第19章 沈む国
飛翔体も月華もピンポン野郎も出てこない章です。
出てくるのは避難民と、鉄パイプと、紙コップの水と、壊れかけた食堂のカレー。
国が沈む音は、意外と静かです。
国が沈む時、音はしない。
爆発音も、崩落音も、警報もない。
最初に聞こえるのは、誰かが黙る音だ。
言うべきことを言わなくなる。
記録すべきことを記録しなくなる。
助けられるはずの人間を、数字の外へ置く。
沈没は、海から始まるとは限らない。
会議室の長机から始まることもある。
篠籠島からの帰還は、帰還という言葉に値しなかった。
大型輸送機は使えなかった。
篠籠島への降下時に航法系を失い、研究所での核攻撃騒動後、周辺空域は統合作戦本部によって一時封鎖された。公式には、篠籠島上空に「未識別飛行現象」が残留しているためだった。
実際には違う。
月華一号機が核弾頭を不発にした。
その事実を、誰がどの順番で知るかを決めるために、空が閉じられた。
救助のためではない。
情報のためだった。
連華一号機は自力歩行できなかった。
右肩を失い、胸部装甲を裂かれ、脚部杭を折り、B-MAXの過負荷で内部機構の多くを焼き切っていた。加藤一尉は操縦殻の中で意識を保っていたが、保っていただけだった。
搬送箱だけは、離さなかった。
赤い封印帯のついた物理資料。
鉄脚系列設計原本。
連華初期制御図。
月華神経接続ログ。
無人自律重機運用データ。
紙、フィルム、機械式記録ドラム。
電子が死ぬ世界で、最後に残る重さを持った情報。
それを抱えたまま、一号機は研究所ゲート前で膝をついていた。
二号機と三号機は、損傷した一号機を引きずるようにして山道を下りた。
住民たちは、先に町役場地下へ戻された。
戻されたと言っても、安全な場所などなかった。
町役場地下は、水が漏れ、非常灯が切れ、医薬品も足りない。ただ、地上よりましだった。地上には壊れたピンポン野郎と、燃えた車と、誰かの家だった瓦礫がある。
奥山凪三尉は、二号機の操縦殻で何度も振り返った。
住民が見ている。
老人。
子ども。
煤で顔の黒くなった女性。
白い布を握った男。
彼らは連華を見ていた。
恐怖だけではない。
感謝だけでもない。
もっと嫌なものが混じっている。
あの人たちは知っている。
奥山は思った。
防衛庁が、この島へ核を撃ったことを。
月華がそれを消したことを。
自分たちが助けに来たのか、殺される前の確認に来たのか、誰にも分からないことを。
奥山は送話レバーを押した。
『隊長』
返事は少し遅れた。
『何だ』
『僕ら、助けに来たんですよね』
加藤は答えなかった。
沈黙が返事だった。
奥山は笑おうとして、失敗した。
『そういう時は、はいって言ってくださいよ』
『嘘は嫌いか』
『嫌いです』
『なら、言えない』
奥山は操縦桿を握った。
泣き終わったはずなのに、また目が熱くなった。
助けに来た。
その言葉は、もう簡単に使えない。
人間を守るために町を壊した。
資料を守るために基地へ突入した。
博士を連れて帰るために来たのに、博士は月華と空へ消えた。
そして国は、この島を消そうとした。
奥山は、小さく言った。
『じゃあ、何をしに来たんですか』
加藤の声は、血で湿っていた。
『戻るためだ』
『誰が』
『全員だ』
『戻れてません』
『まだ途中だ』
それは命令ではなかった。
祈りにも似ていた。
奥山は、それ以上何も言えなかった。
防衛庁地下第七区画に戻ったのは、作戦開始から十八時間後だった。
帰還機体は三機。
完全稼働可能機、ゼロ。
連華一号機、大破。
連華二号機、中破。
連華三号機、中破。ただし背部高機動ブーストユニットは全損。
人的損耗。
