第1部 : 謎、呼びかけ、そして私を眠りに誘った声
家までの道のりは、思ったより早く過ぎ去った。
たぶん、私の心はまだどこか別の場所にあったからだろう。
川。
遊び場。
夕日。
アイ。
夕食を済ませ、シャワーを浴びて、ようやくベッドに倒れ込んだ頃には、時計の針はすでに真夜中を回ろうとしていた。
「……なんて一日だったんだ。」
私は深く息を吐き出し、天井をじっと見つめた。
部屋は静まり返っていた。
聞こえるのは、時計の静かなカチカチという音と、時折外を通り過ぎる車の音だけだった。
体は疲れていた。
でも不思議なことに――
それは不快な疲れではなかった。
「……」
思わず小さな笑いが漏れた。
「……彼女は本当に、相変わらずだな。」
目を閉じると、まるでまた彼女の姿が見えるようだった。
滑り台で笑っている姿。
私を「臆病者」と呼ぶ姿。
雲について議論する姿。
ためらいひとつなく私の腕にしがみつく姿。
久しぶりに――
過去を思い返すことが、苦痛ではなかった。
ただ……温かく感じられた。
私はゆっくりと息を吐いた。
すると――
見慣れた青い光が、突然、暗い部屋を照らし出した。
私は目を丸くした。
「……え?」
青い画面が、無言で私の目の前に浮かんでいた。
しばらくの間、私はただそれを見つめていた。
そして、ため息をついた。
「……ああ、そうだった」
システムだ。
すっかり忘れていた。
私の顔に苦い笑みが浮かんだ。
「……どうやらクエストをクリアしたみたいだ」
正直なところ、今日起きた一連の出来事のあとで、再びシステムを目にするのは、どこか違和感を覚えるほどだった。
まるで、心地よい夢から覚めて現実に引き戻されたような気分だ。
見慣れたウィンドウがちらついた。
クエスト完了
✓ 大切な人と時間を過ごす。
✓ 大切な思い出を振り返る。
✓ 新しい幸せな思い出を作る。
獲得した報酬
親密度ポイント +100
隠された条件が進展
「……隠された条件?」
私は眉をひそめた。
さらに考えを巡らせる間もなく、別の何かが私の注意を引いた。
「……待てよ。」
私は少し体を起こした。
目を細めた。
「……おかしいな。」
部屋は静まり返った。
私は再びクエストウィンドウをじっと見つめた。
それから天井を。
そしてまたウィンドウを。
「……」
普段なら、システムが黙り込むことなどない。
クエストの進行状況が変われば、必ず通知してくれる。
目標を達成するたびに。
何か重要なことが起きるたびに。
必ず表示される。
必ず割り込んでくる。
常に私の生活にその存在を押し付けてくる。
だが今日……
何もなかった。
一度も。
通知もなかった。
進行状況の更新もなかった。
突然のポップアップもなかった。
会話の最中に現れるうっとうしいメッセージもなかった。
何もなかった。
「……」
私はゆっくりと眉をひそめた。
よく考えてみれば――
私は単にシステムを無視していたわけではなかった。
その存在自体を忘れていたのだ。
完全に。
何時間も。
そして、システムはそれを許していた。
背筋に奇妙な感覚が走った。
だって、それは普通じゃない。
システムがこれほど静かだったことは、今まで一度もなかった。
一度も。
「……なぜ?」
青い画面は動かないままだった。
静寂。
なぜか――
その静寂は、これまでのどんな通知よりもはるかに不気味に感じられた。
私は青い画面をじっと見つめ続けた。
考えれば考えるほど――
その感覚は奇妙に思えてきた。
「……」
今日が初めてのことではなかった。
ただ、実際にそれに気づいたのは今回が初めてだったのだ。
システムは……
特定の瞬間を邪魔しなかった。
私はゆっくりと体を起こした。
「……違う。」
「特定の瞬間」ではない。
ある種の瞬間だ。
意味のある瞬間。
重要な会話。
感情的な会話。
親密な瞬間。
中断されたら雰囲気が完全に台無しになってしまうような時。
私は眉をひそめた。
考えてみれば――
このシステムは、母との会話を一度も遮ったことがなかった。
ひかりとの会話も。
誰かが重要なことを話している時、一度も遮ったことがなかった。
「……」
それは普通ではない。
機械がタイミングを気にするはずがない。
