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第3部 : 言わずに残されたこと

私がアイリを連れて行った場所は、特別な場所ではなかった。


少なくとも、一見した限りでは。


長い草の生えた斜面の脇を、川が静かに流れていた。


午後の風が野原を撫でると、緑の波が風景を揺らした。


頭上には果てしなく広がる空。


穏やか。


素朴。


美しい。


アイリは足を止めた。


「……わあ。」


私は微笑んだ。


「……いいよね?」


彼女はゆっくりと辺りを見回した。


川。


草。


見渡す限りの空。


そして、彼女はうなずいた。


「……うん。」


「……本当にきれいね。」


数秒間、私たち二人とも黙っていた。


その沈黙を、風が埋めてくれた。


すると――


「……それでも。」


私は彼女をちらりと見た。


「……ん?」


アイリは腕を組んだ。


「……星ノ宮の方が良かった。」


私は即座にうなずいた。


「……比べ物にならないよ。」


彼女は思わず笑い出した。


「即座に同意するんだ!?」


「もちろん。」


私は川の方を指さした。


「ここの川もいいね。」


それから、野原の方を指さした。


「草もいいね。」


アイリはうなずいた。


「そうね。」


私は続けた。


「でも、星ノ宮には川が三本あったよ。」


「……それに、野原は10倍もあったし。」


「……それに、あの巨大な池も。」


「……それに、古い神社も。」


「……それに、山も。」


「……それに森も。」


「……それに廃屋も。」


アイリはすぐに私を指差した。


「それ、あなたが私たちを迷わせたじゃない。」


「あれは一度きりだよ。」


「三回もよ。」


「細かいこと。」


彼女は笑った。


私も笑った。


その笑い声は風に乗り、遠くへ運ばれていった。


一瞬――


妙に懐かしい気分になった。


まるで時間が全く経っていないかのように。


やがて、私たちは草の生えた斜面に腰を下ろした。


川は午後の日差しにきらめいていた。


アイリは肘をついて体を後ろに傾けた。


「……ねえ。」


「……ん?」


「……昔、あなたって本当にどこへでも走って行っていたよね。」


私はうめき声を上げた。


「……またその話かよ。」


「そうね」


彼女は劇的に指を差した。


「これが10年前だったら、あなたはもう川の真ん中まで入ってるわよ」


「そこまでひどくなかったよ」


「絶対にそうだったわ」


私はため息をついた。


「……そうかもね」


アイリは勝ち誇ったようにニヤリと笑った。


「私の勝ち」


「いつもそう言うね」


「だって、いつも勝ってるから」


私の顔には、笑みが残っていた。


やがて、私たちは二人とも草の生えた斜面に身を預けた。


両腕を横に広げた。


草が手の甲をくすぐった。


頭上には――


果てしなく広がる青い空。


雲がのんびりと流れていく。


しばらくの間――


私たちは二人とも黙っていた。


その沈黙は心地よかった。


それは、長い間知り合ってきた人同士にしか生まれないような静けさだった。


「……ねえ、レン」


「……ん?」


アイリが上を指さした。


「……雲を眺めること、覚えてる?」


私はまばたきをした。


そして笑った。


「……なんてこった」


アイリもすぐに笑った。


「……覚えてたんだね」


「もちろん覚えてるよ。」


「あれ、本当にバカみたいだったね。」


「そんなことないよ。」


「絶対にそうだった。」


僕は彼女の方へ顔を向けた。


「あの雲がドラゴンに見えるって、3時間も僕を説得しようとしてたじゃないか。」


「確かにドラゴンに見えたよ。」


「ジャガイモみたいだったよ。」


「ドラゴンだったんだ。」


「ジャガイモだったよ。」


「ドラゴンだった。」


「ジャガイモだった。」


アイリは頬を膨らませた。


「……あなたって本当に手強いわ。」


「何年も前から知ってるでしょ。」


彼女は私をじっと見つめた。


そして突然、微笑んだ。


「……そうね。」


しばらくの間、私たち二人とも視線をそらさなかった。


それから彼女は静かに空へと視線を戻した。


「……これ、恋しかった。」


その言葉はあまりにも小さくて、聞き逃すところだった。


「……これ?」