加藤一尉、重度外傷、B-MAX後遺症疑い、意識混濁。
奥山三尉、急性ストレス反応増悪、軽度外傷、戦闘後震戦。
伊藤二尉、右肩脱臼、肋骨損傷、飛行補助ユニット喪失に伴う機体適応再評価。
荻野誠一博士、確保失敗。
月華一号機、追跡不能。
篠籠島住民、推定生存者三千九百名余。
ただし、島外搬送計画は未定。
未定。
その言葉は、地下第七区画の書類で最も多く使われる言葉になっていた。
烈火の帰還軌道、未確立。
月華一号機の位置、未確認。
篠籠島の防衛網、完全停止未確認。
戦術核発射命令系統、調査中。
発射事実の公表、未定。
荻野博士の扱い、未定。
国民への説明、未定。
人間は、責任を取れない時、未定という言葉を使う。
黒崎司令は、第二作戦室の長机に資料を叩きつけた。
珍しく、音を立てた。
「ふざけるな」
誰も反応しなかった。
反応すれば、怒りが自分にも向く。
そういう沈黙ではなかった。
全員、同じことを思っていた。
だから言葉が出なかった。
統合幕僚監部から届いた暫定報告書には、篠籠島作戦についてこう書かれていた。
研究所封鎖事案に対する特殊部隊投入。
未識別飛行現象の発生。
現地防衛網の一時暴走。
戦術核発射シーケンスについては、誤認情報に基づく自動移行であり、実弾頭の起爆は確認されていない。
月華一号機については、所在不明機体との関連を調査中。
荻野誠一博士については、生死不明。
物理資料については、防衛庁が適切に保全。
篠籠島住民の退避については、天候および通信状況を考慮し段階的に実施。
ほとんど嘘だった。
嘘ではない部分も、嘘のために配置されていた。
黒崎は、机に両手をついた。
「戦術核を撃った」
榊原洋介技官が目を伏せた。
白瀬凛三尉は通信席に座ったまま、唇を噛んでいた。
奥山は医療区画へ送られている。
伊藤も検査中。
加藤は集中治療区画。
連華班の三人はここにいない。
だからこそ、作戦室はより寒かった。
現場にいた人間がいない場所で、現場の意味が書き換えられていく。
黒崎は言った。
「この国は、自国領内の島へ核を撃った。しかも、そこには民間人がいた」
榊原が静かに答えた。
「公式には、発射シーケンスが誤認情報に基づき移行しただけです」
「弾頭は飛んだ」
「公式には、起爆確認なしです」
「月華が不発にしたからだ」
「公式には、月華の存在は確認されていません」
黒崎は榊原を見た。
榊原は、悔しそうに口を結んでいる。
彼は報告書を弁護しているのではない。
報告書がどうやって責任を殺すかを説明している。
白瀬が小さく言った。
「私は、全部聞いていました」
黒崎が振り向く。
白瀬の顔は青白い。
だが、目は逸らさない。
「発射判定。失敗判定。弾道反応。月華の接触。光の球。荻野博士の声。加藤一尉の生体反応。奥山三尉の泣き声。全部、通信ログに残っています」
「ログは」
「保全しました」
榊原が目を上げた。
「消される前に?」
「はい」
白瀬は、手元の金属ケースを見た。
そこには、小さな機械式記録ドラムが入っている。
デジタルログではない。
磁気でもない。
針で刻まれた、音と信号の物理記録。
荻野博士の資料と同じだ。
消しにくいもの。
重いもの。
持ち運ぶには面倒で、隠すにはかさばり、しかし燃やさなければ消えないもの。
白瀬は言った。
「人の名前を呼べ、と博士に言われました」
黒崎はしばらく黙った。
それから、低く言った。
「よくやった」
白瀬は頷かなかった。
褒められても、何も戻らない。
篠籠島に残した人々。
空へ消えた荻野博士。
核を撃った事実。
加藤たちの傷。
どれも戻らない。
ただ、消されずに残るものが一つ増えた。