理想的なシステムなら、条件が満たされた瞬間にただ通知するだけだ。
冷淡で。
効率的で。
機械的で。
だが、このシステムはそうではなかった。
待っていた。
まるで……
理解しているかのように。
背筋に小さな寒気が走った。
「……まさか」
私は浮遊する画面に再び目を向けた。
すると、別の考えが浮かんだ。
このシステムは、深夜には決して現れない。
早朝にも。
少なくとも――
私の記憶にある限りは。
私は、このシステムとのこれまでのやり取りをすべて思い返してみた。
システムは、私が寝る前に必ず姿を消していた。
そして、私を起こしたことは一度もなかった。
一度も。
通知も。
メッセージも。
何もない。
まるで……
システムも眠っているかのようだった。
「……」
私はすぐに首を横に振った。
「馬鹿げている。」
だが、その考えは止まらなかった。
デイリークエスト。
普通のシステムなら、決まった時間にそれを発行するはずだ。
毎日。
欠かさず。
しかし、このシステムはそうではなかった。
時には目が覚めた瞬間にクエストが現れることもあった。
時には歯を磨いている最中に。
時には学校へ向かう途中で。
時には学校に着いてから、ということもあった。
決まったパターンなどなかった。
スケジュールもなかった。
論理もなかった。
まるで自動化されたプログラムというよりは――
誰かが意図的に与えるタイミングを決めているかのようだった。
「……」
突然、部屋がずっと寒く感じられた。
というのも、それらの観察結果をすべてつなぎ合わせると――
たどり着いた結論は、とんでもないものだったからだ。
まったくもってとんでもない。
それでも――
それを無視することはできなかった。
私はゆっくりと青い画面を見つめた。
「……このシステムは……」
一瞬の沈黙。
「……人間みたいだ。」
画面は沈黙したままだった。
返事はなかった。
そしてなぜか――
その沈黙が、さらに私を恐怖に陥れた。
「……」
所有者。
私はそのことを、ほとんど忘れていた。
いや。
もしかすると、わざとそのことを考えないようにしていたのかもしれない。
なぜなら、このシステムを取り巻くあらゆる謎は、結局のところ、同じ場所へとたどり着くからだ。
所有者。
誰が私にこのシステムを与えたのか?
誰が私を見守っていたのか?
誰がこれらのクエストを決めていたのか?
誰が報酬を決めていたのか?
誰が――
あるいは、もっと重要なこととして――
彼らは一体何者なのか?
「……」
私はゆっくりと拳を握りしめた。
「すべてがつながっている。」
このシステム。
奇妙なタイミング。
不自然な振る舞い。
隠された条件。
すべてが。
すべては所有者にたどり着いた。
「……お前は何者だ?」
沈黙。
答えはない。
私は眉をひそめた。
「……お前、一体何者なんだ?」
その言葉が口をついた瞬間――
頭の中で鋭い痛みが爆発した。
「……グッ――!」
私はすぐに頭を抱えた。
激しい刺すような痛みが頭蓋骨を貫いた。
まるで無数の針が、脳に直接打ち込まれているかのようだった。
「な、何だこれは――?!」
視界がぼやけた。
部屋が激しく回転した。
青い画面が歪んだ。
壁がねじれた。
ほんの一瞬――
何かが聞こえたような気がした。
声。
いや。
声たち。
無数の声。
ささやき声。
「……あ……」
「……やめて……」
「……まだ……」
「……思い出さないで……」
「……」
「グッ……!」
ベッドから転げ落ちそうになった。
呼吸が荒くなった。
心臓が胸の中で激しく鼓動した。
「な…に…起きている…んだ…?」
痛みはますます強くなるばかりだった。
まるで――
頭の中の何かが、その考えを拒絶しているかのようだった。
まるで、私が知ってはいけないかのように。
まるで、私が問うてはいけないかのように。
すると突然――
ブザーッ。
スマホが振動した。
その瞬間――
痛みは消え去った。
完全に。
「……!」
部屋は元の状態に戻った。
めまいも止まった。
ささやき声も消えた。
私は息を切らして息を吸い込んだ。
「……ハァ……ハァ……」
額には汗がにじんでいた。
ベッドから転げ落ちそうになった。
震える手で、かろうじてマットレスの端をつかんだ。
「……何……?」