彼女はうなずいた。


「空。」


「草。」


「川。」


少しの間が空いた。


「……あなた。」


私は半秒ほど固まった。


アイリはすぐに視線をそらした。


「……そういう意味じゃないよ。」


「……落ち着いて。」


「……何も言ってないよ。」


「……顔が言ってるよ。」


「……顔なんて何もしてないよ。」


「言ってるよ。」


二人は一緒に笑った。


風が野原を吹き抜けた。


どこからか、鳥のさえずりが聞こえた。


ほんの一瞬――


まるで、また星ノ宮に戻ったような気がした。


高校生じゃない。


成績に悩まされることもない。


将来のことを心配することもない。


ただ、草の生えた丘に横たわる二人の子供。


雲を眺めて。


時間を無駄にして。


幸せを感じて。


「……レン。」


「…… ん?」


「……今、カエルを見かけたら、やっぱり追いかける?」


僕はすぐに体を起こした。


「……もちろんさ。」


アイリは声を上げて笑った。


「……ほらね!」


「……何?」


「……相変わらずね。」


僕は彼女をじっと見つめた。


そして、ゆっくりと微笑んだ。


「……たぶんね。」


会話は次第に途切れていった。


話すことが尽きたからではない。


ただ、一秒一秒を言葉で埋める必要がなかったからだ。


最初に背筋を伸ばしたのはアイリだった。


「……ん?」


私は彼女をちらりと見た。


彼女は遠くのどこかを見つめていた。


「……何?」


答えることなく、彼女は突然指をさした。


私は彼女の指先を追った。


川沿いの小道の向こう。


数本の木を過ぎた先。


午後の空の下、小さな遊び場がひっそりと佇んでいた。


滑り台。


シーソー。


ジャングルジム。


ブランコがいくつか。


古びていて。


質素で。


わざわざ探さなければ気づかないような遊び場だった。


「……」


「……」


すると、二人は同時に口を開いた。


「……まさか」


私たちはすぐに顔を見合わせた。


そして笑った。


アイリが先に立ち上がった。


「……レン」


その口調は、もう分かっていた。


「……いや」


「……レン」


「……いや」


「……レン」


「 ..アイ。」


「……やめてよ。」


「……もう5歳じゃないんだから。」


アイリは両手を腰に当てた。


「……10年前だったら、君はもうあの滑り台に乗ってるわよ。」


「……」


「……それに、私を無理やり引きずり込んでるはずよ。」


僕は口を開いた。


そして、それを閉じた。


彼女の言う通りだったからだ。


「……そういうことじゃないよ」


「絶対にそうよ」


彼女は劇的な仕草で遊び場を指さした。


「……昔のレンなら、とっくにレースを挑んできたはずよ」


「……」


「……」


「……まあ、そうかもね」


私はため息をついた。


アイリは勝ち誇ったように微笑んだ。


すると――


まったくの予想外だったのだが――


彼女は突然走り出した。


「……おい。」


「……遅すぎる!」


私は呆然と見つめた。


一瞬、目の前の光景が本当に信じられなかった。


彼女は遊び場に向かってまっすぐ走っていった。


長い黒髪が後ろで揺れている。


笑いながら。


本当に笑っている。


大人ぶろうとしているわけじゃない。


カッコつけようとしているわけでもない。


ただ……


楽しんでいるだけ。


「……」


胸の奥に、何か温かいものが込み上げてきた。


アイリは滑り台にたどり着いた。


振り返った。


そして、まっすぐ私を指差した。


「……レン!」


私はため息をついた。


「……何?」


「……こっちに来て。」


「……なんで?」


「……そう言ってるから。」


「……それじゃ理由にならないよ。」


「……理由だよ。」


「……本当に理由にならないよ。」


「……レン。」


「……」


「……レン。」


「……わかったよ。」


彼女の笑顔がたちまち広がった。


そしてなぜか――


その笑顔を見て――


私も思わず笑みをこぼしてしまった。


それから、私は遊び場に向かって歩き始めた。


アイリはすぐに滑り台のてっぺんに登った。


アイリは笑った。


そして、体を前に突き出した。


「ウオオオオ――!」


彼女は滑り台の最下部まで滑り降りた。


足が地面に触れた瞬間――