それだけだった。
加藤は、三日眠った。
正確には、眠らされた。
B-MAX後の神経興奮は危険な水準を超え、鎮静剤を使わなければ、彼の身体は壊れた連華のように自分自身を焼き切るところだった。
医療区画の個室には、窓がない。
加藤は目を覚ました時、最初に自分の手を見た。
右手。
左手。
人間の手。
連華の鉄の手ではない。
指は五本ずつある。
だが、彼はすぐには安心できなかった。
まだ、何かを掴んでいる気がした。
赤い封印帯の搬送箱。
鉄蜘蛛のアーム。
隔壁の手動ハンドル。
B-MAXの黒いレバー。
誰かの帰り道。
全部が、手の中に残っている。
「起きましたか」
三枝真帆二尉がベッドの横にいた。
医療記録を持っている。
目の下に隈がある。
彼女も眠っていない。
「何日だ」
加藤の声はひび割れていた。
「三日です」
「奥山は」
「生きています」
「伊藤は」
「生きています」
「資料は」
「保全済みです」
「荻野は」
三枝は答えなかった。
加藤は天井を見た。
「そうか」
それだけで分かった。
三枝は椅子へ座った。
「あなたは、B-MAX使用後に戦闘行動を継続しました。機体損耗は限界を超えています。脳波異常、過覚醒、記憶断片化、攻撃衝動の再燃。記録上は、重度の危険兆候です」
「記録上は」
「ええ。記録上は」
「実際には」
三枝は、加藤の顔を見た。
「あなたは、壊すべきでないものを壊しませんでした」
加藤は目を閉じた。
その言葉は、慰めのように聞こえた。
慰めは嫌いだ。
だが、今は少しだけ必要だった。
「奥山は」
「あなたが起きたら会うと言っています」
「状態は」
三枝は言いにくそうに記録を見た。
「泣いています」
「そうか」
「戦闘後、断続的に泣いています。食事は取れています。睡眠は浅い。敵機の赤い単眼を見る幻視を訴えています。ただ、自分で怖いと言えています」
「いい」
「良くはありません」
「分かってる」
三枝はため息をついた。
「あなたたちの部隊では、良くないものを、まだ戻れるという言い方で呼ぶのですね」
「そうしないと、やっていけない」
「それで、やっていけていますか」
加藤は答えなかった。
やっていけているなら、国は自分の島へ核を撃たない。
やっていけているなら、荻野は月華と空へ消えない。
やっていけているなら、奥山は壊れない。
だが、やっていけていないからといって、止まることもできない。
加藤は起き上がろうとした。
三枝が止める。
「まだ無理です」
「命令は」
「あなたには休養命令が出ています」
「俺への命令じゃない。部隊への命令だ」
三枝は黙った。
その沈黙で、加藤は分かった。
「何が起きてる」
三枝は記録紙を閉じた。
「国が、沈んでいます」
加藤は毛布を押しのけた。
足が重い。
腕はまだ動く。
三枝が手を出したが、首を振った。
「十五分で戻る」
「十分です」
「十五分だ」
三枝は何も言わなかった。
廊下に出る。
蛍光灯が三本に一本の割合で消えている。
節電だ。
壁掛けのモニターが一台、音を消したまま光っていた。
群衆の映像。
燃える建物。
粒の粗い銀白色の機体。
月華の映像が、外に出ていた。
加藤は立ち止まらなかった。
廊下の先で、補給担当の二人がすれ違った。
「北部の鉄道、止まったらしい」
「食料倉庫も一つ焼けたって」
会話は加藤に向けられたものではない。
だが聞こえた。
作戦室の手前で、白瀬の声が漏れた。
扉の隙間から。
「欧州共同防衛機構より、月華の国際管理要求。再送です」
「北米連合太平洋艦隊、補給船団が二日前倒しで西進中」
白瀬は淡々と受信内容を読み上げている。
外の世界が、通信回線を通じて地下へ流れ込んでいる。