呼吸はまだ乱れていた。
数秒間、私はただ虚ろに前を見つめるしかなかった。
すると――
ブザー。
スマホがまた振動した。
まだ息を切らしたまま、私はゆっくりとスマホの画面に視線を向けた。
[着信 — 白崎葵]
「……白崎さん?」
なぜか――
彼女の名前を見ただけで、妙に安堵した。
「……はあ……」
私は額に手を当てた。
痛みはほぼ完全に消えていた。
だが、心臓はまだ激しく鼓動していた。
「……さっきのは一体何だったんだ……?」
どう考えても、あれは普通のことではなかった。
持ち主のことを考え始めた瞬間――
あの痛みが現れた。
そして、あの声たち……
「……」
背筋が凍るような感覚が走った。
だが、それ以上考える間もなく、スマホが再び振動した。
画面を見た。
[着信 — 白崎葵]
まばたきをした。
時計に目をやった。
午後11時53分
「……まだ起きてるのか?」
なぜか、その考えだけで少し落ち着きを取り戻した。
深呼吸をした。
そして電話に出た。
シロサキの視点:
私はスマホをじっと見つめた。
もう一度。
そしてまた。
さらにまた。
通話。
キャンセル。
電話。
キャンセル。
「……私、一体何をしているんだろう?」
私は顔を枕に埋めた。
この動作を、もう3分近く繰り返していた。
普段なら、ただメッセージを送るだけなのに。
それなのに、なぜこんなに躊躇しているのだろう?
「……」
実のところ、今日の午前の電話以来、頭から離れなかったのだ。
高橋くんのことを。
彼が午後をアイリと過ごしたことについて。
無事に家に着いたかどうかについて。
まだ彼女と一緒にいるかどうかについて。
それについて――
「いや。」
私は首を横に振った。
「変なこと考えちゃダメ。」
枕をさらに強く抱きしめた。
そして、また勇気を失ってしまう前に、通話ボタンを押した。
電話が鳴った。
一度。
二度。
三度。
出ないんじゃないかと思い始めたその時――
「……もしもし?」
彼の声を聞いた瞬間、肩の力が抜けた。
「高橋くん。」
「……白崎さん。」
「……起こしちゃった?」
「ううん。まだ起きてたよ。」
「……そうか。」
よかった。
なぜか、そう聞いてほっとした。
「……こんな遅くに電話してごめん。」
「いいよ。」
「何かあったの?」
「……え?」
「普段、こんな遅くに電話してこないのに。」
「……」
私は固まった。
彼の言う通りだったから。
普段なら、メッセージを送っていたはずだ。
それなのに、なぜ電話してしまったのだろう?
心配だったから?
うーん……そうね。
でも、それだけじゃなかった。
彼の声を聞きたかった。
そのことに気づいて、顔が熱くなった。
自分を止める間もなく――
「……ただ、あなたの声を聞きたかっただけ。」
沈黙。
「……え?」
私は目を見開いた。
「……」
「……え?」
今、何て言っちゃった?
「待、待って!」
「そ、それは言い間違えた!」
私はすぐに顔を枕に埋めた。
「あ、あの……」
「何か聞きたかったの!」
向こう側から、彼が小さく笑うのが聞こえた。
「……笑わないで。」
「笑ってないよ。」
「笑ってる。」
「ちょっとだけかな。」
「……もう……」
恥ずかしかったけれど――
笑みが止まらなかった。
「……高橋くん?」
「……ん?」
「……疲れてるみたい。」
一瞬、電話の向こうが静まり返った。
それから――
「……ちょっと頭が痛い。」
私はすぐに背筋を伸ばした。
「……え?」
膝の上の枕が滑り落ちた。
「頭が痛い?」
「……ちょっと。」
「いつから?」
「……さっきから。」
私は眉をひそめた。
「さっきから?」
「……うん。」
何かがおかしい。
私が知っている高橋くんは、実際に気にならない限り、そんなことを口にするタイプではない。
「……どのくらい?」
「……」
沈黙。
長すぎる。
「……高橋くん?」
「……結構ひどかった。」
私は電話を握る手を強く握りしめた。
「……だったの?」
「……もう治まった。」
「……治まった?」
「……うん。」
「……」
全然安心できない。
「熱はある?」
「ない。」
「めまい?」
「……もうない。」
「……もうない?」
どうして彼の答えを聞くたびに、どんどん不安になっていくんだろう?