彼女は私を見上げた。


「……次はあなたの番よ」


「……いや」


「……臆病者」


「……僕は十六歳だ」


「……臆病者」


「……アイ!」


「……臆病者」


僕は彼女をじっと見つめた。


彼女も僕を見つめ返した。


5秒後――


僕は滑り台の階段を登っていた。


底にたどり着いた頃には――


アイリは、倒れそうになるほど大笑いしていた。


「……本当にやったんだね!」


「……満足した?」


「……すごく。」


残念ながら――


それで終わりではなかった。


数分後――


私たちはシーソーの両端に座っていた。


アイリが地面を蹴った。


私はすぐに空中に浮き上がった。


「……」


「……」


「……なんでこんなことしてるの?」


アイリは真剣そのものの表情だった。


「……科学のためよ。」


「……どんな科学?」


「……わからない。」


「……すごいね。」


シーソーが私たちの体重できしんだ。


前へ、後ろへ。


上へ、下へ。


まるで子供の頃のように。


ほんの一瞬――


どこかで、幼い頃の自分たちが言い争っている声が聞こえてきそうだった。


すると――


アイリが突然、ジャングルジムの方を指さした。


「……次はこれ。」


「……絶対嫌。」


「……次はこれ。」


「……アイリ。」


「……次は私。」


「……楽しすぎじゃない?」


「……その通り。」


数分後――


私はジャングルジムにぶら下がっていた。


「……」


「……」


「……腕が痛い。」


アイリは軽々と次のバーへと飛び移った。


「……弱いな。」


「……明日、身動きもできなくなるだろうって言うくせに」


「……それだけの価値はある」


「……価値なんてない」


「……価値はある」


その直後、彼女はバーから手を滑らせてしまった。


「……」


「……」


「……何も見てないよ」


「……もちろん」


「……何も起きてない。」


「……当然よ。」


アイリは腕を組んだ。


「……よかった。」


私は笑った。


そしてなぜか――


彼女も笑った。


その笑い声は、ほとんど誰もいない校庭に響き渡った。


温かくて。


気楽で。


何も考えずに自然と湧き出るような笑い声。


無理に笑おうとせず。


偽りもなく。


やがて――


私たちのエネルギーも、ついに尽きかけてきた。


太陽はすでに空の低い位置へと沈み始めていた。


黄金色の光が遊び場を染め上げていた。


長い影が地面に伸びていた。


そして、気づく間もなく――


私たちはブランコにたどり着いていた。


最後の目的地。


アイリが先に座った。


鎖が静かにガタガタと音を立てた。


数秒間、彼女はただそこに座っていた。


夕日を眺めながら。


そよ風が彼女の髪をなびかせた。


それから彼女は私を振り返った。


彼女の顔に小さな笑みが浮かんだ。


「……押して。」


私はため息をついた。


「……君って本当に手強いね。」


「……そうかも。」


「……間違いなく。」


彼女は笑った。


そして私はブランコの後ろに回った。


そっと押した。


前へ。


後ろへ。


前へ。


後ろへ。


鎖が静かにきしんだ。


遊び場の向こうの川越しに、夕日が輝いていた。


そしてなぜか――


すべてが穏やかに感じられた。


「……ねえ、レン」


「……ん?」


アイリは空を見上げた。


「……今日は楽しかった」


私の顔に小さな笑みが浮かんだ。


「……うん。」


「そうね。」


ブランコの揺れが少しだけ緩んだ。


「……昔みたいだった。」


私はくすりと笑った。


「……二人とも背が伸びたけど。」


私は笑った。


そして、一瞬後――


彼女も笑った。


その音は風に運ばれていった。


すると、彼女の笑顔が和らいだ。


「……ねえ。」


「……ん?」


「……昔の君が恋しかった。」


ブランコの揺れが緩んだ。


ほんの少しだけ。


しばらく、僕は答えなかった。


その言葉は予想外ではなかった。


正直なところ――


似たようなことは以前にも聞いたことがあった。


先生たちから。


親戚から。


自分自身からも。


でも、アイリから聞くと、何かが違う気がした。


「……うん。」


僕は川の方を見た。


「……僕も、ちょっと彼がいなくて寂しいな。」