加藤は作戦室に入らず、食堂へ向かった。
国が沈む音は、廊下にも染みていた。
奥山は、地下第七区画の食堂でカレーを見ていた。
食べてはいない。
見ている。
食堂のテレビは消されていた。
誰かが消した。
つけると、外の世界が入ってくるからだ。
外の世界は、もう普通のニュースではない。
避難民。
暴動。
燃料不足。
海外艦隊の接近。
月華映像。
篠籠島核攻撃疑惑。
どれも同じ顔をしている。
助けてくれ。
信じられない。
誰かを罰しろ。
奥山は、スプーンを持っていた。
手が震える。
カレーの表面に、赤い単眼が浮かんで見えた。
瞬きをすると消える。
また見る。
また浮かぶ。
奥山はスプーンを置いた。
「食べないのか」
伊藤が向かいに座った。
右肩を固定している。
顔色は悪いが、姿勢は崩れない。
そういうところが嫌だ、と奥山は思った。
「食べようとはしています」
「行為としては、皿を眺めているだけに見える」
「観察です」
「カレーを?」
「敵かもしれないので」
伊藤は少し黙った。
冗談だと分かっている。
だが、冗談だけではないことも分かっている。
「赤い単眼か」
奥山は目を伏せた。
「見えます」
「消えるか」
「瞬きすると」
「なら、まだ映像だ」
「映像じゃなくなったら?」
「医官に言え」
「伊藤二尉は、優しいのか冷たいのか分かりません」
「両方では」
奥山は少し笑った。
笑える。
そのことに驚いた。
笑えるなら、壊れた全部ではない。
そう思おうとして、やめた。
無理に安心すると、怖さを見失う。
「月華、どこに行ったんでしょうね」
奥山が言った。
伊藤は食堂の天井を見た。
空は見えない。
地下だから当然だ。
「空でしょう」
「答えになってません」
「月華に関しては、答えになってしまう」
「荻野博士、生きてますかね」
伊藤は、すぐには答えなかった。
「生きていたらまた会おう、と言った」
「はい」
「つまり、本人にも分からない」
「ひどいですね」
「博士はいつもひどい」
奥山はカレーを一口食べた。
味は薄い。
食堂のせいではない。
自分の舌が遠い。
「伊藤二尉」
「何だ」
「僕ら、次は何を守るんですか」
伊藤は、今度もすぐには答えなかった。
食堂の蛍光灯が、低く唸っている。
遠くで、誰かが工具を落とした音がした。
「命令書に書いてあるものを」
「それ、隊長みたいです」
「あの人なら、命令書に書いていないものも守ろうとする」
「無茶ですね」
「だから今、寝台に縛られている」
奥山はまた少し笑った。
笑った後、顔を伏せた。
「僕、怖いです」
「知っている」
「国が沈むって、こういう感じなんですか」
伊藤は、食堂の消えたテレビを見た。
「もっと静かだと思っていました」
「今も静かですよ」
奥山は言った。
「ここ、地下だから」
伊藤は頷いた。
「そうだな」
加藤が作戦室へ戻ったのは、医官の許可が出る前だった。
当然、三枝に怒られた。
だが、三枝は止めきれなかった。
止めるには、今の国は壊れすぎていた。
加藤は左腕を吊り、額に包帯を巻いたまま、第二作戦室の扉を開けた。
黒崎が顔を上げる。
「誰が許可した」
「俺です」
「お前に許可権はない」
「現場ではよくあることです」
黒崎は文句を言おうとして、やめた。
加藤の顔が、あまりにも悪かった。
生きているだけで努力が必要な顔だった。
それでも、目は動いている。
見ている。
逃げていない。
黒崎は資料を渡した。
「新しい命令だ」
加藤は受け取った。
紙が重い。
紙だから重いのではない。
そこに書かれている人間の数が重い。
首都圏外縁、東部補給集積地。