「……高橋くん。」
「……何?」
「……ちゃんと説明して。」
彼は小さくため息をついた。
「……急に頭が痛くなって。」
「……すごく痛かった。」
「……でも、今は大丈夫。」
「……」
違う。
それ、絶対に大丈夫じゃない。
私は枕をぎゅっと抱きしめた。
「……またそんなことがあったら、病院に行ったほうがいいよ。」
「……それはちょっと大げさじゃない?」
「大げさじゃないよ。」
「……」
「本当にそうよ。」
一瞬、沈黙が流れた。
それから――
「……ありがとう。」
なぜか、彼に「ありがとう」と言われただけで、胸がほっこりとした。
「……どういたしまして。」
その後の沈黙は気まずくなかった。
心地よかった。
不思議なほど心地よかった。
「……それで。」
「…… ..ん?」
「……アイリと過ごした一日はどうだった?」
その質問は、私が止める間もなく口をついて出てしまった。
「話したよ。」
「あちこち行った。」
「遊び場で遊んだ。」
私はまばたきをした。
「……遊び場?」
「……長くなるよ。」
私の顔に小さな笑みが浮かんだ。
「……そうか。」
なぜか――
その光景が目に浮かんだ。
高橋くんとアイリ。
一緒に笑っている。
また新しい思い出を作っている。
そして不思議なことに――
居心地の悪さを感じるどころか――
ほっとした気分になった。
「……よかった。」
「……ん?」
「……楽しかったんだね。」
少しの間が空いた。
「……わかったの?」
「……ちょっとね。」
「……すごい。」
「……私は観察力が鋭いの。」
「……怖い。」
「……失礼。」
私は微笑んだ。
そして気づく間もなく――
今夜ずっとよりもずっと自然に、私は笑っていた。
ベッドサイドテーブルの時計に目をやった。
午前0時17分
「……」
待って。
もう一度確認した。
「……」
もう真夜中を過ぎていた。
「……高橋くん。」
「……ん?」
「……今何時か分かる?」
短い沈黙。
「……遅い?」
「……すごく遅い。」
「…… 「あ。」
「……『あ』?」
「……時間を忘れてたかも。」
「……間違いなく時間を忘れてたね。」
正直、私もそうだった。
二人とも気づいていなかった。
会話はただ……続いていただけだった。
「……寝たほうがいいよ。」
「……眠くない。」
「……嘘ついている。」
「……嘘じゃない。」
「……嘘だよ。」
「……」
「……」
「……ちょっとだけかな。」
私は微笑んだ。
「……寝なさい。」
「……まるで母さんのようだ。」
「……よかった。」
「……それは褒め言葉じゃないよ。」
「……褒めるつもりはなかったから。」
彼が小さく笑うのが聞こえた。
一瞬の沈黙が流れた。
「……でも、本当に眠くないんだ。」
私は腕に抱えた枕をぎゅっと握りしめた。
「……それはまた考えすぎてるからだよ。」
「……そんなことない。」
「……あるよ。」
「……」
「……すぐに否定もしなかったじゃないか。」
「……」
「……ほらね?」
思わず小さな笑いが漏れた。
そして、自分が止める間もなく――
「……子守唄を歌ってあげようか?」
沈黙。
完全な沈黙。
「……」
「……」
「……高橋くん?」
返事がない。
「……電話、切れた?」
「い、いいえ!」
彼の声がスピーカーから爆発するように響いた。
スマホを落としそうになった。
「い、いいえ、切れてない!」
「……」
「……」
「……」
私の顔がじわじわと熱を帯びていった。
「……なんで叫んでるの?」
「そ、その――」
彼は突然言葉を止めた。
「……」
「……どうして?」
「……な、何でもない。」
私は顔の半分を枕に埋めた。
「……あなた、変な感じ。」
「誰がおかしいんだ!? 白崎さん、今何て言ったか分かってる!?」
私はまばたきをした。
「……私が何て言ったの?」
「……」
「……」
「……」
「……子守唄。」
「……ああ。」
また沈黙が訪れた。
「……」
「……」
「……」
頬がほてってきた。