アイリはまばたきをした。


「……本当?」


「……時々ね。」


思わず小さな笑いが漏れた。


「……あいつがそばにいてくれたら、もっと楽だったのに。」


ブランコの鎖が静かにガタガタと音を立てた。


「……ねえ……」


「……あの頃……」


「……あなたは、絶対に変わらないと思ってた。」


私は微笑んだ。


「……私もそう思ってたよ。」


「……あなたはいつも笑ってた。」


「……あちこち走り回って。」


「……トラブルに巻き込まれて。」


「……迷子になって。」


「……叱られて。」


「……怪我をして。」


「……わかった、わかった。」


「……わかったよ。」


彼女は笑った。


しかし、その声は次第に小さくなっていった。


「……あのレン、好きだったな。」


短い沈黙が続いた。


すると彼女はすぐに付け加えた――


「……別に、今のレンが嫌いってわけじゃないけど。」


私は彼女を見た。


「……うわっ。」


「……なんて心強い言葉なんだ。」


「……黙って。」


「……すごく説得力があるね。」


「……レン。」


「…… 冗談だよ。」


アイリはため息をついた。


そして再び前を向いた。


「……このレンも悪くないわ。」


「……『悪くない』?」


「……やりすぎよ。」


「……失礼ね。」


「……生きてるんだね。」


「……ありがとう。」


「……どういたしまして。」


ブランコはようやくほぼ止まった。


夕日がすべてをオレンジ色に染めていた。


なぜか――


私たち二人とも、ここを離れたくないようだった。


「……面白いことあるの知ってる?」


アイリが突然尋ねた。


「……何?」


「……子供の頃……」


「……あなたがずっと私のそばにいてくれると思ってた。」


私はまばたきをした。


その言葉は、妙に重く感じられた。


アイリは気まずそうに笑った。


「……変な意味じゃないよ。」


「……ただ……」


「……あなたはいつもそこにいたから。」


すぐそばでは、川が静かに流れ続けていた。


「……なのに、突然いなくなっちゃった。」


彼女の声は、今やずっと柔らかくなっていた。


私は地面を見つめた。


「……ごめん。」


その謝罪の言葉が自然と口をついて出た。


アイリはすぐに首を横に振った。


「……違う。」


「……そういう意味じゃないの。」


「……わかってる。」


私の顔に小さな笑みが浮かんだ。


「……それでも。」


一瞬――


聞こえるのは風の音だけだった。


すると、アイリがゆっくりとブランコから立ち上がった。


私も後を追った。


遊び場は、突然、さっきよりずっと静かに感じられた。


ずっと狭く感じられた。


まるで、私たちがようやく何かの終わりにたどり着いたかのようだった。


アイリが私の方を向いた。


彼女の瞳には、黄金色の夕日が映っていた。


「……レン。」


「……うん?」


彼女はためらった。


ほんの一瞬だけ。


そして、一歩近づいてきた。


「……今日……」


「……今日……」


僕は微笑んだ。


「……僕も。」


また一歩。


もっと近くへ。


なぜか――


僕の鼓動は変わらなかった。


たぶん、それがアイリだったから。


たぶん、彼女がずっとアイリだったから。


僕の恥ずかしいところすべてを知っている幼なじみ。


数え切れないほどの思い出を共有してきた女の子。


いつもそばにいてくれた人。


アイリは一瞬、うつむいた。


そしてまた私を見つめた。


「……レン。」


「……ん?」


彼女は手を伸ばした。


そしてそっと私の手を握った。


私は少し目を見開いた。


「……アイ?」


彼女の握りが強まった。


ほんの少しだけ。


風が彼女の髪をなびかせた。


「……レン……」


彼女の声は震えていた。


今日に入って初めてのことだった。


「……私……」


「……」


「……私……」


彼女の頬が赤くなった。


言葉が喉に詰まっているようだった。


そして一瞬――


すべてが静まり返った。


遊び場。


川。


風。


すべてが。


「……私……」


「……あの……」


突然、私のスマホが振動した。


二人は凍りついた。


「……」


「……」


私はゆっくりとスマホを取り出した。


画面が明るくなった。


発信者表示:


[白崎葵]


