですら、言葉にならない形で知っていた。
戦いは終わらない。
終わらせるための仕事が、ここから始まるだけだ。
「全回線へ訂正を出す」
黒崎が言った。
声は静かだった。
「飛翔体消滅後の外縁異常を確認。烈火一号機よりアナログ信号受信。真壁遥二佐、帰還努力を継続中」
「喪失判定は」
通信士が問う。
黒崎は答えた。
「出さない」
白瀬はマイクを握った。
「烈火一号機、こちら第七区画」
雑音が返る。
遠い。
あまりにも遠い。
そこには、誰かの手の揺れがあった。
「真壁二佐。こちらはあなたの帰還支援を継続します」
白瀬は一度、息を止めた。
そして、荻野に言えなかった言葉を、今度は最後まで言った。
「帰ってきてください」
宇宙では、黒い機体が沈黙の中を漂っていた。
烈火一号機。
脚のない巨人。
帰還を削られた兵器。
その操縦殻の中で、真壁遥は、自分の身体がまだ身体であるかどうかを、もう正確には判断できなかった。
腕はレバーに固定されている。
指先の感覚は薄い。
呼吸は浅く、生命維持装置は何度も低出力警告を出した後、警告を出す電力すら惜しむようになった。
真壁は地球を見ていた。
光学照準器の片側は焼けている。もう片側も、視界の端に黒い染みがある。それでも地球の青は見えた。
白い飛翔体があった場所は、もう白くない。
その奥に、黒い何かがあった。
物体ではない。
影でもない。
ただ、宇宙の暗さとは別の暗さが、そこにある。
真壁はそれを見た。
そして、地球へ信号を送った。
帰還努力を継続。
それは報告であり、意地であり、約束だった。
誰かが受け取るかどうかは分からない。
それでも真壁は送る。
昔、烈火の前で整備員から封筒を受け取った。
開けなかった封筒。
帰ってから開けると決めた封筒。
中に何が書いてあるのか、もう何度も想像した。
感謝かもしれない。
謝罪かもしれない。
ただの連絡先かもしれない。
それでも開けていない。
開けていないものがある限り、帰る理由はまだ残る。
真壁は、手動レバーをわずかに動かした。
烈火の黒い腕が、宇宙で震えた。
姿勢が変わる。
ほんのわずかに。
地球へ。
帰還軌道とは呼べない。
計算上は、まだ落ちると言うには遠すぎる。
燃え尽きずに大気へ入る方法も、受け止める方法も、どこにもない。
黒い未完成機は、地球へ向いた。
真壁遥は、息を吐いた。
「帰還努力を」
声は記録に残らないほど小さかった。
「継続」
第七区画の紙テープに、最後の穴が刻まれた。
白瀬はそれを見た。
榊原は読んだ。
黒崎は命令を出した。
伊藤は空を見上げた。
加藤は壊れた連華の足元で立った。
奥山は怖いまま、立ち上がった。
雨宮はベッドの上で、灯台という言葉をもう一度胸に置いた。
三枝は次の患者の手を取った。
柏木は娘の朝顔に水をやった。
美央は、種が割れた小さな白い線を見つめた。
それぞれが感動していた。
それぞれが敗北していた。
だからこそ、まだ歩けた。
白い飛翔体は、世界から消えた。
けれど人間の戦いは終わっていない。
終わらせるために、名を呼ぶ声がある。
帰ってこいと告げる通信がある。
水を探す手がある。
怖いまま立つ足がある。
そして、宇宙の暗がりから、黒い信号が届いている。
それは勝利の報告ではなかった。
敗北の記録でもなかった。
帰還努力を継続するという、人間の返事だった。
第31章「黒い信号」でした。
白色飛翔体は消滅しました。
けれど書きたかったのは、単純な勝利の歓声ではありません。
それぞれが感動し、それぞれが敗北しています。
荻野の「歩け」を抱えて立つ加藤。怖いまま水を飲む奥山。種の殻が割れた朝顔に一滴を落とす美央。帰還途上と書いた白瀬。
そして烈火一号機、真壁遥二佐。
「帰還努力を継続」。
この言葉は、華計画の物語の中でずっと残しておきたかった返事です。
白い飛翔体との戦いは終わりました。
ですが、戦いは終わりません。本当の戦後と、本当の帰還は、ここから始まります。
ここまで第5部を読んでくださりありがとうございました。
彼らが何を失い、何を守り、何を取り戻そうとするのか――続きもまた描いていきます。