食糧および医薬品輸送部隊が、避難民群衆および武装化した自治組織により足止め。
現地警備部隊は対応不能。
第1特務機械化隊に対し、輸送路確保および補給物資防護を命ずる。
交戦規定。
民間人への発砲禁止。
武装勢力への発砲は最小限。
補給物資の損失防止を優先。
加藤は、その最後の一文を見た。
補給物資の損失防止を優先。
「人命ではなく」
黒崎は答えなかった。
加藤は紙を置いた。
「連華は動けない」
「一号機は出せない。二号機と三号機を応急修理中だ」
「奥山と伊藤を出す気か」
「命令上は」
「命令上じゃなくて」
黒崎は加藤を見た。
篠籠島へ向かう前に奥山が言った言葉と同じだ。
命令上じゃなくて。
人間として、どうするのか。
黒崎は疲れた声で言った。
「出さなければ、東部補給集積地の物資が失われる。首都圏避難所三十七か所の食糧が、四十八時間で切れる」
「出せば」
「避難民相手に連華を立たせることになる」
沈黙。
飛翔体ではない。
ピンポン野郎でもない。
鉄蜘蛛でもない。
相手は人間だ。
飢えた人間。
薬を求める人間。
家族を守るために倉庫へ押し寄せる人間。
その前に、連華を立たせる。
人類を救うための鉄の足を、人類へ向ける。
加藤は、かすかに笑った。
楽しいからではない。
笑わなければ、怒鳴るからだ。
「国は沈んでるな」
黒崎は言った。
「ああ」
「俺たちは、何を守る」
「分からん」
黒崎がそう言うのは、初めてだった。
加藤はその顔を見た。
司令官も、分からない。
それでも命令は来る。
分からないまま、動くしかない。
加藤は命令書を折りたたんだ。
「奥山と伊藤には、俺から話す」
「お前は出撃できない」
「知ってる」
「なら」
「隊長がベッドで寝ている間に、部下だけ人間相手へ出すのか」
黒崎は口を閉じた。
加藤は、痛む身体で椅子に座った。
座るだけで、息が乱れた。
それでも彼は命令書を握っている。
「俺は出られない。だが、命令の重さくらいは一緒に持つ」
黒崎は小さく頷いた。
それは上官の承認ではなく、友人の沈黙だった。
東部補給集積地へ向かう道路は、地図上では一本の線だった。
現実には、人間の列だった。
トラック。
乗用車。
バス。
自転車。
リヤカー。
歩く人。
歩けない人を背負う人。
国道の両側には、避難民が座り込んでいる。
携帯電話は通じない。
電光掲示板は消えている。
ガソリンスタンドは空になり、コンビニの棚は剥ぎ取られ、病院の救急入口には毛布をかぶった人が並んでいる。
誰も、白い飛翔体を見ていない。
それでも皆、白い飛翔体のせいでここにいる。
連華二号機と三号機は、応急修理を終えたばかりだった。
二号機の左膝には仮固定具。
三号機の背中には、ブースターの代わりに通信中継用の簡易マスト。
どちらも万全ではない。
万全ではない機体で、万全ではない人間が、万全ではない国の命令を受けている。
操縦殻に入る直前、奥山の手が止まった。
「乗りたくない」
声に出ていた。自分でも驚いた。
加藤は何も言わなかった。三枝が「記録します」とだけ答えた。
翌朝、奥山は自分で操縦殻のハッチを開けた。誰にも促されずに。足が震えていたことを、三枝だけが知っている。
奥山は、二号機の操縦殻で群衆を見た。
人。
人。
人。
敵ではない。
だが、止めなければならない。
守るべき物資を奪おうとしているから。
その物資がなければ、別の避難所の子どもが死ぬから。
ここで止めれば、目の前の子どもが泣くから。
どちらも正しい。
だから苦しい。
『奥山』
加藤の声が通信に入った。
彼は出撃していない。
地下第七区画の作戦室から、回線だけで同行している。
『怖いか』
奥山は前を見た。