アイリの表情が、ほんの一瞬、固まった。


ほんの一瞬だけ。


そして彼女は素早く視線をそらした。


数秒の間――


私たち二人とも動かなかった。


私の手の中で、スマホは振動し続けていた。


アイリの指が、私の指を包んでいた手をゆっくりと緩めた。


その瞬間は過ぎ去った。


あるいは――


無理やり過ぎ去らせたのかもしれない。


「…ごめん。」


私は彼女をちらりと見た。


「…出ようか?」


アイリはすぐに目をそらした。


「……いいよ。」


彼女の笑顔が少し早すぎた。


「……出ちゃって。」


私は躊躇した。


そして、電話に出た。


「……もしもし?」


「あ、あ――」


向こうから聞き覚えのある声が聞こえてきた。


「……高橋くん。」


「……白崎さん?」


一瞬の沈黙。


「……えっと……」


「……もう家に着いた?」


私はまばたきをした。


「……いや。」


「……外にいるんだ。」


「……アイと一緒に。」


その言葉が口をついた瞬間――


受話器の向こうの沈黙が変化した。


「……あ。」


少しの間。


それからまた一瞬。


「……そうか。」


彼女の声に、どこか違う響きがあった。


動揺しているわけじゃない。


ただ……


驚いているだけだ。


すると、ほぼ同時に――


彼女は言葉を訂正した。


「……ご、ごめん。」


私は眉をひそめた。


「……ごめん?」


「……え?」


「……なんで謝ってるの?」


「……私……」


また一呼吸。


そしてすぐに――


「……な、特に理由はないわ。」


「……ただ、もしかして……と思っただけ。」


「……いいわ、気にしないで。」


私はますます混乱した。


「……白崎さん?」


「……とにかく!」


彼女の声が突然大きくなった。


「……何か邪魔してなかったよね?」


「……」


私はまばたきをした。


「……何?」


「……いや。」


「……別に。」


「……ああ。」


向こうから小さなため息が漏れた。


とても静かで、聞き逃すところだった。


「……よかった。」


そして、慌てて――


「……とにかく、気をつけて帰ってね。」


「……あ、あとアイリに『やあ』って伝えて。」


「……うん。」


「……わかった。」


短い沈黙。


「……じゃあね、高橋くん。」


「……じゃあね。」


電話が切れた。


僕は画面をじっと見つめた。


「……」


「……あれは何だったんだろう?」


返事はなかった。


顔を上げると――


アイリは静かに夕日を眺めていた。


「……」


僕はスマホをポケットに戻した。


「……それで。」


アイリが僕の方を見た。


「……ん?」


「……何か言いたそうだったね。」


一瞬――


彼女の瞳に何かがきらめいた。


そして彼女は微笑んだ。


小さな微笑み。


優しい。


どこか懐かしささえ感じさせるような。


「……いや。」


「……いいよ。」


「……本当に?」


彼女はうなずいた。


「……うん。」


「……もう遅いね。」


「……帰ろうか。」


私はもうしばらく彼女を見つめた。


そして、ようやくうなずいた。


「……うん。」


「……たぶんね。」


なぜか――


帰り道は、いつもよりゆっくりと進んでいるように感じられた。


空は次第に暗くなっていった。


街灯が一つ、また一つと点灯し始めた。


そして、気づく間もなく――


アイリが近づいてきた。


さらに近づいてきた。


そして突然――


彼女は私の腕を掴んでいた。


まるで昔のように。


「……」


私はうつむいた。


「……気持ちいい?」


「……すごく。」


「……あなたって本当に手強いわね。」


「……わかってる。」


私たちは歩き続けた。


通りの反対側から、数人の学生が私たちを追い越していった。


そのうちのひとりが、こちらをちらりと見た。


そして、もう一度ちらりと見た。


私はため息をついた。


「……ねえ」


「……ん?」


「……もし誰かにこんな姿を見られたら……」


「……たぶん、私たちをカップルだと思われちゃうよ」


アイリは一瞬もためらわなかった。


「……どうでもいいわ」


私はまばたきをした。


「……早かったね」


「……だって、気にしてないから」


彼女は私の腕を少し強く握った。


「……好きに思わせておけばいいよ」


なぜか――


その答えに、私は笑ってしまった。


ほんの少しだけ。


「……君って本当に面倒くさいな」


「……それに、君って本当に鈍いね」


「……それってどういう意味?」


「……何でもない。」


「……そうね。」


私の唇に笑みが浮かんだ。


「……うん。」


「……わかった、わかった。」


心地よい沈黙が戻った。


すると突然――


あることを思い出した。


「……あっ。」


「……何?」


「……ママとヒカリが君を見たら、きっと大騒ぎになるよ。」


アイリはたちまち顔を輝かせた。


「……待って。」


「……マジ?」


「……うん。」


「……今でも時々、君の話をしているよ。」