「……まあ。」
「……普通のことだよ。」
「……違う!」
「普通だよ。」
「絶対に違う!」
彼には見えないと分かっていながらも、私は少しふくれっ面をした。
「……お母さんに会えなかったから詳しくは分からないけど……あなたも子供の頃、お母さんに寝かしつけの歌を歌ってもらったんじゃない?」
「……それは違う。」
「……どう違うの?」
「……あれは僕がまだ小さかった頃の話だ!」
「……それに、君は怪我してるし。」
「……頭がちょっと痛かっただけ。」
「……まさにそれよ。」
「……そういうことじゃないよ。」
私は枕をぎゅっと抱きしめた。
「……高橋くん。」
「……え、うん?」
「……寝なさい。」
「……眠くないって言っただろ。」
「……嘘ついている。」
「……」
「……絶対に嘘ついている。」
「……」
「……」
「……ちょっとだけかも。」
「……ほらね?」
私は微笑んだ。
「……それで?」
「……それで?」
「……歌ってほしい?」
「……」
「……」
「……」
「……いや。」
「……わかった。」
「……」
「……」
「……ちょっとだけかも。」
思わず笑みがこぼれた。
「……意外と正直だね。」
「全部後悔してる。」
私は小さく笑った。
「……もう手遅れだよ。」
「……白崎さん……」
「……ん?」
「……このこと、誰にも言わないでね。」
「……約束はできないよ。」
「白崎さん!」
私はくすくす笑った。
なぜか――
彼の声は、さっきよりずっと目が覚めているように聞こえた。
「……目を閉じて。」
「……本気で冗談じゃなかったの?」
「……うん。」
「……」
「……」
「……わ、わかった。」
電話の向こうで物音がした。
そして――
「……終わった。」
「……よかった。」
私は小さく息を吸った。
正直なところ――
私も恥ずかしかった。
すごく恥ずかしかった。
彼に歌を歌っているなんて。
真夜中に。
ベッドに横たわりながら。
もし誰かに知られたら、きっと一生立ち直れないだろう。
でも不思議なことに――
その恥ずかしさは、決して不快なものではなかった。
だから、静かに――
ほとんどささやき声のように――
私は歌い始めた。
シンプルな子守唄を。
一曲。
優しく。
優しく。
部屋は暗かった。
月明かりがカーテンの隙間からこぼれ込んでいた。
「月のゆりかご」
ゆらゆら ゆらり
夜の海に 星が落ちて
ひとつ ふたつ 光る夢
やさしい風が 頬をなでて
遠い記憶を 眠らせる
泣かないで もういいよ
月のゆりかご 揺れている
世界の音が 遠くなる
目を閉じれば ほらそこに
誰かの笑顔が 待っている
ねむねむ おやすみ
影も静かに 消えてゆく
ひとりじゃないよ ここにいる
夜空の下で また会える
夢の向こうで 手をつなぐ
おやすみ おやすみ
もう大丈夫
そして数分間――
聞こえるのは私の声だけ……
そして、だんだんと遅くなっていく高橋くんの息遣いだけだった。
「……高橋くん?」
返事はない。
私は少しだけ受話器を下げた。
「……高橋くん?」
相変わらず返事はない。
すると――
かすかで、規則正しい音が聞こえた。
息遣い。
「……」
私はまばたきをした。
「……本当に寝ちゃったんだ。」
思わず、唇に小さな笑みが浮かんだ。
「……バカ。」
顎の下の枕を直した。
そして静かに囁いた――
「……おやすみ、高橋くん。」
彼には聞こえないのに。
なぜか――
そう言うだけで、それでも私は幸せだった。
視線がゆっくりと天井へと向かった。
そして――
彼女のことが頭に浮かんだ。
アイリ。
彼が腕を組んでいた様子。
彼の隣で笑う様子。
彼女が全く躊躇していなかった様子。
まるでそこにいるのが当然であるかのように。
まるでそれが自然なことであるかのように。
「…どうして…」
止める間もなく、その言葉が口をついて出た。
指が枕をぎゅっと握りしめた。
「…どうしてあんなに自然に見えるの…」
一瞬の沈黙。
私は軽く首を振った。