群衆の先頭に、若い男がいる。
手に鉄パイプを持っている。
その後ろに、子どもを抱いた女性がいる。
さらに後ろに、包帯を巻いた老人がいる。
奥山は答えた。
『怖いです』
『何が』
『撃たれることじゃありません』
『そうか』
『踏むことです』
加藤は少し黙った。
『なら、踏むな』
『簡単に言いますね』
『難しいから言う』
奥山は息を吐いた。
荻野博士と同じ言い方だった。
嫌になる。
大人たちは、難しいことを簡単な言葉にして、若い人間へ渡す。
渡された方は、それを抱えて歩くしかない。
伊藤の声が入る。
『群衆前方、武装十数名。火器は散弾銃、小銃、火炎瓶。後続は民間人多数。こちらから威嚇すれば、圧死が起きます』
『代案は』
『ありません』
『正直で助かる』
加藤は言った。
奥山は、二号機の外部スピーカーを開いた。
声が震えたらどうしようと思った。
震えた。
だが、それでいいと思った。
『こちら防衛庁第1特務機械化隊です。補給物資は、首都圏避難所への配給品です。奪取行為は、別の避難民の命を奪います。後退してください。負傷者、乳幼児、高齢者については、優先医療支援の列を作ります』
群衆は止まらない。
先頭の男が叫んだ。
「嘘つくな! 政府は篠籠島に核を撃った! 俺たちにも撃つんだろ!」
奥山の喉が詰まった。
その叫びは、間違っていない。
だから返しようがない。
別の声が上がる。
「月華を出せ! 核を消せるなら、食い物も出せるだろ!」
「連華をどけろ!」
「倉庫を開けろ!」
「子どもが熱を出してるんだ!」
「薬をよこせ!」
声が重なる。
怒りは波になる。
恐怖は、波より速く伝わる。
群衆が押し出す。
前の人間は止まりたくても止まれない。
後ろの人間は前が見えない。
奥山は、二号機を一歩下げた。
下がれば、倉庫の門が近くなる。
下がらなければ、人を踏む。
その時、火炎瓶が飛んだ。
二号機の胸部装甲に当たり、炎が広がる。
熱はない。
連華の装甲には効かない。
だが、奥山は反射で腕を上げそうになった。
腕を振れば、人が吹き飛ぶ。
奥山は、自分の腕を止めた。
止めた。
それだけで、全身が震えた。
『奥山』
加藤の声。
『はい』
『よく止めた』
奥山は泣きそうになった。
その一言だけで、まだ戻れる気がした。
伊藤の三号機が横へ出る。
彼は外部スピーカーを使わなかった。
機体の通信マストを最大まで伸ばし、倉庫側の古い拡声設備へ有線接続する。
周辺の避難所名簿、医療搬送リスト、配給予定表。
それを紙の掲示板へ投影するのではなく、倉庫の壁へ大きく映した。
文字は荒い。
だが読める。
この物資がどこへ行くのか。
誰の薬なのか。
どの避難所に何人いるのか。
数字ではなく、名前がある。
伊藤が言った。
『奪うなら、名前を見てから奪ってください』
群衆の波が、少しだけ鈍った。
全員ではない。
怒りは消えない。
飢えも消えない。
だが、名前は人間を少しだけ遅くする。
白瀬が地下から通信を繋ぐ。
『現地医療班、三分後到着。負傷者列を右側へ。水の配給は二号機左側で開始できます。奥山三尉、二号機の予備冷却水を一部放出可能』
『機体、大丈夫ですか』
『大丈夫じゃないけど、人間よりまし』
『了解』
奥山は、二号機の予備冷却水バルブを開いた。
透明な水が、道路脇の臨時タンクへ流れる。
人々が殺到しかける。
奥山はスピーカーで叫んだ。
『押さないでください! 押したら前の人が倒れます! 水は出ます! 今、出てます! だから押さないで!』
声は震えていた。
だが、届いた。
先頭の女性が、後ろへ向かって叫ぶ。
「押すな! 子どもがいる!」
別の男が、鉄パイプを下ろした。
