想い人の背中が(10)
「おい洋次、大丈夫か?」
自分が明確に意識を取り戻したのは、次の日の朝、学校に登校しながら、達也に声を掛けられた時だった。それまで曖昧に返事したりしなかったり、適当に話題を振ったり振らなかったりしていた俺は、達也に本当に心配そうな表情を向けられて、ようやく我に返った。
「あ、ああ! もちろん」
「……そうか、気持ちは分かるが、気を付けてくれよ」
「そうだな! 今日、テルはどうしたんだ?」
俺の質問で、空気が若干張り詰めるのを感じた。達也は見るからに驚いた顔をして、俺に説明する。
「さっきも言ったんだが…… テルは一緒に行きたくないらしいぞ」
「あ、そうか」
「やっぱ、何かあったんだろ? 昨日の帰りも、様子がおかしかったし」
察しの良くない達也は、テルから直接何があったかを聞いていないがために、今も俺とテルの間に何が起きたか、正確には分かっていないようであった。俺はもはや良助、慎悟や宇野たちに語ったようには説明できなかったが、達也にだけ言わないのも悪い気がして、俺は素直に言った。
「フラれたんだ。……俺の配慮が足りなかった」
「……まあそんなとこだろうとは思ったがな…… そうか、テルと洋次が……」
達也はそう言いながら、首を傾げていた。同性愛の世界にあまりに縁のなかった達也が、初めてそれを知るきっかけになったのが俺たちだ、といっても過言ではないだろう。それだけに達也も、違和感のようなものを感じてはいるようだった。
それから達也は俺の顔を見た。何と声を掛けるべきか、迷っているようだった。……こいつも中々に、純粋に良い奴だと思う。
「……何と言うか、大変だったな」
「まあ、それなりにな」
「よく分からないが…… お互い、後悔しなかったら良いな」
達也がかけてくれた言葉は、皮肉にも俺の心を突き刺した。後悔なんてしてもし切れない。あの時俺が手を出さなかったら。あの時俺がすぐ謝っていたら。テルの異変に気づいていたら。お互いの事にちゃんと口を出していたら。「別れるか」なんて訊かなかったら。……思い返せば、俺が失敗してきて、見過ごしてきた事がたくさんあった。
そのまま特に話す事もなく、達也と二人、学校に着いた。下駄箱で別れて、それから階段を上がった。正直、学校なんて来なくても良かった。しかし、あんなにボロボロになっても、無意識のうちに学校までの道を歩いていた。我ながら、真面目な高校二年生だと思った。
教室のあるフロアまで来て、トイレの前を通り過ぎようとした時、クラスメイト二人とすれ違った。特に声は掛けなかったが、二人の言葉が妙に耳に残った。
「マジで、鈴木美沙子ぶっ飛び過ぎだよな」
「『お嬢』とか呼ばれて優越感に浸ってんのも理解できないわ」
「みんなヘラヘラしてるけど、ああいうのマジ無理なんだよね」
……『お嬢』への、明らかな悪口だった。イジメのないバルガクとは言え、やはり浮いた生徒に対しては、ある程度そういった声が出る。お嬢はああいう性格だし、俺は仕方ないものだと思っていたけどな。
その時、女子トイレからお嬢が出てきた。ハンカチを手に、俺の顔を見て、何故かふっと笑った。そういえば今、話し掛けるなと言われているはずだ。
「……今の庶民の声、聞きましたの?」
「え? ああ」
「わたくしの感覚が理解できないのは当然ですわ。住んでいる世界が違うんですもの。……そう思いませんこと?」
この前のいさかいなど無かったかのように話しかけてきたお嬢。わけが分からなかった。だが、よく見るとお嬢の目元に、うっすらと涙の跡があって、何となくわけが分かった。
……昨日、俺に話しかけるのをやめたお嬢は、いっそう周りの声が聞こえてきたのだろう。頼めば色んな事をやってくれるクラスメイトも、心の底ではどう思っているかは分からない。少なくとも、お嬢の性格は全員が受け入れられるものではないのだから。
「……泣いてたのか」
俺は直球で訊いてみた。お嬢は見て分かるほど動揺した。
「な、泣いてなど!」
「……そうか」
俺は一度、お嬢の肩を叩いてから、目と鼻の先にあった教室に足を踏み入れ、自分の机に荷物を下ろした。するとすぐにお嬢もやって来て、いつも通り俺の前に座った。しかし、その表情はいつもと違って、憂いていた。
「……わたくしも好きでこうしているわけではありませんわ。ただ、こういう生き方しか、知らないんですの」
周りにはポツポツと生徒が居て、それぞれ世間話に興じているようだった。ポツリと漏らしたお嬢の心の声は、俺にだけ届いた。
「前の学校では、理事長と敵対していた事もあって、ほぼ学校中から悪い言葉を投げかけられたものですわ。……ですから、もう慣れました。わたくしはもう周りの事など気にしませんから」
弱さを隠して、ふんぞり返るお嬢。……どことなく、俺自身と重なった。俺のやり方が気に入らない奴だっている。でも俺は、たった一人、テルだけは守ろうとしてきたはずだった。みんなの前で、自信のある強い自分を演じながら、迷った時期もあった。
……結果、全て失った。テルはもう、振り向いてはくれない。
「洋次…… 貴方も、きっとわたくしの事を理解できないのでしょう」
「……そうかもな」
「昨日の件は不問に付すわ。よくよく考えれば、普通の人には理解できないですものね。そもそも、理解されたくもないですわ」
俺はあえて否定しなかった。お嬢のやり方が理解できないのは本当のことだ。しかし、逞しくそんな事を言いながらも、どことなく寂しい表情をしていたのが引っ掛かった。……お嬢も必死で、強がっているのだ。
「まったく、慣れたものですわ。これまでも、これからも、わたくしはきっと、ずっと孤独なのでしょう」
「……それじゃ、仲間だな」
お嬢は唖然とした。俺が初めて同調した事に、声を失っていた。しかし、きっと俺の笑顔が、いつものものと違うのだと気づいた瞬間に、彼女は見た事もない優しい微笑みを見せた。
「あら洋次。貴方も色々と、あるようですわね」
「まあな」
「良いですわ。家臣の世話をしてやるのも、主人の務め。何かあったらいつでも言いなさいな。わたくしの出来る事はしてやりますわ」
「そりゃ、頼もしいこった」
俺はニッと笑って見せた。お嬢も自信満々に笑っていた。正直、こんなやり取り、どうでも良かった。でも、今日はやたら大事な事の様に思えた。
ふと窓の方を見ると、太陽が煌々と輝いている。いつもみんなを引っ張って、明るく輝いている太陽だが、そろそろ雨の季節がやって来る。太陽は隠れて、光は遠ざかってしまう。
遠ざかってしまった太陽は、いつか思い出される時が来るだろう。
じゃあ俺は、テルの記憶から消えた時、また輝けるのだろうか――?