違う。
そうじゃない。
「自然」かどうかじゃない。
それは「時間」の問題だ。
歴史。
私にはない思い出。
私はスマホの画面をじっと見つめた。
彼の名前は、まだそこにあった。
まだつながっている。
まだ――
連絡が取れる。
「……私もここにいるのに……」
私は静かに呟いた。
まるで、今この瞬間でも彼が私の声を聞けるかのように。
まるでそれが意味があるかのように。
胸が締め付けられるようだった。
痛いわけではない。
ただ……満たされている。
満たされすぎている。
それが嫌だった。
それが何なのか、分かっていたから。
ただ、それを名付けたくなかっただけ。
「……不公平だ……」
私は呟いた。
でも、それさえも弱々しく聞こえた。
だって、この状況のどこも不公平なんかじゃなかったから。
彼は何も悪いことをしていない。
アイリも何も悪いことはしていない。
それでも――
私は、入りたいと思っている何かのすぐ外側に、まだ立っているような気がした。
一瞬、目を閉じた。
そして、また目を開けた。
「……高橋くん……」
優しく。
慎重に。
まるで、私の声がまだ彼に届くかどうかを試しているかのように。
もちろん、届かない。
彼は眠っていた。
この瞬間から、完全に消え去っていた。
それでも――
まだ電話を切る気にはなれなかった。
だって、もし切ってしまったら……
それが「最後」のように感じられてしまうから。
あまりにも「最後」すぎる。
だから、私はそのままだった。
沈黙に耳を傾けながら。
もう語らない声を、手放さずに。
「……高橋くん……」
私は再び、そっと彼の名前を呼んだ。
返ってきたのは沈黙だけだった。
当然だ。
彼は眠っていた。
全く気づいていない。
全く手が届かない。
私は視線をスマホの画面へと落とした。
暗闇の中で、彼の連絡先名が微かに光っていた。
そしてその横には――
私自身の姿が映っていた。
小さく。
静かに。
私を見つめ返している。
「……優しすぎる……」
私は囁いた。
指が枕をわずかに強く握りしめた。
怒りからではない。
別の何かから。
もっと重い何かから。
「……遅すぎる……」
一呼吸。
部屋は静まり返っていた。
私の息遣いさえ、彼のそれよりも大きく感じられた。
私の視線は画面から離さなかった。
「……奪い去るのが簡単すぎる……」
今度は――
私の声は震えなかった。
弱まることもなかった。
ただ、落ち着きを取り戻しただけだった。
まるで、私の内側にある何かが、ようやく形を見つけたかのように。
混乱ではない。
盲目的に溢れ出る嫉妬でもない。
理解だ。
はっきりと、静かな気づき。
もし私が何もしなければ……
いつも誰かが、もっと近くに立っている。
いつも先に彼に手を伸ばす。
いつも、彼が無意識のうちに目を向ける相手になる。
私は枕をぎゅっと握りしめた。
…
「…負けたくない。」
その言葉は、さっきよりもさらに静かに口をついた。
まるで、それが私自身の言葉ではないかのように。
私は一瞬、言葉を止めた。
そして、枕をさらに強く握りしめた。
「……負けない……」
息を吐いた。
視線を少し下に向けた。
「……何があっても……」
部屋が急に冷たくなったように感じた。
それとも、今になって気づいただけなのかもしれない。
静寂がさらに長く続いた。
彼はまだ眠っていた。
まだ手の届かない存在。
まだ……今日の思い出の中で、彼女と一緒にいる。
私の指が画面の上に浮かんだ。
通話終了ボタンの上に。
ほんの一瞬だけ。
それから、私は最後にもう一度口を開いた。
とても小さな声で。
まるで自分だけに誓う約束のように。
「…私が勝つ……」
一瞬の沈黙。
私の表情は変わらなかった。
けれど、胸の奥で何かが落ち着きを取り戻した。
穏やかではない。
安らかでもない。
決心したのだ。
「…負けない……」
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