全員が下ろしたわけではない。
それでも、いくつかの腕が下がった。
国が沈む時、音はしない。
だが、沈みかけたものを一瞬だけ支える時にも、大きな音はしない。
誰かが押すのをやめる。
誰かが水を分ける。
誰かが名前を見る。
その小さな動きだけが、国という巨大なものの最後の浮力になる。
加藤は、地下の作戦室で目を閉じた。
命令書には、補給物資の損失防止を優先と書いてあった。
奥山と伊藤は、それ以上のものを守った。
人が人を踏まない時間。
名前が数字に潰されない時間。
それは勝利ではない。
たった数時間の猶予だ。
それでも、今の国には猶予が必要だった。
その夜、黒崎が言った。
「非常事態宣言が出た」
加藤は作戦室の隅で、東部補給集積地から戻った奥山と伊藤の報告を聞いていた。
奥山の顔は疲れ切っている。
だが、目はまだ動いている。
伊藤は右肩を固定したまま、壁にもたれず立っている。
白瀬は通信席で、次の回線を繋いでいる。
黒崎は表示盤の前に立つ。
表示盤には、日本列島が映っていた。
伊藤が呟いた。
「赤い点が増えていますね」
「外からも来ている」
黒崎の声は平坦だった。
暴動。
輸送路封鎖。
避難民集結。
海外艦隊接近。
赤い点は、列島の輪郭を少しずつ塗り潰していく。
「次の命令が来る」
誰も驚かなかった。
命令は来る。
国が沈んでも、命令は来る。
むしろ、沈むほど命令は増える。
加藤は、包帯の巻かれた手を見た。
人間の手。
鉄の手ではない。
だが、もうどちらでも同じ気がした。
守るために掴み、掴むために壊し、壊したものの上に次の命令が来る。
自分たちは何を守っているのか。
国か。
人か。
資料か。
月華か。
飛翔体に抗う未来か。
そのどれも、答えとしては足りない。
加藤は、奥山を見た。
奥山は、震える手で紙コップの水を飲んでいる。
伊藤は、消えた月華の方角が見えない地下で、それでも天井を見ている。
白瀬は、誰かの名前を呼び続けている。
黒崎は、分からないまま命令を受け取る準備をしている。
加藤は思った。
守るものが分からないなら、せめて失いたくないものを見ろ。
奥山。
伊藤。
白瀬。
黒崎。
篠籠島の住民。
東部補給集積地で水を待っていた子ども。
空へ消えた荻野。
宇宙でまだ帰れない烈火。
名前を並べる。
数字にしない。
それが、沈む国の中でできる最後の抵抗かもしれなかった。
通信卓のランプが点いた。
白瀬が応答する。
顔色が変わった。
「司令」
黒崎が振り向く。
「北東沿岸、避難船団が攻撃を受けています。識別不明の武装勢力。護衛部隊、壊滅寸前。民間船多数。救援要請です」
奥山の紙コップが、少し潰れた。
伊藤が目を閉じる。
加藤は立ち上がろうとして、膝が震えた。
それでも立つ。
黒崎は、ほんの一瞬だけ目を伏せた。
そして言った。
「第1特務機械化隊、出撃準備」
国は沈んでいる。
それでも、沈む国の中には人がいる。
加藤は命令を聞きながら、奥山と伊藤を見た。
もう、何を守るのか分からない。
だが、誰を見捨てたくないのかは分かる。
それだけを頼りに、彼らはまた歩き出す。
鉄の足で。
沈む国の底を踏みながら。
お読みいただきありがとうございます。
第19章「沈む国」でした。
篠籠島で起きた核攻撃と月華の出現は、隠しきれない火種となり、日本だけでなく世界中の疑心を広げていきます。
奥山と伊藤は、今度は敵ではなく避難民の前に連華を立たせられます。撃つことより、踏まないことの方が怖い。この章では、そういう戦いを描きました。
次章では、沈み始めた国の中で連華班がさらに追い込まれ、人類最後の切り札たちが大きく傷ついていきます。