「……まさか。」


「……本当だよ。」


彼女の目が大きく見開かれた。


「……マジかよ。」


「……ひかりにはもうずいぶん会ってないな。」


彼女は手を地面すれすれに下げた。


「……最後に会った時は、ひかりはこんなに小さかったのに。」


私は笑った。


「……もう小さくないよ。」


「……ありえない。」


「……十分あり得るよ。」


「……いや。」


「……うん。」


「……いや。」


「……うん。」


私たちは二人で笑った。


自然と湧き上がるような笑い声だった。


無理なく。


偽りなく。


それから私は彼女を見た。


「……いつか遊びに来てよ。」


アイリはまばたきをした。


「……本当に?」


「……うん。」


「……ママも喜ぶわ。」


「……ヒカリもね。」


一瞬――


彼女の笑顔が、さっきよりも一層輝いた。


「……それなら、絶対に行くわ。」


「……絶対ね。」


「……よかった。」


やがて道は分かれた。


一方にはリクの家。


もう一方には私の家。


私たちはすぐには何も言わなかった。


二人とも分かっていたから。


ここで別れるのだと。


「……じゃあ。」


「……うん。」


「……また明日。」


「……また明日。」


私は少し振り返った。


立ち去ろうとしていた。


その時――


「……レン」


私は振り返った。


「……ん?」


アイリは静かにそこに立っていた。


夕風が彼女の髪をなびかせていた。


一瞬――


彼女は緊張しているように見えた。


それは珍しいことだった。


とても珍しいことだった。


すると突然――


彼女は一歩踏み出した。


私が反応する間もなく――


彼女は私のシャツをそっと掴んだ。


そして、


自分の方へ引き寄せた。


そして――


キス。


私の頬に、ほんの一瞬触れただけ。


柔らかく。


温かく。


私は目を丸くした。


「……」


アイリはすぐに一歩後ずさった。


顔は真っ赤だった。


「……」


「……」


しばらくの間――


二人とも何も言わなかった。


すると――


彼女は微笑んだ。


本物の笑顔だった。


子供の頃から数え切れないほど見てきた、あの笑顔そのものだった。


「……おやすみ、レン。」


「……うん……おやすみ、アイ。じゃあね。」


「……じゃあね……」


私は数秒間、その場に立ち尽くした。


彼女を見つめながら。


街灯が前方の道を照らしていた。


一つずつ。


アイリの姿が小さくなっていった。


どんどん遠ざかっていく。


やがて――


彼女は角の向こうに姿を消した。


夕闇に飲み込まれていった。


「……」


通りが急に静かになったように感じた。


あることに気づいた……


アイのキスは、シロサキのそれとは違っていた。


心臓が激しく高鳴ったり、頭が真っ白になったりはしなかった。


それは……


懐かしさだった。


子供の頃、彼女は何度も私の頬にキスをしてくれた。


悪い意味でのことではなく、彼女がいつもそうしていたので、私はそれに慣れていた。


思わず小さな笑いが漏れた。


ただ――


それが、信じられないほど彼女らしいと感じられたから。


「……」


私は首を横に振った。


私の顔に笑みが浮かんだ。


「……彼女は相変わらずだ。」


そして、久しぶりに――


過去を思い返すことが、苦痛ではなかった。


ただ、心が温かくなった。


ふと――


ある考えが頭をよぎった。


「……」


クエスト。


大切な人と過ごす時間。


大切な思い出を振り返ること。


幸せな思い出を作る。


私は夕焼け空を見上げた。


そして、あることに気づいた。


今日のどこかの時点で――


私はシステムの存在をすっかり忘れていたのだ。


クエスト。


報酬。


通知。


そのすべてを。


私の顔に、ほのかな笑みが浮かんだ。


だって、実のところ――


たとえシステムが私にあのクエストを課さなかったとしても……


たぶん、それでもアイリをそこに連れて行っていたはずだ。


それでも、あの草の生えた丘に横たわっていただろう。


それでも、星ノ宮の話をしていただろう。


それでも、くだらないことで言い争っていただろう。


それでも、昔の思い出を笑い合っていただろう。


それでも、日没までぶらぶらと歩き回っていただろう。


まるで、昔のように。


システムが今日という日を指し示してくれたのかもしれない。


でも、作り出したわけではない。


これらの思い出は、クエストがあったから生まれたわけじゃない。


それらは、私たちだけのものだったからこそ生まれたんだ。


そしてなぜか――


その考えが、妙に大切だと感じられた。


夕風が、もう一度私のそばをすり抜けていった。


私は微笑んだ。


そして、家路へと歩き続けた。


気づかないうちに――


本当に久しぶりに――


私の頭を占めていたのは、システムのことじゃなかった。


私の隣にいる人たちのことだった。


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